理由は使い方が難しいから。

自分は柔道をやっていましたので「逆関節」という言葉はよく耳にしていました。意味は関節技のこと、もしくはその効果のことです。本来曲がる方向とは逆の方向に曲げるということです。「関節を逆に取る」のようにも言います。(本来は「関節を取る・関節をきめる」です。正式名称:腕ひしぎ十字固めを「逆十字」と呼称するのはプロのリングでの攻防から実況アナが叫んだものと思います。テレビの影響で我々柔道部員も逆十字と呼ぶ癖がありました。十字固めのような関節技は曲がる方向の逆に決めるものですので、名称に逆と名前につくほうがおかしいのです。)

柔道をやっていたときは使っていた言葉ですが、昔の『日常では見られない珍しい人間・獣などを見せる小屋での興行』にて、『逆関節』といえば関節の変形症状を指していたそうです。自分は図書館でその事実を知りまして、大変ショックを受けました。「平気で使っていた日本語が、気の毒な身の上・境遇の人を指す言葉になりうる。気をつけよう。」

 

幸いにして「逆」に変わる言葉に「反対」がありますので、「逆」と言いそうになったときは頭の中で変換して「反対」と言っていました。

 

「真逆(まぎゃく)」という慣れ親しんだ言葉も本来は無い言葉で、「真逆(まさか)」が伝統的な読みです。しかしこれだけ多くの人が「まぎゃく」を使いますから、否定もしませんし、自分が使うときは「正反対」と言っています。

 

「逆ギレ」。これも難しいかなと思います。ただ単純に激しい勢いで怒り出しただけで「逆ギレ」という使い方が多いですが、それは「逆上」です。「逆ギレ」は怒られる立場にいる人が怒り出すことです。

 

「逆説」。ぎゃくせつと読みます。使い慣れた印象がありますから「自分は大丈夫。きっと本来の使い方をしている」と思っていました。ところが「逆説」をきちっと使うことは意外に難しく、また周囲でも本当の使い方で話されているのかこちらにはわかりませんので、使わなくなった言葉です。(僕が使わないだけ。)

 

同じ読みで「逆接」があります。これの意味を伝えることは難しく、「逆接」自体、「逆説」がある以上、日常使うことが少ない言葉です。浸透していないなら使わなくてもいい。よって自分の中の語彙から削除しました。「逆接」の意味はイメージで語ると「~ても」です。「歯が痛くてもチョコ食べたいよね」のような。まあ、「逆接」と前提しなくても、直接そう言っちゃったほうが早いなと思います(笑)チョコ美味しいよね。

 

「逆に言うと、」 これも本当に逆に言ってるかな?と思っちゃいますね。導入部分をどうしていいかわからないので「(とりあえず)逆に言うと」と言っておけばいい感があります。内容を聞くとそれほど逆でもないことが半数だったり。

 

このように「逆」がつく言葉は使い方も捉え方・受け方も難しいため、出来る限り使わないか、使うときは充分留意して使っていました。

「逆転勝利」は問題なく使えそうですがそれでも野球の場合、劣勢に立っていたものが勝つこと全てを逆転勝利とは言いません。(初回に5点取られ、0-5で進み、8回に追いついて5-5となり、9回に1点取って勝った場合、逆転勝ちとは言いません。9回裏に本塁打を放った1点であれば「逆転サヨナラホームラン」と言いたいですが、この試合の流れではサヨナラホームランです。)

 

「逆風」は使っても大丈夫だろうと思います。ただどうして「逆の風」なのかわからないときは「向かい風」を使うようにしています。何に対しての逆の風なのか、とか、「追い風」を「自分の正面に吹く風」と誤解している人と話す時などは曖昧にせず、ジェスチャーを交えて「こう来てる風」のように。

 

「逆」とついたら使わない。「反対」を使おう。これが自分の基本ベースでした。

最近になって、「ここは『逆』を使わないとニュアンスが伝わらないよな」と感じたら迷わず「逆」と言っています。相手が「まぎゃく」を多用しているのに自分は「正反対」で対応していると、なにか1回毎、人を正しているような気がして嫌ですね。

 

「逆」と同じぐらい避けていた言葉が「的」です。(「~てき」。)

「的」は意味が広すぎ、正確に使うこと、使いこなすことは難しいと思います。

「逆説的には」と聞くと「この人はどういう意味で使っているのかな」という疑問が先に立ち、集中しにくいものです。「逆説」と「的」の2つが同時に飛び込んでいますから。

 

「~は、こうです」と言い切りたくないときに使われる「的」には何の意味もない、そう思っていました。

 

「広さは東京ドームぐらい」

「広さ的には東京ドームぐらい」

 

「ぐらい」をつけるなら「広さは、」で良いと思いましたね。

 

日本人は「~のような、」「~風(ふう)の」というぼかした表現を好むのでしょうか、「Aとは言えないけど、Aのような、Aみたいな感じで、」と言いたいときに「的」は多用されます。

 

バラエティ番組で「今見ていただいたVTR、タモリさん的にはどう思われますか」と訊かれ、「なんだそのタモリさん的って!」と(ジョークで)怒っていたタモリさんを思い出します。「タモリさんはどう思われますか」で、何の問題もないということでしょう。

 

「アタシ的には」は、もうOKです。これをいちいち否定していては会話が進みません。「私は、」と言い切りたくない方の謙遜した表現だと思っています。本来は誤用であっても流さなければ(見逃さなければ)ならない言葉は山ほどあります。「アタシ的には」と同義語はおそらく「個人的見解になりますが」、「私見になりますが」、「持論を述べさせていただけるのであれば」などです。日常会話なら「アタシ的には」はOKにしています。公の場では勿論NGです。

 

仕事でたくさんの商品レビューを読みます。

購入者の感想を求めているため、レビューはすべて「アタシ的には」が前提です。「アタシ」が感じた印象。

「買って、実際に使って私が思ったこと」がレビューです。「あなたの(個人の)感想を述べてください」と言っているのに「個人的には」から入るレビューの多さには当初、あきれました。「だから!それを求めてるんだってば!」とイライラしましたね(笑)

 

現在では「個人的には」にも慣れました。

慣れた自分が言うのですが。

 

「買って良かったです。個人的には使いやすいと思います。いいですねー。」

 

これはダメ。

 

全部意味を反対にしてみると何故ダメなのかわかります。

「買って損をしました。個人的には使いにくいと思います。悪いですね」

 

どこがどう悪いのかわからず、レビューとして成立していません。

ですから「買って良かったです。個人的には使いやすいと思います。いいですねー。」もダメです。

 

女性に対し「綺麗ですね」「美人ですね」「可愛いですね」 

これは具体的に「どこがどれぐらい美しいか」と言わなくてもいいかなと思いますが、商品に対しては「ここがこうだから良い」と書かなければ参考になりません。

 

「逆」の話からそれたようです。

 

ここで。