フィリップ・キャンデロロのストレートラインステップを見た時、目を疑った。

いつ剣を持ったのか。

 

長野オリンピックフィギュアスケート競技は一生忘れられない。

勿論、キャンデロロは剣を物理的に持っている訳ではない。

それでも誰の眼にも剣が見えた。

 

何の予備知識もなく見たフランス人。縁もゆかりもない。要はいかに上手であろうが他人、ただのオッサンだ。

今でこそ「こんなにかっこいい男性はいない」と信じて疑わない存在だが、当時は特にキャンデロロに対して何の興味もなかった。

何の興味もなく、予備知識もなく見たのに、リンク上に立つと同時に一瞬で場を支配したキャンデロロの手には剣が見える。

表現力というものは、磨けばここまで輝くものなのか、と涙が流れて感動した。

あれを見せられたら、ダルタニアンはもはやキャンデロロのテーマである。真似できない、手を出しにくい壁がある。

キャンデロロの周囲には複数の鳥が舞い、花が咲いて、それも紛うことなく、間違いなく、見えている。

 

 

フィリップ・キャンデロロ

 

 

 

 

僕にとってのフィギュアスケート世界一は何人もいる。世界一とは1人とは限らない。何人いても構わない。

荒川静香さん、浅田真央さん、安藤美姫さん、高橋大輔さん、エリザベータ・トゥクタミシェワ、羽生結弦くん、フィリップ・キャンデロロ。

トリノ五輪の荒川静香さんにはそれこそ誰も敵わない完璧さがあった。そのシーズンの全日本選手権では3位でも、トリノ五輪フリーでは誰も敵わないということである。

 

蝶が見える。浅田真央さんの周りに。

浅田真央さんの手から発せられた炎が見える。

羽生結弦くんの周囲に、拍子木を打ち、小鼓を叩く袴姿の人物が複数、見える。

 

皆、魔法使いだ。

 

表現力とは、磨けばここまで輝くものなのか。

もはやそこは氷の上ではなかった。

 

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イチロー選手のルーティンは魅せるためのものではないが、バットが日本刀に見えることがあった。

 

 

 

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無声映画時代を除くチャールズ・チャップリンの映画は全て彼の声でなくてはならない。

日本語版では、どの声優さんをあてても「どこか違う」になる。

 

チャップリンの言葉は日本語しかわからない者に対しても、彼の声であれば胸に響く。

 

表現力とは、磨けばここまで輝くものなのか。

 

 

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僕は生駒ちゃんが好きだから、生駒ちゃんとお話をしてみたいと思うのは当然だ。

ちょっと生駒ちゃんは上記例と、話の次元が違う。

次元が違うので、ここでは特別、取り上げない。

 

 

眼の前で観たら、数秒で人を惹きつける微妙な圧は間違いなくあったよ。

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キャンデロロと話してみたい。

これは心底、願う。

 

羽生結弦くんと話してみたい。

浅田真央さんと話してみたい。

高橋大輔さんと話してみたい。

 

何故なら、こういう方々には人間力とはまた違った、人間としての魅力が元々備わっているからだ。

彼ら彼女らは優等生的な発言が多く、人を傷つけたり、悪くは言わないため、インタビューの内容は面白くない。(まだ、浅田舞、安藤美姫、樋口新葉のほうが「何を言い出すかわからない」面白さはある。現在の坂本花織は別の意味で面白い。)

 

だが、内容ではなく、それを話す彼ら彼女らの内面が伺える瞬間を私達は望んでいるのである。そこは微妙な差異なので画面に映りにくく、テレビ向きではないのかも知れない。五輪に関係無く浅田真央さんは自身の意志で、TVの仕事を極力少なくしているように感じられるが、昨日もNHKで話す表情から彼女特有の心の動きが感じられた。浅田真央さんが話す今季GP女王・紀平梨花への思いは、着目すべきはその言葉の内容ではない。心の動きだ。

 

