朝のワイドショー、情報番組は打ち切らなくて良い。別番組に様変わりすることもない。

単純に「正確に原稿を読める人が、一般に通じる日本語で(意見を含めて)良識と事実を伝える番組」であれば、打ち切る必要がどこにあろうか。

 

あるとするなら出演料の高さ。ギャラ、ファイトマネーと言ったほうがスッキリ来る。

当初、加藤浩次さんは情報番組司会の匂いがなかった。乱暴で、決して1流とはいえない芸人さんのイメージが邪魔して、朝の顔に相応しいとは思えなかった。

 

芸人さんがワイドショーMCを演ると便利なことがある。

失言、事実誤認による発言があっても、芸人ならではのジョークに置き換えて視聴者が聞けるケースが有ることから、発言の幅が広い。恵俊彰などは「通常は言いにくいことを笑顔でコメンテーターに訊いてしまう」手法を多用・多投する。長嶋一茂はコメンテーター側で恵俊彰式問答が可能な貴重な存在。

 

加藤浩次さんはその誤魔化しをやらなかった珍しい司会者。

「芸人はお笑い芸で。情報番組は情報で。」

きちっと分けて正当派司会者を目指したように感じる。

 

10年ほど前、あるタレント議員が加藤浩次と小倉智昭に突っかかっていったことがある。

「おふたりともに朝の情報番組をなさっておられるけれども、現場を見ていないじゃないか。本当の悲惨な状況を、足を運ぶ取材をやっていない」

とくダネ小倉、スッキリ加藤は顔色ひとつ変えず「手が足りないという事実はある。時間も人も足りてない。でも『何一つ現場を知らないで司会している』訳では無い。あなたが思っているよりは、やってる。」

 

このときの加藤浩次さんに嘘が感じられなかった。

「充分ではないがやっている。全くやっていないというのは看過ならない。」という即答は見事だった。

 

本当かどうかはわからん。

こっちは視聴者。

ただ、本当ではないことを言っていたにせよ、加藤浩次には誇りのようなものが感じられた。

 

この誇りと、頑健さと、吉本興業の看板に頼りすぎない「何かあれば全部自分の責任」という芯の通った姿は、やがて「二流芸人加藤」を「押しも押されもせぬ、誰もが一目置く1人の司会者加藤」に育てられた。

 

情報番組に限らず、帯番組は番組名イコールメイン司会者の名前、もしくはメインキャラクターの顔である。

「ズームイン朝」徳光和夫、福留功男、「午後はまるまるおもいッきりテレビ」みのもんた、「笑っていいとも」はタモリさん、「とくダネ」小倉智昭、テレ朝のモーニングショーは羽鳥慎一または玉川徹。(そういう意味では「ラヴィット」といえば川島明とパッと浮かぶようなところまで来たこと、この功績は大きい。耐え忍び、辛抱することの大切さを物語ります。)

 

番組名イコールメイン司会者の域まで来ると1人前。加藤浩次さんもその域まで到達。賛否あれども話題に上るぐらいだから。

 

殆どの人が「ナイナイ岡村の後ろに立ってる奴」と加藤浩次を背景化して見ず、「スッキリの加藤浩次」と見るように。

 

もちろん数字も上がる。

17年も続いたのだから。

この数字が下がるとどうなるか。

「スッキリの加藤浩次」は看板であり外せない。

(ある方が言うには「もう地上波の時代ではない」)

外せないのに「スッキリの加藤浩次」の看板は大きいままだ。

採算が取れなくなって淘汰されていっただけ。

 

スッキリは終わらなくていい。

 

単純に「正確に原稿を読める人が、一般に通じる日本語で(意見を含めて)良識と事実を伝える番組」であれば。何も加藤さんに頼らなくても続けられる。局側としては「スッキリに加藤さんがいないと困る」だろうし「17年頑張ってくれた恩義」があるのかもしれないが、誰のために番組があるのか考えて欲しい。局のためかもしれない、加藤さんのためかもしれない、スポンサーのためかもしれない。でも根底にあるのは「事実を知りたがっている視聴者のため」のはずで、だったらスッキリは終わらなくていい。恩義がどうのこうの、知ったこっちゃないのです。

 

プラス。条件として「地上波の情報生番組に需要があるなら」。終わる必要ないけどね。