『生命の実相』第四十巻 家庭教育篇 第7章 | 山人のブログ

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第7章 そのまま素直にありがたい

家庭を光明化し人生を幸福に生きる秘訣は「そのまま素直にありがたい」という心を持つことであります。人生に悩みがあるのも、「そのまま素直にありがたい」ところの真実が解らないからであります。お嫁に行ってから問題が起こるのも「そのまま素直にありがたい」の精神が失われるからであります。さらに病気になるのも、そのまま素直にありがたいことがわからず、心に何か争いとか凝りとかができるからであります。

昨日ある女の方がわたしの道場へおいでになりまして、前へお進みになりまして、自分は生長の家の指導者講習会で講習を受けてからたくさんの人を治すようになったと言われまして実に素晴らしい数多くの治験例をいちいちお挙げになったのでありましたが、その人は天理教出身の人で、病気を治る心持としてその人は肺病の人に「あなたはハイハイと素直な返事が足りないから、肺臓の生きる力が足らないのです。ハイハイがあまり足りなくなったら、ハイが空っぽになってしまうのですからハイハイと素直な心になんなさい」こう導いてあげればたいていの肺病は治りますとおっしゃいました。また扁桃腺が悪いお子さんの親には「良人にハイハイとヘントウセン(返答せぬ)から子供にその心が映るのですよ。だから『ハイハイ』と素直に返答する心におなんなさい」と言って教えてあげられて、母親がそういう心におなりになった方は皆治ってしまわれたという話をせられたのであります。これは一見落語のような、つまらない地口のような話でもありますけれども、「類は類を招ぶ」というのが心の法則でありまして、心の通りの名前なり形なりの病気なり環境なりが展開してくるので天理教も真実であります。病気の(もと)は「そのまますなおにありがたい」ということが受け取れないために起こっているのがたくさんあるのであります。そのままがありがたくない心は異常を喜ぶ心、異常は病気ですから病気を喜ぶ心なのであります。またそのまま素直にありがたくない心が環境に反映すれば自分自身を周囲からそのまま素直にありがたく受け取っていただくことのできない、周囲から容れられない境遇を現わすことになるのであります。これが三界は唯心の所現という仏教の法則でもあります。

われわれはいろいろと自分の我見、自分の考えというものによって自分を裁き、他人を裁き、周囲を裁いて、自分自身をつまらない人間だと思い、人を悪人だと思い、今の生活をつまらないと思い、自分自身を刺し、他人を刺し、境遇を刺し、自分で自分を傷つけ、自分の住む世界を狭くし、自他の生活を不幸にしているということが非常に多いのであります。ところが、「そのまま素直にありがたい心」になりますと、もう他人を刺すこともいらないし、境遇に苦情をいうこともいらない、自分自身を刺すこともいらない。したがってまた自分自身が傷つかないことにもなるのであります。ですからこの「そのまますなおにありがたい心」という心は非常に尊い心であります。したがって、この「そのままの心」を持たせるために、今までいろいろの宗教でくふうがされているのであります。

キリスト教におきましても、その聖書には苦しめる者の福音が書いてあります。山上の垂訓に「幸福なるかな、悲しむ者。その人はなぐさめられん」とありますのも、悲しみをそのまま素直にありがたく受けるとき、そこから本当の幸福が生まれてくるという意味でありましょう。

さて、この「そのまま」という言葉は非常にやさしい言葉でありますけれども、深く考えてゆくと実にこれは深遠なる言葉であります。生長の家では「そのまま」というふりがなを「実相」という漢字の横に付けまして、実相()()()()、真如()()()()という意に解しますと、深い真理が出て来るのです。

