今、内田康夫の「白鳥殺人事件」を読んでいる。
その中で、名探偵の浅見光彦が犯人一味の、集まっている句会に、乗り込み、犯人を追いこむのであるが、その方法に連歌を読むのである。
浅見光彦は、その中で、「時はいま、飴が舌切る、殺気かな」意味深な発句である。それを受けて、主犯は「みな神 魔去る 箕面の春山」と短冊に脇を描いた。

これだけで、犯人を追いつめ、自首を進めるが、主犯は目的が達成されれば、悪魔も神になる、ことを歌っている。

これは、連歌である。
連歌とは、第一句を「発句」、第二句を「脇」、第三句、最終句を「挙句」という。
「発句」は、最初に読まれる句で、五・七・五
「脇」は、発句に添えるもので関連がある、七・七
「第三」を繰り返し
「挙句」は、連歌を締めくくる句である。
 ここから、最後であるということを、「挙句の果て」という。

<例>
  「発句」 初雪や 無音の世界に 降り積もる
  「脇」  すべてを洗い 流す夕立

このような優雅な遊びを、戦国の武将などは行っていたそうである。

元に戻すが、明智光秀が本能寺に織田信長を攻める直前に、連歌師の最高峰、里村紹巴(じょうは)も席を連ねた席で、織田信長への犯意を暗示して、明智光秀が「発句」として、「時はいま、天が下しる、五月かな」のパロディを浅見光彦は読んだのである。
それを受けて、威徳院行祐が「水上 まさる 庭の夏山」と脇を読んでいる。
このパロディを主犯が読んでいる。
第三は、
里村紹巴が「花落つる 池の流を せきとめて」と歌い、本能寺の変を暗示している。

凡人には、わからんやろな~

私のように、「囲碁」をたしなみ、「花の絵を描く」四季の花アーティストになると優雅な遊びの「連歌」を歌っている、佇まいや、武将や僧の服装や、庭に流れる水の音や、風の声、鳥のさえずりなどが目に浮かぶ。


こんな情景が、目に浮かぶようであれば、凡人脱出 ・・・ ワオ!