http://www.sankei.com/column/news/170119/clm1701190008-n3.html
 
【正論】高い近代化のハードルを乗り越えた日本と、そもそも近代化する気がない周辺国 筑波大学大学院教授・古田博司
 
 タイトルを見て驚いた。日本は「高い近代化のハードル」とやらを「乗り越えた」らしい。それに対し「周辺国」たる中国・韓国・北朝鮮は「近代化する気がない」というのだ。いかにも「産経」らしい認識だが、果たして日本は「近代化」を乗り越えたのだろうか。
 
 「古代の大国だったシナは、じつは打たれ弱い大国である。遼陽を落とされれば直隷まですぐに占領された。地政学的にヴァルネラビリティ(vulnerability=打たれ弱さ)があるので、現在でも「威嚇」と「牽制(けんせい)」の国際政治しか知らない。昔どんなことをやっていたかといえば、朝貢人数を水増しして儲(もう)けようとしたモンゴル族を威嚇しようと出兵し、逆に王様が捕まってしまった、土木の変(1449年)がある。/李朝には軍馬を3万頭出せと牽制したが、李朝は分割払いの9千頭でごまかした。で、シナの王様が捕まると李朝はすっかりおびえて、次の満洲族征伐には村一つを襲ってすぐに逃げ帰った。成化3年の役(1467年)という。/朴槿恵大統領のセウォル号事件のときの空白の7時間も、これで分かるだろう。彼女は何をしていたのか。ただ逃げていたのか。コリアの為政者は、緊急時に「遁走(とんそう)性」を発揮する。」
 
 吉田は以上のような例をもって、「周辺国」の非近代性を指摘する。このような「遁走」が「非近代」の象徴であるなら、日本の政治家においても枚挙にいとまがないだろう。右派勢力に担がれ、現在政権を担っている首相にも、窮地からの「遁走」の過去がある(擁護派は「持病の悪化」という説明を鵜呑みにしているが、それによって彼が説明すべきものから逃げ遂せたのも事実である)。
 
 ところで、この引用した文章自体、以下のような問題もある。
  1. 「地政学的な打たれ弱さ」があることと、「「威嚇」と「牽制」の国際政治しか知らない」こととの間に因果関係をみるのは、あまりに論理が飛躍しすぎている。
  2. 「土木の変」は、「威嚇」の例になっていても、「李朝」に対する要求は「牽制」の例になっていない。(そもそも、なぜここでパラグラフを分けるのか全くわからない。分けるなら、「牽制した」で文を切って、「一方、李朝は~」とすべきだろう)
  3. 朝鮮の「遁走性」の二つの例の間に対応性が確認できない。「シナの王様が捕まると」と「次の満州族征伐」の間には18年ものタイムラグがあり、それを「セウォル号」事件の際の「緊急」性と同列に並べることは無理がある。
 このように、学生のレポートだとすれば間違いなく教員から指摘されるだろう不備が、この文章には盛り込まれている。そのため、非常に理解しがたい文章となってしまっている。筑波大学大学院教授である著者は、学生がこのような不備だらけの文章を提出したとして通すのだろうか。
  だが事実として、「産経新聞」はこのような不備だらけの文章を「正論」に掲載してしまっている。 それは、「産経」とその読者のニーズに応えた内容だからだ。その際、不都合な事実の存在や、論証の不備は見落とされる。その意味で、youtubeで右寄りの配信を続けているKAZUYAの「明らかに偏った情報ばかりで、伝えなきゃいけないことまでつたえないってなると、これおかしいでしょ」という指摘は「産経」にもなされるべきである。
 

 
 残念なことに、日本における主義主張の評価基準は、内容の左右を問わず、その論証過程が正しいかではなく、評価者にとってその主張内容が心地良いかにある。だがそれは、「近代化を乗り越えた」国のあるべき姿だろうか。
 少なくとも「近代」とは、人間がその理性の力によって、普遍妥当な解を見出そうとする営みだったはずである。それを放棄し、情緒的な判断に走ることは、「古代回帰」にこそなれ、「乗り越えた」ことにはならない。
 ゆえに、現状の日本を指して「近代化を乗り越えた」と形容することは、適切とは言えない。むしろ日本も、「そもそも近代化する気がない」とみなすべきである。