2つの関連事項の順番を問うている「そもそもの源となっているのはどっちなんだ?」といったどうでもいい因果性ジレンマ。
別に…w 卵だろうとニワトリであろうと自分の人生には関係ないのでw
ここでは、「楽しい!」と興味を持つ 出来事について心と体の状態、どちらが先か。
楽しければ心が軽くなり、それに従い体も活性化していきます。体の状態が上向きになれば自ずと心もウキウキしてくるものです。一見、「楽しいものがそもそも先でしょう?それがあって心身が良い状態になる」と結論付けてしまいがち。それでもいい方はそれで幸福なのだと思います。
楽しいことはそんなに起きない。これが私のような重度障害を背負う人間のデフォルトです。たとえば5万円の臨時収入があったとしましょう。それはうれしいものです。ここで思考を止め、行動も止めてしまえば「ずっとうれしいまま」。
ところがたいてい人という生き物は「この臨時収入、どうするか」を考えます。使うなら何に対して使うのか。ここで「今は結論が出ない」と気づけば「今使途を明確にしなくてもよい」となり、財布や通帳に臨時収入5万円が「あるまま」過ごせます。
「あるまま」過ごすと一定期間、うれしいままが続きます。何故なら使い道を企画する時間が増えるためです。
私たちは結果やゴールを目的として日々動いていますが、本当に楽しい時期は、目標達成に至るまでのプロセスにあります。
通販などで商品をカートに入れるまでのあの時間、実に楽しいものです。注文確定をクリックし、宅配が届くまでの1~2日もウキウキ。
しかしたいてい「届いて梱包を開くまでが楽しさの絶頂だった」ことに気づきます。
商品が粗悪品だった場合は最悪の気分。
商品が期待通りの良いものだった場合は使ってみたくなります。使うことに集中すると(服を購入した場合は着てみる。出かける)実は細かいデメリット、使う際のリスクに気づき、短所のほうが大きく見えてきます。商品に欠陥点がなかったにせよ、人間には飽きが来ますw
元も子もないことの繰り返しが人生。
そう達観してしまうと不幸なことに、欲というものが消えて行ってしまいます。
この極端な例が、何を隠そう、私自身。
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「今日も明日も、現在過去未来、すべてが無駄。元も子もないことの繰り返し。」結論に気づかないふりをして、今日まで生きてきました。実際のところ先天性の障害で8歳の時点で「何をやろうがむなしい」子供でした。
「それに気づかないふりをしないとこの先、苦しいね。」と悟ってからは、バカみたいにお気楽に生きてきたと記憶しています。
臨時収入5万円という設定でしたが、これが100万であっても同じ。(億となった試しがないからわかりませんw)
100万、あっという間。
物価が高すぎ、円の価値が・・・。
昨年、それに相当するかもしれない一定額を見ず知らずの人に喜捨金のように使い、それで充分に自分らしかった。誇りだとは思わない。いいことをしたとも思わない。どんなお金でも使う人次第で価値が変わる。私には必要がなかった。
タイガーマスク運動の伊達直人のようにカッコよくランドセルを贈るわけでもなく、「この額は私にふさわしいとはどうしても思えない」考えから、「人のためになればたぶん有効活用してくれる」ぐらいの軽さで。
眠って起きて、顔を洗って、少し歩いて、少し食べて、また眠ることができるなら自分は何の不満もありません。
痛みについても慣れてしまい、「確かに痛むが、不安視しているかどうかを考えたらそれほどでもないから別にいいや。」
この痛み、降り注ぐ夕立のように必ずやむ。たとえ梅雨のように長く続こうともいつかは晴れる。
この快晴もいつかは崩れる。
日常における選択肢2つで迷った際は、「どちらを選んでも大差はない」しか考えず。
そのほうが有益に時間を使えると私は確信しています。
時間はどこにも売っていませんので。
迷うだけ損。
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手品師・紀良京佑氏の技術
エアダブルという技法を知ったとき、たいして気にとめませんでした。
6か月経過したころ、紀良京佑奇術研究ノート(冊子)を読み返して実際にやってみると。
「おお・・・!」
珍しく感動。
無感情に近い自分が。
これはあとで気づきましたが、体の調子がとても良い状態だったことが要因でした。
心が先か、体が先か。
体かなぁ
健康に近ければドーパミン、セロトニンも正常に分泌して、錯覚であれ楽しさを感じることができます。
つらい出来事があったから心が沈むとは限らず、しっかりした芯があればつらい出来事も「別に」。鈍感にかわすことができます。
まず健康第一。
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勇気というものは危険です。
勇気を盾にして、猪突猛進してしまいがち。
どうなっても知らんw
ま、先のことはわからんわい
では最後に、特別視して強くオススメするわけではありませんが、紀良京佑さんの名作リンクを貼って記事終了。
びっくりします。
手品は趣味で研究するならいい。
観る人の気持ちになって考えると、現代において手品に関心を持っている人がどれだけいるだろうか、と。
手品なのだからトリックが存在します。
そのからくりがわからない。
このどこが面白いのか。
考えたらわかる奇術としてコインの予言があります。
指先のテクニックや奇術原理は専門的で、考えたらわかるものではありませんので、クイズ形式で披露するショーであるならコイン予言は喜ばれる。
ミステリードラマ、サスペンスもので倒叙(犯人が最初から分かっている)があり、まさに手品はそれです。
この不思議な現象を起こした張本人は手品師であり、まんまと錯覚の世界に引きずり込み、「不思議でしょう?」とドヤ顔。
これは古畑任三郎シリーズで犯人が警部補古畑に追い詰められず、自供もせずにドラマ終了と同じ。勝ち逃げ。
手品を見る側は、それが我慢できない人が多いものです。
錯覚を楽しもうとか、夢の世界へとか、それは海外の文化です。
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