その2(自分史) | WeekEnd Bar ブログ

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ツナギを着て脂まみれになっていた整備士時代と違って、ネクタイにスーツ、革靴に拘りの名刺入れ、そして、フランクリン社のクラシック手帳を引っ提げて、飛び込み営業の毎日、ノートパソコンでパワーポイントを使ったプレゼンテーション をこなした。オフィスは、実家の庭先にある納屋だった。
月に一度の横浜本社にて、支店長会議。
まるでヤングエグゼクティブになった気分。それだけで満足だった。

売上も上がってもないのに、今思えば、とんでもない勘違い。

当時インターネットが復旧しはじめたころ、巷ではA to CやB to Cマーケットが注目されていたが、我が社ではB to Bマーケット、いわゆる企業間取引に特化した商材情報コンサルタントを売りにしていた。

地域で顧客を囲い込んでいる企業と、販売ルートをもたないが、素晴らしい商品を開発した中小企業とを繋ぎ、ビジネスマッチングを図るのが狙い。
全国から商材を集め、我々地域の地元を知り尽くしたマーケッターが顧客を持つバイヤーに売り込むという寸法。

企業間を卸価格で直接繋ぎ、両者の取引額に応じた手数料を頂くというもの。

フィルム式床暖房や、スノーボードのオフトレ練習マシンのフリーボード、消臭マシンやグリスストラップ浄化装置、3D立体テレビ、遠隔操作が可能なホームセキュリティシステム、コインランドリーのオーナー募集、パンの移動販売のFCオーナー募集代行など、それはそれは全国から数え切れない程の最新の商材が集まって来ていた。

しかし、このビジネスモデルは理想論で、思わぬ所に盲点があった。

我々地域の支店長に営業力があっても、専門知識がゼロに等しく、あらゆる商材に対して、業界のプロの質問に答えられず、ちょっとメーカーに問い合わせてみます…では信用ガタ落ちで、殆ど相手にされないのだ。
そんなことも解らない24歳の若造でしたが、必至の営業努力の甲斐もあって、高知県の第三セクターと今治市内の飲食店とで50万円程度の契約を取付けた。
いよいよ、これからという時に本社の不正経理が発覚、計画倒産に巻き込まれ、連鎖倒産という何とも味気ない僕の独立は半年で幕を閉ざされたのであった。

暫く腐っていたが、捨てる神あれば拾う神ありで、パンの移動販売社長が、拾ってくれたのだ。しかし、契約を取付けた企業に背を向ける訳にはイカンので、パン屋の社長に直談判。、捨てる神あれば拾う神ありで、パンの移動販売社長が、拾ってくれたのだ。しかし、契約を取付けた企業に背を向ける訳にはイカンので、パン屋の社長に直談判。

パン屋として独立を目指す代わりに、自分が取付けた契約を事業に加えて欲しいと。

社長もビジネスチャンスを感じたらしく、グリスストラップ浄化装置の販売とメンテナンスを引き受けてくれた。

引き継ぎも終了し、パン屋として修行を始めたが、取引企業から担当者が気に入らないからと、自分に対応してくれと言われ、パン屋修行とメンテナンスの二足のワラジを履く。




研修も終わり、FC契約。200万の借金を背負わされ、さらに毎朝10万円近いパンを買い取らされ、日が暮れるまでに現金に替えて来いという。
売れ残れば自腹という、…また…騙された。

保証人になってくれたオヤジに迷惑かけるわけにいかないし、毎日エンドレス…必ず死ぬと書いて必死でパンを売りまくり、現金に替えていった。

勿論、最初から売れた訳ではなく、ガソリン代自腹で一日売り歩いて、二万円分のパンが売れ残ることも。

まだ寝てる方がマシなんて、とんでもない仕事を始めてしまったと後悔したが、もう遅い。

毎朝、赤字の恐怖で心臓がバクバクしながら走り回った。
いつしか四年という月日が流れ、累積で一億円近い売り上げを叩き出し、松山店では常に売り上げはトップクラスで600万円の高級車を乗り回すまでになった。社長も店長もクルマはポルシェだった。

しかし、それ以上の目標が見付からず虚しくなってきた。この仕事は極めたから転職しようと考えていた所に、高校時代のバイト先のオーナーが香川県にカフェレストランを出すから店長として来てくれないかと、打診があり二つ返事で転がり込んだ。

この時28歳。

続く続く…。