YouTube

https://youtu.be/Q9VVf7A35Ps


時期

1991712


場所

茨城県つくば市


事件詳細


筑波大学助教授が同大学筑波キャンパス人文・社会学系A7階のエレベーターホールで刺殺されているのが発見され、司法解剖の結果、11日の午後10時頃から12日の午前2時頃までの間に殺害されたものと断定された


遺体の首には、左に2カ所、右に1カ所の傷があり、いずれも頸動脈を切断するほどの深さで、「イスラム式の殺し方」とされる

また、右側の胸や腹など3カ所に及んだ刺し傷は、一部肝臓にまで達していた。現場からO型の血痕(男性の血液型とは一致しないため、犯人のものとされた)や犯人が残したとみられる中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。


助教授はイスラム社会から禁書とされていた小説「悪魔の詩」の翻訳者だった。

悪魔の詩はインド系イギリス人の作家サルマン・ラシュディによって19891月に発売されたものだが、その内容にイスラム教を冒涜するものがあるとしてイスラム圏では焚書(ふんしょ)が相次いだ。問題となったのは主人公が見る夢の中で預言者ムハマンドが神の言葉を記したコーランに悪魔の言葉が混じっていたということ。この言葉が悪魔の詩という、そしてムハマンドの12人の妻の名前と同じ12人の売春婦が登場するなど、全体的にイスラム教を揶揄するような内容が含まれていた


追記情報


発売から1ヶ月後、イランの最高指揮者ホメイニ師は著書のラシュディ氏と出版に関わった者に対し死刑を宣告した。イスラムでは宗教指導者による布告をファトワといい、法律と同様に扱われる。ホメイニ師の出したファトワによって、作者処刑の実行者には、280万ドル当時のレートで約36000万円もの賞金があたえられることとなった。しかも 同年の6月にホメイニ師が死去したため、布告した本人にしか取り消せないファトワは撤回することができなくなっていた


悪魔の詩・日本語版は90年に出版された。同時に訳者となった助教授は著作「イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ悪魔の詩を訳したか」の中で、悪魔の詩は優れた文学作品で、イスラムを冒涜するものではないとして翻訳に踏み切ったことを記している。自分自身が処刑の対象になっていることを自覚しながら「ホメイニ師の死刑宣言は勇み足であった」「イスラムこそ元来もっと大きくて健康的な宗教ではなかったのか」とファトワを批判している。そして作者のラシュディ氏が警察の保護下で潜伏生活を強いられたのに対し助教授は周囲を警戒することなく平穏な日々をすごしていた



イスラム系の新聞は、助教授殺害のニュースをイスラム教徒にとっての朗報と伝えている。また、イランの反体制派組織「ムジャヒディン・ハルク」が犯行声明を発表。イスラムを愛した日本人の死が歓迎された


助教授はイギリスでは1988年ブッカー賞最終候補となり、また同年のホワイトブレッド賞小説部門を受賞するなど高い評価を得る一方、現代の出来事や人物に強く関連付けられた内容がムスリム社会では冒涜的であると受けとられ、激しい反発を招いた


助教授の机の引き出しから、殺害前数週間以内と思われる時期に書いたメモが発見された。これには壇ノ浦の戦いに関する四行詩が日本語およびフランス語で書かれていたが、4行目の「壇ノ浦で殺される」という日本語の段落に対し、フランス語で「階段の裏で殺される」と表現されていた


助教授はホメイニの死刑宣言のあとも、地元警察署からの護衛の申し出を断り、「ホメイニ宣言はもう時効だ」などと言って、無警戒の生活を送っていた。2006年7月11日、教授殺害から15年経ち、公訴時効が成立し、真相は闇に葬られたままである


事件の約1週刊前に、イタリアのミラノで

 この殺人を予測するかのような事件が起きていた。

 「悪魔の詩」のイタリア語翻訳者が何者かに全身をナイフで刺され、重症を

 負っていた。

 2年後の1993年、トルコ語翻訳者の集会が襲撃され、37人が死亡した。


 助教授の殺害事件の三日後、イランのバグダッドに本拠地を置いていたイラン

 の反政府組織が、ある通信社に、(日本での)事件は、暗殺団による犯行だ

 とする声明を送ってきた。その声明によれば、数人からなるいくつかの暗殺団

 が組織され、「悪魔の詩」の著者を処刑するためイギリスに送り込まれたほ

 か、日本やイタリア、スイス、フランスなど多数の国へも派遣された


「悪魔の詩」殺人に関しては、犯行翌日の12日に出国した一人の男を、犯人

 の可能性が高いと見ていた。男の出身国は、イスラム文化圏の国。しかし、この事実は、茨城県警特別捜査のごくわずかな

 幹部だけに伝えられ、厳重な箝口令が敷かれた。


 しかも、警察庁は、各国に情報収集を求める「ブルーノティス(青色手配)」を

 国際刑事警察機構へ依頼することさえしなかった。また男の逃げた先や根拠

 地の国の照会もしなかった


 当時、警察庁の内部において、大激論が起きていたという。

 我が国始まって以来の、明らかなテロ攻撃であり、国家捜査の場に事件を

 持ち出すべきだという積極派。

 もう一方は、公表することで、イスラム文化全体を敵に回しかねず、それによ

 る影響は図りしれないとする国益重視派だった。


15年後の2006(平成18年)711、真相が明らかにならないまま殺人罪公訴時効が成立し、未解決事件となった。外国人犯人説が有力なこの事件では、実行犯が国外逃亡したと仮定した場合は、公訴時効は成立していないことになるが、茨城県警察は証拠品として保管していた被害者の遺品を、遺族に返還している