先日和歌山県から来られたお嬢さんで、榎本という人がありました。この方は癇性と言いますか、潔癖と言いますか、ありとあらゆるものが不潔なような感じがして、すべての物に触れることに強迫的な恐ろしさを感じていたと言われました。潔癖ということもこれほど病的になってきますと生活の障害になってきます。ところがこの病的な強迫観念が、「そのまま素直にありがたい」という「そのまま」のありがたさがわかったときにこの不潔恐怖症が去ってしまったのです。この榎本さんというお嬢さんは、かつて『水甕』の短歌の選者をしていられた日比野友子さんの御主人日比野道男さんの教え子であります。日比野道男さんは短歌雑誌『曼荼羅』を主宰していられた。その日比野道男さんから短歌を教えてもらっていらっしゃるのです。ある日のこと、このお嬢さんが日比野さんのお宅へ来て、話のついでに自分の父はたいへん頑固で家庭の人々と調和しないので困っているという話をなすった。すると、日比野友子さんが、自分の父の悪口を言うこのお嬢さんの顔を変に眉をひそめて側から見ていられましたが、本箱から『生命の實相』の第三巻(頭注版・携帯版では第五、六巻)の書店版『現実の救い』を出して来て、「あなたにこの御本をお貸しいたしますから、ぜひお読みなさい。たいへんよい本ですから」と言って貸して下さった。榎本さんは「こんな本でなしに、いつもののように何か短歌の本を貸して下さればよいのに――」と思っていらっしゃったが、日比野さんは短歌の本の方は貸して下さらない。しかたがないのでその『現実の救い』の本を持って自宅へ帰るには帰ったものの素直にその本を読むという気になれなかったのであります。十日間ばかり、その本を読まずに机の上に放置して置かれたのであります。ところが、このお嬢さんの姉さんがいつの間にかその本を披いて読んでみて、その本に書いてあるところにスッカリ感心してしまって、「ああ、これはたいへんによい本だ。みな来て聴いてごらんなさい。わたしが読んで聴かせるから」と言って、たちまちそこに和気藹々たる『生命の實相』朗読会ができあがったのであります。しかしお父さんだけは今しばらくその朗読会へ素直に加わって下さらないのです。「やっぱり父は頑固だ」と最初は思ったのでしたが、『生命の實相』を読んで聴かせていただいているうちに、そのお嬢さんは「頑固なのは自分自身であって、父ではなかった」ということに気づいたのです。というのは二年ほど前父は『生命の實相』の広告が新聞に出ているのを見つけて「この本は良さそうな本だから取り寄せて読んでみたい」と素直におっしゃったのですけれども、その時に反対なさったのはこの潔癖症のお嬢さんだったのです。ですからこのお嬢さんは『生命の實相』を読んで行くにつれてしだいしだいに「素直でなかったのはわたしであって、お父さまではなかったのだ」と深い深い反省をせられた。すると、しだいにお父さまの素直な実相が顕われてまいりまして『生命の實相』を読んで下さるようになってきました。やっぱりお父さまは本当は素直なよい方だったのです。世間にも、「自分の親は頑固で我が強くて困る」と思っていられる方があるかもしれませんが、本当は親が頑固で我が強いのではなくてお嬢さんや息子さんの方が頑固で我が強かったのだということが分かる場合が多いのです。読んでいるうちに自然それをわからせるのが『生命の實相』であります。子供が親を憎むなどということは世の中にはそんなにザラにはないと思っていられる方が多いかもしれませんが、多くの人々を指導し、その精神分析を行なってみた結果によりますと、親夫婦が仲の悪い場合には、子供はどちらかに味方して一方の親を「頑固だ」とか「我が強い」とか思って憎んでいるものなのです。子供は自分自身が親を憎んでいるということを正直に自分の心に認めることを「道徳的()()()()()」のために拒みます。それで表面の心では親を愛していると自認しつつ潜在意識では親を憎んでいるのです。そのために表面の心と、潜在意識との葛藤で子供は非常に心を苦しめ、健康にも、境遇にも、性格にも、異常を来たすようになります。娘の縁談が遅れるということを苦しんでいる親たちが世間にありますが、娘の親に対する隠れたる憎悪心から、「親が望むような縁談のところへ行ってやるものか」というような反抗が起こって縁談が常にまとまらないこともあります。ところがこの榎本さんのお宅で『生命の實相』の朗読会が催されるようになりますと、娘が父を「頑固だ」と思って憎まなくなり、娘が優しくなると、今まで二十七歳まで縁遠かった長女が願ってもない良縁のところから養子婿が来ることになり、そのお父さんは昭和十二年十一月亡くなられましたが、その臨終の荘厳、死後の容貌の光耀の血色がいつまでも変わらず、にこやかな和顔の神々しさ、いつまでも合掌して拝んでいたいような状態で、「生長の家」は死後まで救って下さるということがはっきり分かりましたとはお嬢さんの実話であります。

