おはようございます。


今年は、秋の移り変わりを楽しむことができるのか? とワクワクしながら考えている

今日この頃です。


考えてみましたら、秋~冬にかけては、前職ではずっと展示会で、営業の担当先があれば

顧客の展示会イベントの応援、本部であれば本部である分、全国へ応援の手伝いに行くという

日々を過ごしていましたので、社会人となって本当に秋を楽しんだ、という経験はなかった

ように思います。


恋愛で言えば、【秋は別れのシーズン】というジンクスがあったような気がします。

(忙しすぎて、また特に入社したての頃はシゴトができてないので、余裕すらなかった)


今日も、バッハの「ミサ曲ロ短調」を聴きながらブログを書いています。


最近では、移動中などもかiPodで「ミサ曲ロ短調」、あるいは同じくバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」を

聴いています。


理由は、頭や精神が落ち着くような曲であることと、想像力を高める効果がある(と言われている)からです。


クラッシックなど聴いたことがほとんどなかった(小学校の時に放送委員で、朝・昼・帰りと

レコードを校庭に流していたぐらい)のですが、今となってはいい感じですね。


精神安定が効果もあるそうですので、子供と過ごす時や、医療・診察・カウンセリングなどの場でも

ピッタリなのではないか、と思います。



かなり、違う話を書いてしまいました。


今日は、新内閣になって、日本が逆戻りしているという気がしましたので、少しだけ書きたいと

思いました。


私の、【心の生涯のワーク】として、大学生最後にかかげた、「情報公開法」の制定・運用に関して

覆されているような気がしてきました。


当時はまだ「情報公開法」の施行がなされていない頃で、弁護士会などや草創期の「市民オンブズマン」が

躍起になっていました。私も、何度か東京の弁護士会や名古屋の弁護士会のイベントに参加して

いました。


昨日の民主党の審問で、「資料請求した内容を事前に自民党に知らせてから請求したものに

提供」という事自体が、この「情報を公開する」という事とすでに覆せてない気がしてなりません。


「知る者のみが知っていればいい」というのは、非常に危ない状態となります。


単純に「危ない」のと、エージェントベースの考え方(「法と経済学」の理論)では、「ある一方」が

情報を知っていた場合、他方の情報を知らないものは、そのものに運用を任せるしかない反面、

その「知っている側」をコントロールするために、あらゆる「権利的要求」を行います。


それが、悪い言い方でいえば、「賄賂」であり、「コントロール権」行使の世界へと行ってしまう

という面において、「危ない」という状態を作ってしまうことになります。

(うる覚えの理論です。学生時代に勉強していた事ですので、間違っていたかもしれません)


特に国家として見た場合、市民としての立場が軽視されるような事と同様の問題だと思います。


そのような事にすら気づかない内閣の現状。


過去からちっとも良いとは思っていませんし、小泉内閣ほど怖い内閣はなかったと思っていましたが

どんどん官僚任せ・国家のある一部のみが権利を行使する社会に戻りつつあると思います。


行動する市民として、本当ならば立ち上がらなければいけないことだと思います。