育ち盛りを
戦中戦後に過ごした者です。

今迄、自分の記憶から
永遠に消え去らないであろう
事柄とか、報道にはなかった
事実を頭脳がまだ、
確かなうちにと
綴ってきましたが
なんとなく書き残した事が
ある様な気がします。

今迄の記事全て、
平和で何でも自身の思う様に
暮らせる現代人には
理解に苦しむでしょうね。

全く良い時代になりました。

戦争の悲惨さは、
今、世界のどこかで起こっている。
報道、映像などで、
過去に日本の国内でも
あった事は、
当然の事ながら
誰でも知っている事ですよね。

現代の贅沢な食生活に
慣れている方々に
1番理解出来ない事。
それは戦争末期から終戦後の
食糧難時代。

食べ盛り育ち盛りの子供達。

この事実、信じられないのは
無理からぬ事だと思います。

今時、その頃の食品の
現物は見れませんから。

事実飢え死にした人、
数知れず。

農家でも自分達が作った米は、
政府が取り仕切り、
庶民には僅かばかりの
配給米しか手に入らない。

育ち盛りの子供を抱えた
親達は、闇米に手を出す。

ある高官で
 [闇米は絶対食わん]
と云い続けて餓死したという
ニュースもありました。

その時、庶民はサツマイモの
茎とかも食べたし、
子供達は近くの川に行き
シジミを取り、
秋になると田んぼへ
イナゴを家族皆で取りに行く。

貴重なタンパク源です。

その頃は他人の田んぼに入っても
咎められなかった。

兎も角、
どこにも何も売っていなかった。

食糧確保の為には
色々努力しました。
庭を耕して慣れない手で
野菜を作ったり。

それなのに闇米を食べないで
餓死した人の事、
世間では何故?って云ってました。
死ぬ位ならどんな手でも
使える筈。


庶民は知恵を絞って
家族の為、子供の為と
食糧確保に奔走しました。

取締りの目をかい潜って
お米の買い出しに行き
また、闇米を売りに来る人。

それらを取り締まる警察。

ある時、
背中に背負った物を
調べようとしたら、
[これは赤ちゃんです]って
必死になって抵抗してたら
[赤ちゃんがオシッコしてますよ]
と云われ、気がついたら
米袋に穴が開いててそこから
お米がこぼれてたなんて事も
新聞の記事になっていました。

ついこの間のテレビの
ドキュメント番組でその頃、
その筋の上層部の者達が
東京湾に膨大な財宝を
隠してたのが判明したが、
その後それらがどこへ行ったのか
分からずじまいだという事を
やってたけど
飢えた國民を前にして
そんな事あったのって
怒りと悲しみで
胸が苦しくなりました。

さて、最後となる今回、
戦中戦後の私達が受けた
教育、とか教師のそれまでの
教え方など、
私の記憶にある事柄を
綴ってみようと思います。

戦争が終わって二学期が始まり、
登校したその日から
全ての教科書を机の上に
習字の道具と共に並べ、
先生の指示通り
本の中の戦争に関する
記述を真っ黒に塗り潰す。
どんな些細な事でも。

教科書は大事に扱えと
云われて来たのだから、
凄く抵抗があった。
先生が1人1人各ページを
点検してまわる。

それこそ、国語も修身も
あまり戦争には
関係ない様な教科書迄。

後日、進駐軍の方々が
各教室を回って1つづつ
点検して回ってた。
黒塗りにした教科書は、
透かして不備があれば
やり直し。

先生達は
不備の指摘を恐れていた。
教科書は、殆ど真っ黒。
読めなくなる迄塗り潰す。


その後、先生達が話す事は、
それまでとは全く違う事柄。

天と地がひっくり返るほど。

まず、大事な事は
命と云う物の大切さ。
ついこの間迄は、國民の体は
お國の為に役立たせる為に有る。
特に男児は、
命を捧げて奉公すべしと云う
教えだった。

私の父親なんて、長男である弟に、
将来は東郷元帥の様な
立派な軍人になれとか、
陸軍の方が出世出来るとか。

全く、今思えば本心疑いたく
なりますね。


それから、先生は、
自由と権利についての講議。
自由とは❓ 権利とは❓
権利の裏には義務があるとか。
聞き慣れない事を
先生達は口角泡をなして話す。

小学生の頭では
すんなりと理解出来ない。


その頃、私は、空には飛行機が
飛び交わない、
サイレンは鳴り響かない。
安心して登校出来る日々が
嬉しくて楽しかった。

やたらに戦争が終わって
良かったなどと言ったら
憲兵に連れて行かれると云う
親の言葉を守っていた。

新制中学1年生の時
担任の先生が、
日本は戦争に負けて
良かったんだよ。
こんな世の中になって。

と云ったのを聞いてつくづくと
(あゝ、そういう事
もう云ってもいいんだ。
もう本心を口にしても
いいんだ) と
心底思いました。
敗戦によって人々が手に入れた物
言論の自由、基本的な権利。
封建時代には自由に生きる
権利すら無かった。

言論の自由なんて事も
初めて学びました。

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巷には戦争孤児が溢れ、
住む家や親を亡くした子供達が、
路上にあふれ、生きる為、
スリ、カツパライなど、
悲惨な状況だった。

でも子供達は逞しい。
どんな悪事を働いても生きた。

そんな子供達を
浮浪児狩りなどと云って
狩り集め、孤児院と言う施設に
送り込む。
束縛された施設を嫌って
逃げ惑う子供達。

これらの話しは朝ドラの中に
よく出てきますね。

私など、父親が帰還してから、
戦後処理かなんかで
時々上京して見聞きして来た
都会の子供の事
よく聞かされていました。

その中、浮浪児を収容する
施設を作った個人の方々が
いて、それを題材にした物語を
菊田一男さんが書いた。
そう、あの女湯を空にしたと
言われるラジオドラマ
[君の名は]を作った方です。

その方が作った映画の中での歌。
[鐘の鳴る丘]
これは、この物語から
生まれた歌です。
よくラジオなどで
聞く様になります。

戦後、授業の一環として
時々、街中の映画館に映画鑑賞に
生徒一同列をなして行きました。

学校にはそんな設備とか
会場などなかったから。

その時にこの
[鐘の鳴る丘]
を見に行きましたが、
全員泣きながら見たんです。
親を亡くした子供達の
凄惨な生き方。


あの様にして成長した方々、
もう、
いなくなってしまったかしら。

日本の國がここまで発展した姿、
見続けられる私は
幸運でしょうか?

二十歳も満たないうちに
お国の為にと、命を捧げた若人。
私の感傷かも知れないが
いつもいつも心の底に
引っかかっています。

あんな時代の再現は
今後、絶対に起きない様、
この國の政治家達の
やり方、見守ってください。

その政治家達を選ぶ國民、
責任重大です。


 過去に戦争に関した文章、
 載せてあります。
 拙い文章ですが、
 お暇の時にでも
  ちょっと読んで下さいませ。