音楽というものを学んでいない自分にとっては、矢沢永吉の話す内容よりも表情を見ていたほうが興味深い。「天才とはこういう心の動きをするのか」と、僅かだが垣間見える。

 

持論に過ぎないが、自論とでもいうのか、自分に対して命ずるように、「勘違いするな」と思っていることがある。

 

一芸に秀でているから、人が輝くのではない。

輝いている人が演じるから、一芸に秀でてしまうのである。

 

例えば金メダリストと同じスキルを持っていても何度も敗れ、1度も世界一になれない人がいるならば、それは運や時代のせいだけではなく、人そのものが生まれ持って持っている魅力の有無である。

 

「天才と呼ばれる人」「只者じゃない人」「常人離れ」「特異に優れている」人は、最初から「人を惹きつける何か」を持っているのである。

何かが出来るから魅力的になった、わけではない。それは要素として、1/10にも満たない。先に人ありき、である。芸は後だ。

 

仮に人間力ナシの、魅力のカケラもない人が、芸のみで輝くとしたら量産し継続するしかない。それは世界中を見ても1世紀に1人いるかいないかである。継続は難しい。人格とは繰り返す行動の総計である。それゆえに優秀さは単発的な行動にあらず、習慣である。一発勝負なら誰しもが優秀になれるチャンスを持っている。継続は天才でも難しい。山中伸弥教授がその継続を今もなお続けている人で、かつ、大成し、それでも飽くことなく世のため人のためになり、今もなお継続をやめない稀有な人と見ている。友にはバカにされた時代もあっただろうに、頭が下がる。こういう粘り強さに対しては敬服するし、見習いたい。特色なく、ごくあたりまえな人が唯一、エリートや天才に対抗できる可能性は継続しかない。

 

イチロー選手は引退を発表したが、ここでは未だ「イチロー選手」と呼称する。

イチロー選手と話してみたいとは全く思わない。

人間としての魅力が無いわけではない。

イチロー選手の思考メカニズムがどれだけ奇っ怪で仮に奇人変人であったとしても、回答が全て予想できるのである。

現在までイチロー選手が話した内容で「コレは凄い」というものはなかった。

現在までイチロー選手が成し得たプレイで「コレは凄い」というものは山の如し。

野球をやるために生まれた人であり、喋る人ではない。

 

ベンチで仲間と話すイチロー選手は楽しそうだが、インタビュー中のイチロー選手は何処か寂しそうだ。

山のようにヒットを打った“だけ”の人、のように見える。

 

今までは僕の感じ方だが、ここからは僕の完全な推測だ。

 

イチロー選手は人を惹きつける何かよりも、人を寄せ付けない何か、こちらのほうが強かった。

だからドラフト1位指名ではないし、1年めで、開幕1軍でもなかったのである。

あれだけの選手が、だよ?

 

人柄が頑固だと団体では使われない。

どんなに優れていようと。

 

そのなかで今の地位まで駆け抜けたイチロー選手は、只者じゃない才能と実力と多大なる練習量を持つ人である。

たぶん王貞治さんも落合博満さんも野茂英雄さんも、イチロー選手っぽさがあり、殆んど同類項だ。

 

人を惹きつける何かよりも、人を寄せ付けない何か、こちらのほうが強かった。

ヒットを山程打つからイチロー選手を好きになるのであって、野球をやっていなければとても生意気で、友として適さない“頑な過ぎる男”のようにみえる。尤も、そうでなければあんな非常識なバッティングは出来なかっただろうが。

 

 

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僕は今、ベッドに寝ている。

病は進行し、24時間、寝ている。

ここから座るという姿勢までが、かなり難しい。

 

この姿勢で、僕を知らない人が僕の手品を見たら、その感想が容易に推測できる。

「何だその態度は」である。

 

とてつもなく練習して、キャンデロロのようにさ、「魔法使いになったよな♪」と思えるほど技術も論理も自分のものにしたからさ、「寝ていても取り敢えず手品が出来るならOKだろ」って思ってた。寝ていても、片手でも、なにかやれば「不思議だ」と思われるだろうと。

