青森県むつ市の郷土史家、三浦順一郎先生が昨年、自費出版された本。

「続下北地域史話」は地域編 海運、小事件、明治時代の恐山の古写真と民具図の資料編など盛りだくさんの内容です。

ちなみに前作の「下北地域史話」は、平成27年に出版されています。

下北半島にルーツを持つ者としては、大変興味深いです。

ご自身の研究や発掘した資料を、石碑のように末永く後世に伝えたいという思いが込められている<紙碑>という言葉が、かっこいいです。

 

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<恐山ホテル>という瀟洒な建物の古写真が載っていて、これはいったい何だろうと、

凄く気になりました。

明治~大正に宇曽利湖畔にリゾートホテルがあったのでしょうか?!

 

第3部・斗南小話に<柴五郎の書簡>という章がありました。

柴五郎の知られざる一面をかいま見ることができる書や短歌、書簡(手紙)が下北半島に10点ほど残っているそうです。

もしかしたら、まだ他にも柴五郎の記録が下北にあるのかもしれません。

 

そういえばワタシも一昨年、直筆の書簡を見ました。

JR下北駅の<むつグランドホテル>の美術ギャラリーに展示されています。

えっ、まさか本物?と驚きました。

(記憶違いだったらスイマセン。でもお宝らしき物が色々ありました)

美術ギャラリーは、館内から温泉へ行く途中の渡り廊下の目立たない場所に入り口があります。

<むつグランドホテル>といえば斗南温泉。斗南藩ゆかりの地。

高台に建つ素晴らしい泉質の温泉ホテルで、最上階のレストランからは陸奥湾が一望できます。好きなホテルです☆

 

 

「・・・返礼の書簡の内容が丁重なのである・・・軍人として最高位の大将まで上り詰めた人が、一般人に対して分け隔てなく接している・・・少年期に斗南で冷たい仕打ちを受けていれば、辺鄙な下北など見向きもしない。むしろ後年に憎しみとなって現われることもある。いくら北海道巡邏の帰途とはいえ、二度も田名部へ立ち寄った。そんな元陸軍大将がいるだろうか。立ち寄れば斗南藩士の子息と旧交をあたためる事が出来る。それだけではなかった。そのような行動をとらせたのはどんな理由からであろうか・・・」(本文より)

 

少年期に人から受けた思いやりを忘れていないこと。

人を大事にする気持ちをもっていたこと。

三浦先生はこの二点を理由に挙げられてます。

 

「・・・そのことは義和団事件のときの彼の指導に現われている。北京の紫禁城内にあった各国公使館区域が義和団に包囲された。その時居留民の保護ならびに統率とれた日本軍の行動が各国に賞賛された。当時中佐であった柴五郎の指揮によるものであった。柴五郎は北京篭城の時の行動を自慢しなかった。また宣伝材料にもしなかった。そういう人である・・・」

(本文より)

 

「ある明治人の記録」に書かれている陸奥国斗南は会津人にとっては辛い不毛の土地。

でも、柴五郎は晩年2回(65歳と69歳)北海道巡遊の帰りに下北へ立ち寄っていた。

親しく何度も手紙や贈り物のやりとりをしたり、大正~昭和にかけても斗南の人々との温かい交流は続いていた。

「続下北地域史話」を読んで、そのことがわかり、とても嬉しく思いました。

北海道と下北の田名部までは海路と陸路の移動・・・帰路の途中とはいえ、時間がかかりそうです(^^;

 

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戊辰戦争と明治維新に傷つけられながらも、負けずに這い上がった会津人の誇りで、素晴らしい人格者。

それなのに太平洋戦争によって、またしても絶望の淵に追い込まれてしまうなんて。

絶望じゃなくて、激しい怒りだったのでしょうか?!

87歳で自害という最期を思うとせつなくなります。