古畑任三郎シリーズ『笑わない女』(宇佐美先生役:沢口靖子)は犯人が一貫して嘘をつかない珍しい回です。

ラスト、古畑が差し出す白湯の味に対しても正直に答えたシーンには驚きました。


さすがに犯行シーンでは嘘をつかざるを得ないだろう。そう思いましたが。




宇佐美先生:「授業でジェイムズ・ジョイスを使いたいのです。先生はお持ちじゃなかったかしら?」
阿部先生:「ジョイスですか」
宇佐美:「うちの図書館、欲しい本があった試しが無いのです」
阿部:「ジョイスの、何を?」
宇佐美:「ダブリン市民」
阿部:「あると思いますよ」

阿部:「えーっと・・・」
宇佐美:「それじゃないかしら」

凶行。

宇佐美、フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』を本棚から抜き出して床に落とす。



犯行シーンに於いても、宇佐美先生の言葉に明確と言えるような嘘がありません。
当初、″ダブリン市民を借りに来たのに借りない″宇佐美先生に嘘の匂いを感じました。

しかし、彼女が言った内容は「ダブリン市民を使いたい」。本当です。授業で使いたいのです。

「阿部先生、お持ちですか」。ダブリン市民を借りたいとは言っていません。ついでに言えば、持っていないとも言っていません。

「図書館に欲しい本がない」 これも本当です。

「(ダブリン市民は)それではありませんか?」本当です。そこにありました。



「欺く」という言葉を「だます」と訳してしまえば宇佐美先生は不意打ちをし、事故に見せかけるために現場にあるとあるモノのサイズを測り、確かに人をミスリードしようとしています。誤った方向へ思考を行かせようと騙して、逮捕されまいとしています。嘘をつかないから宇佐美先生が潔くて正直というわけではありません。

「欺く」という本来の意味は「偽りの言葉によって、本当ではないことを本当だと言いくるめる」ことです。言葉(台詞)に重点があり、嘘を言っているかどうかで欺いたか否かが決定する、そう結論づけました。勉強になります。

ここは宇佐美先生の徹底した姿勢に敬意を表し、彼女はけっして人を欺いてはいないとします。いや、決めました。そういう説得力が随所にあるのです。あの有名なアリバイを訊かれたシーン以外に。細かく。微に入り細に入り。



・物証について


宇佐美:「古畑さん。例のボタンの件ですけど。ずっと前から床に落ちていたという可能性はお考えになりました?阿部先生が倒れた時、それを偶然つかんだ。そういう考え方もできるんじゃありませんか?」

ここ。古畑任三郎を欺く意図が感じられる台詞です。
でもセーフです。


「古畑さん。例のボタンの件ですけど。ずっと前から床に落ちていたんじゃないかしら?阿部先生が倒れた時、それを偶然つかんだのです。そういう考え方も充分ありえます」なら、ちょっと苦しいかなと思います。

宇佐美先生は、あくまでも「古畑さんはこういう可能性をお考えになりましたか」と質問しているため、嘘にはなりませんし、欺いたとも決めつけられません。

宇佐美先生は殆どの重要なシーンで問いかけの形式で話しています。実に巧妙。



・最も危険な古畑との自己紹介:宇佐美先生の場合


古畑さんと宇佐美先生の初対面シーン。

宇佐美:「事故ではない、と伺いましたが?」
古畑:「ええ。まだ決まったわけではないのですども。」
宇佐美:「信じられませんね」
古畑:「我々としましてもあらゆる可能性を、ですね」


この宇佐美先生の「信じられませんね」が本編唯一の彼女が発した嘘だと確信しました。しかし即撤回しました。私の中で。

事故に見える現場。
「事件性がある」と聞いて、事故ではないことを百も承知の宇佐美先生が「信じられませんね」と言ってしまっては、間違いなく嘘になります。「事件性があるとは信じられませんね」だったらの話です。

