鈴木大拙全集第29巻・書簡をまとめたものに、
1953年7月に、欧州から日本の古田紹欽宛の書簡で
ハイデッガーとの対談を大拙が自記したものがある。
(古田も有名な仏教学者)。
大変に興味深いものなので、著作権法違反かもしれぬが、
転載してみたい。正漢字を簡漢字にあらためる。いくつかに
分けてみる。
a:
七月九日 バーズルにて/ 昨八日午後、ブラック・フォレストの
真中にあると思はれるトッドモスの山の中から出て来て、
フライブルヒのハイデッガー教授を訪ねた。一時間余の会談を
遂げた。ザインに関する思想を中心にしたものである。/
ザインは、これを思想する人が、自らを両分しないで、自覚する
ところに在ると、自分が話したら、ハイデッガー教授は、それは、
どんな言葉で表現するかと問ふ。これに応じて、自分は徳山の
話をしたら、教授は別に何等の批評を加へないで、だまって首肯
した。/ 知らぬ人のために、徳山の話を紹介する。徳山は唐代の
禅師で、一般には臨済の喝、徳山の棒と云つて、禅者間では
やかましく(傍点あり)伝へられて居る。西暦七九〇年から八六五年
まで生きて居た。あるときの上堂に、左の如く云つた。/ 『問へば
即ち過(あやまち)あり、問はざれば又乖(そむ)く』と。そのとき
一僧あり、出て来て、徳山の前で礼拝し始めた。すると、徳山は
何も言はずに、打つた。僧は甚だ不平で、左の如く云つた。/
『自分は今礼拝したばかりなのに、何故、お打ちなさいますか。』/
徳山、すかさず答ふ。/ 『もしお前の口を開けるのを待つて居たら、
何の役にも立たぬわい』と。/ この話の前後かに、自分は附け加へて
おいた。一旦言葉に出すと、屹度矛盾に終るから、禅では言語文字を
避けて、ザインの所在を分明にすると云ふことを、附け加へておいた。/
ハイデッガーも、西洋では、主客分れて後の方面に向つて、大に
精彩を著けんとつとめる。東洋では、この方面に対して、興味をもたぬと
云つた。それに関して、自分は『西田哲学』なるものに対して、教授の
知れる範囲で、どう考へるかと問ふ。教授は、『西田は西洋的だ』と
答ふ。この答には、十分ならぬところのあるは、言ふまでもないが、
ハイデッガーは、この答の中に、『西田は西洋かぶれして居る』と
云ふ意味をも含めて居たやうに、ききとれた。果して然りとすれば、
ハ氏は、東洋には東洋的なるものを、そのままにして、発展させてほしい
と云ふ心持ちを有(も)つて居るのかしらん。なほ他日の考究をまつ。
b:
別れに際して、ハ氏は九鬼氏の墓碑の写真三、四葉を示して、
九鬼氏とサルトル氏との関係、それからサルトルとハ氏との関係を
語った。/ 九鬼氏がハ氏の下を去つて、巴里に赴き、そこで仏語の
先生を求めたとき、それに応じて来たのが、他人ならず、サルトルで
あつた。サルトルは九鬼氏から、ハ氏の哲学に導きこまれたと云ふ
のである。/ ところが、サ氏は、ハ氏によれば、十分にハ氏を解して
をらぬと云ふのだ。何故かと云ふに、サ氏はハ氏を学んでから、
デカート哲学に転じ、それでハ氏をサ氏一流の実存主義者にして
しまつた。サ氏は全くハ氏を了解して居ないと云ふのが、ハ氏の批評
である。なるほど、サ氏のアン・ソアとプル・ソアの対立には、
デカート式の名残がある。/・・・(略)
aの注解として、たしか、「戦前」から、西田哲学のドイツ語翻訳
作業はあったはずで、もしかすると、それでハイデッガーは西田(の
一部)をドイツ語で読んでいたのかもしれない。(鈴木大拙の『日本的
霊性』は英文のものをこの対談前に読んでいたらしい)。
aをどう解釈するのかには、猶予が必要であると思う。短い会見(しかも
初見)では深いことは話せないだろうし、ゆえに性急な判断は避けるべきか。
いづれにせよ、西田の無二の親友とハイデッガーとが対談したということに
意義がある(尤も九鬼や三木ははやくから親しかったのだな)。
bについて、これは前々から聞いていたことではあるのだが(サルトルは
ドイツ現象学をあまりにフランス的に「曲解」した)、ハイデッガー本人が
そう述懐していたことは私は初めて知る。