それはちょっと危ない考えだ。

手品師は先ず紳士的でなければならない。

 

今の僕が手品を演るなら、起き上がって、着替えて、自分でテーブルをセッティングして、立って演れ。

それが出来ないなら演るな。

 

アンビシャスカードという手品は、特定のカードがトランプ中央付近から上に上がってくる現象。

これはカードマジックの名作、傑作であり、手品を学んでいる人でこれを練習しなかった人はいないだろうと言われるほど、単純明快で不思議な奇術である。特筆に値するは、繰り返し演じても構わない点である。

 

アンビシャスカードは僕も演る。カードマジックを教えて欲しいと訪ねてくる20代前半の男性は殆んどアンビシャスカードの技法や手順など、その方法伝授を望む。

ただ、どんなにアンビシャスカードが巧くても「本当に上に上がってきた」ようには見えない。感じ方は「気づいたら中央から上に戻っている」である。

「カードが本当に上がってきたようにしか見えない」のと、「気づいたら上に戻っている」のとでは、現象は似ていても印象は全く違う。

冒頭で述べたキャンデロロのような表現力があれば、本当に上がってきたとしか思えないアンビシャスカードが出来るはずだ。

 

海外ではダロー、日本では前田知洋、ふじいあきらさんのような名手の演技を見ても、やはり「本当に上がってきた」ようには見えない。見事だなあとは思っても。

 

ある種のギミック(仕掛け。からくり。)を使うか、ある種の演出を加えれば「本当に上がってきた」かのように見えたりするが、アンビシャスカードの可能性はそういうものではないと思う。何も加えなくても「本当に上がってきた」と感じさせることが可能だろう。それが要は表現力。演者自身が百も承知の上で、嫌というほど練習したトリックを使っているので「本当に上がってきた」と思い込めない。この「思い込めない」思いが、観客に伝染り、観客も「本当に上がってきたとは見えない」のである。

 

自信があったアンビシャスカードをレパートリーから外して18年は経つ。練習はしても実演はしない。

アンビシャスカードは「キャンデロロの見える剣」レベルに近くなって、初めて人前で披露するものだろう。

 

キャンデロロは物理的な剣こそ持ってはいないが、何のセリフもなしに(彼に対する予備知識もなく、解説もなく。)初めて観た人でも「剣が見える」錯覚を起こす。このレベルこそ、手品師が目指すスキルだと思う。僕はそれが何万回演っても実現できない。恥ずかしくて人前で披露出来ないのである。「サインなさったカードが、中ほどから、上に上がってきます」と言いたくない。「なぜか戻っています」どまりである。「上がってくるところを見たい」のが本当の観客意識だ。それに応えられないなら演じるべきではない。

 

 

 

 

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・誰にでもウケるマジック

 

そんな手品はない。

 

あると思っていたが、想像するとわかる。

誰しもがこの世で最も嫌いな人っているだろう。

その人がその「誰にでもウケる」とされる手品を、自分の前で見事に演ってみせたとしよう。

はたして、自分は「わーすごーい」と心から思えるだろうか。嫌いな人が演った見事な手品だよ?

大抵は「へー」ぐらいしか言えない。本当は「スゲエ」って思っていても。

いや、嫌いな人が何を演っても「スゲエ」って思う以前に、見ないでしょ?

 

要は表現力であり、その表現力よりも前に人間力や、人間力よりも遥かに上の魅力・惹きつけるチカラがないと、芸は腐るだけで実らない。

 

 

キャンデロロのストレートラインステップはキャンデロロが演るから素晴らしい。

人なのである。

皆が観たいのは技術ではない。

人なのである。

 

僕には人間力は勿論皆無、人を惹きつける魅力も何1つない。

そんなやつが手品をやっちゃダメと気づいたのだ。

皆が観たいのは技術ではない。

人なのである。

 

僕が手品を演る際は条件がある。

僕を魅せるのではなく、作品紹介として魅せるなら良い。

僕が不思議な事を演るのではない。この作品が不思議を作り出すように出来ているという前提であれば良い。