この明らかな嘘を「嘘ではない」と仮定しました。
すると宇佐美先生の心の動きが見えるのです。
2つ、考えられました。

1,事故に見せた周到な計画なのに、事故ではないと古畑さんが言う。この鋭さに対し敬服し「信じられませんね」

2,古畑が言う「事件性があると決まったわけではない」に対し、「間違いなく事件」と知っている宇佐美先生が「(決まっていないとは)信じられませんね」

ここでも嘘をつかない宇佐美先生。
見事。



『フェアな殺人者』と並んで″嘘をつかない犯人″が登場することで有名な『笑わない女』。
でも前者(イチロー)は作中に、古畑任三郎たちの前で1度嘘をつき、それ以外のシーンでも″嘘をついたことを認めるシーン″があります。比較にならぬほど後者・宇佐美先生は頑なにルールを守っていました。十数回ビデオを見ましたが『笑わない女』で犯人の嘘は何一つありません。徹底しています。

 

(イチローは演技が上手いですが・・・どう考えてもミスキャストな人がいました。繰り返し再生に耐え難い。惜しい回です。)



・ドラマ【古畑任三郎】の弱点

 


全ての回が名作と思われる【古畑任三郎】。
ただし、動機の面ではやや陳腐です。

倒叙モノとしての雰囲気全体、演出の妙という面では『死者からの伝言(主演は中森明菜さん)』がベスト。全話中で最高傑作です。【古畑任三郎】を象徴する回。

【古畑任三郎】の見どころでもある、″初対面にもかかわらず、早々に容疑をかけてしまう根拠、古畑が「この人が真犯人だ」と確信するシーン″の凄みは全話が素晴らしいです。

 

なかでも「なるほど」と感じたのは『若旦那の犯罪(当時・市川染五郎。現・松本幸四郎)』、『完全すぎた殺人(福山雅治)』。この2話が突出しています。

笑えて、コミカルで楽しいのは勿論、『間違えられた男(風間杜夫)』、『雲の中の死(玉置浩二)』。トリックがどうでも良くなりますw

ハラハラドキドキ感ではダントツで『赤か、青か』(木村拓哉)。ただし古畑得意の追い詰め方に穴はあります。あれは″犯人でしか知り得ない秘密″とは言い難いと信じています。尤も、この回は時間制限があり、緊急事態ですからやむを得ません。穴があっても許せる面白さがあればドラマはそれで良いのです。

犯人のポリシーの在り方、映像全体の雰囲気の良さでは『最も危険なゲーム』が好きです。江口洋介さんがかっこよすぎる。台詞を聞いていると二代目古畑任三郎でも良いぐらいスマートでクレバーに感じます。草刈正雄さんも古畑任三郎役にいいかなと思いましたが、既に犯人役で出演なさっておられます。(『ゲームの達人』。感情変化という心理トリックを使った傑作です。)

現実的かどうかはともかく、ちょっと考えられないぐらい完璧な完全犯罪というテーマに重きをおいたのは『今、甦る死(石坂浩二、藤原竜也)』。石坂浩二さんが出演なさっておられるおかげで、金田一耕助シリーズの空気がムンムンです。完全に真犯人に騙されてしまい、全くオチが読めませんでした。

オチが読めないといえば『動機の鑑定』。「え?まさか・・・!」でした。トリックや犯行動機は大したことはありません。死因は撲殺が多い古畑任三郎。銃殺は『ゲームの達人(草刈正雄)』、『忙しすぎる殺人者(真田広之)』、『最後の挨拶(菅原文太)』ぐらいかな?いや、意外や意外、『動機の鑑定』の犯人は和服に拳銃といういでたち。銃殺です。

 

木村拓哉さんの回、凶器は爆弾じゃないんですよ。観覧車に時限爆弾が仕掛けられるあの今泉巡査災難のストーリー。

ぱっと凶器を答えられる人は相当なファンです。

自供に追い込んだ犯人連行のシーンで粋な演出だった回は『哀しき完全犯罪(田中美佐子)』。大した話ではないのですがなんでだろ? 何故か好きな回です。被害者役(小日向文世さん)の演技が並外れて上手く、「コイツ嫌な喋り方するなー」と感じさせます。「~しなさいっ!」。なかなか出来ない発声です。役者って凄い。

