1979年3月23日神奈川県立音楽堂~6月5日名古屋市公会堂(計18本)
『最初のツアーらしいツアーですね。歌っていた曲は「イルミネーション」と「君が人生の時…」の曲が殆どでした。
で、この頃はコンサートやるたびにイベンター、いるでしょ、各地の。
その社長だとか幹部だとか見にきて、やたらにしゃべりのこといわれたのね。
やっぱりフォークが主流の頃だから、しゃべりがつまらないって。
客はシーンとしてるし、最後まで誰一人立ち上がるなんてことはありえないし、俺も1曲やっては「えーっとー」みたいにしゃべったりみたいな。
客席も埋まってなかった。
メンバーが5人で、スタッフ、PA、11人でまわってたんですね』
この年12月に発売されたのがアルバム「君が人生の時…」でした
思えば、メディアとの係わりが一番大きくなったのがこのアルバムの頃でした
テレビにも出たし、ラジオにも
コンサートもひとが大きく増えた時期ですね(埋まってはいませんが(苦笑))
『「MIND SCREEN」で自分の詞を書かなきゃいけないんだなあと思って、それで、書けるのは自分のことなんだということがわかり、自分のことを丁寧に拾い上げたんですね。
この頃から自分の詞のスタイルが少しずつ出来つつあったのかなと思います。
自分のなかでは、ポップなアルバムの集大成という感じです。
実際このアルバムは、ヒット・シングル「風を感じて」のおかげで少し売れたんです。
10万枚くらいかな。
それまで1万枚くらいしか売れてなかったわけだから、画期的なことでしたよね。
イベンターがツアーをやろうかって言いはじめて、この頃からコンサート・ツアーというのがはじまるんです。
「風を感じて」はいろんなエピソードがあるんですけど、その頃はCMソングがヒット曲のきっかけだったという時代なんです。
僕が最初に受けた話はいっぱいあった。
いっぱいデモ・テープを録ったんです。
松崎しげるさんで大ヒットした曲ありますよね。
「愛のメモリー」って曲。
あのCMも最初にやったのは僕で、ボツって彼のところにいってヒットした(笑)。
次にコーセーのCMのデモ・テープでボツって、山本達彦君の最初の大ヒットになるんです。
そういうことが5回ぐらい続いた。
その度にレコーディングは中断するわ、ツアーは途中になるわで、コケて代わった曲が大ヒットする(笑)。
もう頭にきて、バカヤロー、二度とCMなんてやらない。(といいながら後に「ON THE ROAD」も化粧品のCMに検討されました(笑))
最後の“バカヤロー”の前にきた話がこれ。
イージーな食べ物だから、イージーっていう言葉はあったんだけど、注文はそれだけで。
でもCMソングは嫌だから、詞は誰か他の人にしてくれって。
最初は三浦さん(徳子、作詞家)の詞があったんだけど、ほとんど変えちゃって、流れたら結果的にその頃の代表曲になってしまった。
ヒットしたっていっても15位くらいです。(♪赤、青、黄色、信号が変わる・・・じゃ売れなかったでしょうね(苦笑))
でも、僕の曲のなかでは(「悲しみは雪のように」以前の)唯一のヒット・シングルですよね。』
浜田省吾&愛奴ファンのお店 東京新宿Bar“Flash&Shadow”
http://www.flashandshadow.com