今朝、シャワーで洗髪中に背中をひねり、痛くて動きにくい状態でした。

ちょっとお友達と約束があって、軽い手品を見せ合ったり奇術談義する日だったのですが、一向に痛みが止まりません。スタンディングでのマジックじゃなければ(椅子に腰掛けていれば)なんとかなるかなと、暑いなか、とある会館に行きました。6名しかいませんが、距離は充分に取らないといけないため、教室のようなところを借りて。勿論、一回ごとテーブル、椅子、用具を消毒しながら、マスク着用です。

 

話した内容は、予言メモを置いた直後にフォースし、カード予言をすることに対してのメリットとデメリット、技術に頼るかギミックの威力に頼るかなど、あとは知恵の輪のようなマジックの良さと、パス、パームなどの各種技法、話術についてです。8時間ぐらい話したかも知れません。

 

演技冒頭に明らかに予言とわかるメモを置いて、カードを選ばせ、単純に一致していることを示すだけであれば、奇術の質や状況によりますが自分は反対派です。理由は2つ。ショーの結果が予言マジックであることが冒頭にわかってしまうこと。これは映画のラストシーンを冒頭から知っているようなものです。ゆうきともさん、野島伸幸さん、からくりどーるさん、マジックナポレオンズさん、新子景視さんは「まっすぐの予言」はあまりやりません。必ずワンクッション起きます。何を見せてくれるのだろう?とワクワクします。ゆうきさんの『アフターサービス』はフォースはフォースでも最小限の用具を最大限に使い(略)

 

もうひとつの反対理由はいかに高度な技法使用であれ、「この奇術の原理はフォースである」とわかってしまうこと。ラストシーンがわかって、「何故そうなったのか」の経緯、顛末がわかる映画は楽しくありません。ですから反対なのです。例えば『偶然を視野に入れる予言』であれば面白いと思います。「まさか」の世界です。

 

超魔術師・Mr.マリックさんやリアルマジシャン・RYOTAさんであれば「どうやって予言成立させたのかわからない」というところが魅せどころですのでそのままガチの予言でも良い、「これから予言をお見せしますよ」と言ってしまっても良いと思います。しかし通常、マジシャンは一捻りの演出をショーに加えるものです。「アマチュアに演出が必要か」という問題も当然浮上しましたが、『予言メモを置いてカードを選ばせたら百人が百人、「どうやって帳尻を合わせて予言の一致をさせるのだろう」と注目するので、やはりタイムミスディレクションなどワンクッション置いたほうが良い』という意見を通しました。「帳尻合わせの瞬間」を待ち構えている観客に、直接的なすり替えのフォースはミスディレクションが効きません。リフルフォースもそうですが身構えている観客の前で、トップチェンジ、ジンクススイッチなどはもってのほかです。技法に自信があればあるほど使いたくなるものですが、技法でフォースしてもフォーシングデックでフォースしても、現象は同じです。そして印象は「フォーシングデックのほうが自然」。身構えていてもわかりませんよ。

 

「見えないフォースなら身構えていても見えないから、ギミックを使ってもいいのか」という質問には「良い」と答えました。私達アマチュアは、マジックのどの部分、何を見せたいのか、何のためにマジックを演るのかを考えるべきで、不思議という観点を見せるのが目的ならギミックを使っても構わない。技術を見せたいなら技法でフォースしても良い。ただしフォースという技法は本来「見えない」ものであり、魅せる華にはならない。ましてや私達アマチュアの技術なんぞ、たかが知れている。優秀なギミックでフォースしたほうが安全で、お客さんも安心して見ることができる。

 

忘れてはならない。

ヘタな手品師の手品を見続ける客の思いは拷問に等しい、と。

客にストレスを与える奇術は演ってはならない。

「プロ並みに、いや、プロ以上の技術を持つアマチュアはとても多い」というのは迷信です。実践に長けている技術を持っているのはやはり百戦錬磨のプロ。

 

