とあるエッセイの中にこうある
「どうせやるなら、徹底的な形式化をしようとしたけれども、
案外そのような方向性そのものが、ド・マンによって与えら
れたものあったのかもしれない。そして、それは、具体的な
文脈なしに仕事をしなければならない者が取らざるを得な
い抽象化であった」
ヴァナキュラー建築をどうこうしているときに、
ふと罪の意識のようなものが浮かび上がるのを
一度は経験したことがないかな。
学生の課題でいい、何かに活用しようとしてしまう事ごとに。
端的な主体を持つことなく、出来上がっている住宅に、あこがれのような感情を抱く。
それとともに到来する微かな嫌悪感。
緊密に絡み合ったたくさんの建築が積み重なっている、にも関わらず
そこには一つの建築しかない。そのよな造形物。
近代の造形物にはないものであり、一つの社会。
しかしそれは少しでもよそものの手が入ると壊れる、キッチュ。
それは奇跡的なバランスなのである。
最初の引用は、文脈なしに判断をせざるを得ないときに何が有効かと考えているときに出会ったもの。
これらの問題はヴァナキュラーに限ったことではなく、対象、場所にかかわるとき一般の問題だと思う。
その中途半端な繰り返しの果てに今の日本の都市がある。
しかしだからと言って開き直るか?