『すべて閣下の仕業(当時・松本幸四郎)』、『最も危険なゲーム(江口洋介)』、『最後のあいさつ(菅原文太)』、『古い友人に会う(津川雅彦)』。これらは古畑さんの人生に対する考え方、刑事という職業を超越した名言が光る傑作です。トリック云々よりもこういうシーンが好き。

 

「閣下。正直申し上げてどうでもいいことです。私にとって大事なのは・・・」 

『すべて閣下の仕業』は46分で解決するレギュラー回とは違い、長編で、登場人物も多めです。そのため、タイムミスディレクションが使えます。人は時間経過と共に、当初感じた内容や感覚が徐々に曖昧になるのです。見たときには気づいていた事実を忘れてしまい、まんまと引っかかりました。「ああ、そうだった!」です。

『すべて閣下の仕業』と『今、甦る死』には共通点があり、古畑さんの表情からうかがい知るに、『閣下』のほうは「もしかしたらそうなるかも知れない」と未必の意図があったかなと思いましたが・・・何とも言えません。

『死者からの伝言』でも犯人を自供させた直後、連行せずに拘束もせずに加害者の身柄を自由にさせています(外出はさせていません。結果的には今泉巡査が小石川ちなみを監視)。

 

ああそう言えば。
『黒岩博士の恐怖(緒形拳)』と『今、甦る死』にもある種、共通点がありましたね。
伏せておきます。

 

 

 

 

・ありえなさに目をつぶらせるドラマは傑作

刑事ドラマはドラマですから、ありえないことの描写にある程度、目をつぶらなくてはなりません。

例えば刑事が容疑者にわざわざアリバイを訊いたりはしないはず。最有力容疑者と決まれば、です。

警察は弁護人ではないのですから、被疑者有利の材料を集める必要性はありません。かなり多くの刑事ドラマは被疑者にアリバイを訪ね、わざわざそれを崩さなければならない遠回りな捜査をしています。ありえないでしょう。

 

でもそこは「ドラマだから。」で許す視聴者がいます。また、許さなくてはドラマが進みません。

「ドラマだから」で許す要素に警察手帳の色や形という要素があります。
本当の警察手帳はこういう形ではない、またはこういう形ではないのかも知れない、という要素に気づいても、ドラマであればそこは「まあ。いいか。」と避けておくものです。頭から外して考えます。

そういったありえなさを逆手に取って物語が進行すると視聴者は怒ります。アンフェアですから。ドラマ・古畑任三郎が許されるわけは、そのありえなさをメイントリックにしていないからです。あまりのありえなさに立腹させない演出の巧さ、これがあればそのドラマは素晴らしいのです。

 

古畑任三郎ではない、ある刑事ドラマで職種から考えて絶対にありえない供述内容があり、以降、見なくなりました。ドラマタイトルは伏せます。悪い例です。







思い出します。

『忙しすぎる殺人者(真田広之)』を見終えてしばらく経過した時(約10年)、私は一冊の小説を書きました。メイントリックは異なりますが、『忙しすぎる殺人者』内で気づいた″人間の錯覚、盲点″を利用したものと同一と気づき、発行・出版はおろか、原稿の提出もやめました。その代わりにクイズとして何十人にも出題することにし、未だ何方も正解しておりません。良いドラマはこういう付録を私達にプレゼントしてくださいます。

このように、挙げればきりがないほど古畑任三郎は全てが名作。嫌いな話は3つ4つありますがそれは置いておきます。

何を言いたいのかと言えば。
全てが名作の割に犯行動機がありふれている。

動機の面で凄みを感じたのは『笑わない女』、これ一本です。

古畑さんが「状況が飲み込めました。(疑って)申し訳ありませんでした。本当に申し訳ありませんでした。」と犯人に対し真剣に謝罪するシーンが有る珍しい回です。

それぐらい動機を絞ることが難しい『笑わない女』。

良い作品でした。









えっと


 

まあ・・・

 

やめましょうw