「では予言の駄目な例を見せてほしい」と言われ。

ああそうか、良い例として掲げたギミック(ワレット)は持ってきていない。駄目な例を見せる、か。

 

相手に混ぜてもらったトランプを借りて、トップカードをピーク、メイトになるカードを「予言です」と明言してカードケースに置く。カードケースの上に置いたほうが後で取り上げやすい。カードケースは演者から見て右前方。

両手の上でスプレッドして左側にいる客に、自由に1枚触れてもらう。タッチされたカードをアウトジョグして抜き出し、右手に持つ。

デックを閉じた左手でカードケースの上の予言カードを取りに行く動作の際、どうしても体の向きは右方向へ向き、左手は右手に近づくのでここでトップチェンジ(デックのトップカードと客が選んだ1枚を丸々すり替える技法。)する。右手に持っているカード(元トップカード)とカードケース上のカードはメイトで一致する。

 

自分の左にいた人は「どうやった?」と訊いてくる。トップチェンジがうまくない自分でもブラインドになっていればすり替える瞬間は見えにくい。「トップチェンジだよ」と言うと、自分の右にいた人も「トップチェンジしたかな」と言う。ああそうか、それはこういうことだと説明した。

 

 

・「ああそうか、それはこういうことだ。」 について

 

手品師は、右手に持っているものと左手に持っているものを人知れずすり替える(交換する)場合、気づかれてはならないという意識が邪魔して、素早くスイッチしようとしたり、「音を立てちゃいけない」と思ったり、色々意識する。後ろめたさがある。

ところが、今は『駄目な例』を見せているため、一切の後ろめたさがない。隠そうともしていないし、ゆっくりすり替えて左右の手を動かしている。そのため、見えているはずのトップチェンジが意識に残らないのである。

 

つまり、単純に左手でケースの上のカードを持つ時、ササッと目にも留まらぬ速さで手を動かす必要はない。その通常速度「ゆっくり」を保ったまま、ゆったりとトップチェンジを「見せるように」してカードを手にしていたので凝視していれば絶対に気づくはずだ。気づくかなかったのは技法を使う匂いがしなかったからである。私のトップチェンジはけっしてうまくない。本番だったらバレる。自分は本番なら確実な方法しか使わない。

 

「今のそれ、そのままカード予言に使えるんじゃね?」という声もあったが、「そんなに甘くない。状況が違う。今は手品仲間の、奇術談義の中での1つの例として見てるでしょ。本番は手品、ショーとして見てる。見方が違う。『予言です』と明言してカードを置いたら、その直後、客は自分がタッチしたカードの行方を必ず追う。追えるところまで絶対に追う。もし仮にトップチェンジ使用にバレなくても単なる技術自慢(自己満足)に過ぎない。『どうやったかわからんがなんか今やったような気がする』じゃ駄目だよ。予言は予言として見せなきゃ。『私には未来がわかっていましたよ』感がなきゃ予言じゃない。」

 

「トップチェンジは予言に使うな、ってこと?」

「いや、そうじゃない。予言のメモやカードを置く時、何も言わないでなんとなく置くなら何が始まるかわからないから、それはやっていい。『予言です』が駄目。絶対に警戒される。どんなにうまくても『トップチェンジうまいですねー』って言われたら終わりだよ。」

 

あとは「カードばかりじゃなくコインバニッシュとか、出来る限り用具が少ないマジックを覚えたほうがいい」といったお話をして解散。

 

解散した直後、背の痛みに気づきました。

熱中しているときはわからないものです。

 

でも、もう手品師は駄目だろうね。

「途中でできなくなるかも知れない手品師」なんか何の値打ちもない。

 

帰宅中の車内で、「小泉さん、さっきの予言とか技法とかたくさんの持論はどこでいつ学ばれました?」と訊かれ、「んー・・・それ訊かれると困るけど。最初から知っていた。もしくは記憶。ちっちゃい頃から山程マジックを見て、なかなか忘れられない。」

 

知識とは「得るもの」とは限らない。

「持っているもの」かも知れないし、「舞い降りてくるもの」かも知れない。