さて、このお嬢さんは、素直な心を失って「そのまま素直にありがたい心」を失っていられた間は、頭髪が潤いがなく、まるで棕櫚色のバサバサとした茶色の髪をしていられ、月経痛にくるしみ、強迫観念的潔癖症で、あらゆるものが不潔に見えてこの世界に住み所がなく、朝食べた食事が夜になるも空腹を感じない、胃袋がグウグウ言っていたのでありますが、父の死後長女の養子婿が東京に就職していられる関係上、上京してその姉の宅に止宿して十一月頃から毎朝の家庭光明寮の聖典講義の傍聴に来られたのであります。約二ヵ月半熱心に家庭光明寮の聖典講義を傍聴せられるだけで、その潔癖症と、慢性胃病と、月経痛が治り、光沢がなく棕櫚のように赤茶けていた頭髪がつやつやした黒色に変じてしまったのです。このお礼は去る一月十四日の聖典講義が終わったとき、前へ進み出てそのことをお礼申されたので、その時その席にいらっしゃった寮生の方で、その方の近くの座にいてその方のお礼が聞こえた方は御存じのとおりであります。その時、このお嬢さん宅で栽培しているネーブル蜜柑が県下一という出来、他の果樹園に虫がついても自分の果樹園にはほとんど虫がいなかった話もされました。読者はこのお嬢さんのように単にわたしの講義を読んでいると、家庭がよくなり、健康がよくなり、運命が一変するのです。本編は主として花嫁学校の寮生のためにわたしが早朝の講義をしたものの速記に、なお丹念に加筆していっそう解りやすくしたのですから、寮生以上に得るところが多いにちがいないと思います。

さて以上の実例は何を語るか、「()()()()素直にありがたく」「そのまま」を受けるところにいっさいが成就することを語っているのであります。肉眼で見ておりますと、時とすると()()()()が見えない、そして、非実在、仮の姿というものを見て、()()()()かと思い誤って、腹立ち憎み恨み自分を毀し、他を毀し、家庭を不和にし、髪の毛を棕櫚毛にし、悩ましい地獄の相を現出している。そうしてこの世界は、実に苦しみが満ちている、悲しみが満ちている、嘆きが満ちている、いろいろ不潔なものが満ちていると思うのでありますけれども、あにはからんや、それはわれわれの心が実相を見ず自分の迷える心を外界に投影し、五官のレンズを透してそれを客観化して眺めるから、そこに仮の相が現われて、それを本物と取りちがえて、非実在の悲しい相を本物の悲しい相であると思って、一緒に嘆き、悲しみ、嫌悪し、憤っているにすぎないのであります。

ですから、われわれは時々この五官の眼を閉じて実相を見るということが必要なのであります。すなわち、()()()()()いる相がいかにともあれ、実在の「神の造り給いしそのまま」を見るようにしなければならぬのであります。神想観の修行は()()()()を観る修行であります。「われ今五官の世界を去って実相の世界に()る」というのは、五官で見るのはレンズを通して見る相対的世界ですから、「()()()()」ではない。もしレンズの度が少しでも狂ったら、今とはちがう世界に見えることになるのですから、()()()()にある世界ではないのであって、レンズを透してかくのごとく現われているというにすぎぬ世界なのであります。そういう世界を()()()()と思って執着しておって、悲しんでおったところが仕方がない。ですから「今われ五官の世界を去って実相の世界に坐っている」かく感じまして、理想の世界のすでに()()()()完全なる智慧と愛と生命と供給とに充ち満ちているところの実相世界にいるのだと観じます。その実相の世界が「実相(そのまま)の世界」なのであります。この()()()()を観る目をもって、ありとあらゆるものを見ようといたしますと、いたずらっ子も神の子に見え、病人も健康に見える。戦争ありといえども、すでに、天照大御神の()()()()(上代、多くの玉を円環状に結んで飾りにしたもの。転じて円満、大調和。)の光に照らされたる輝く神の国が見える。仏教に娑婆即寂光土というありがたい言葉がありますが、争いの世界さながらに、()()()()にそこに争いのないところの完全な光明遍照の世界を見ることができることになるのであります。そうすると心が鏡のように澄み透ってまいりまして、波立ち騒がないようになってまいります。すると、この世界は唯心所現の世界であるとお釈迦様が言われ、キリストが「汝の信ずるごとくに汝にまでなれ」とこうおっしゃったと同じように、われわれの信ずるごとく、感ずるごとく、観るごとく、その世界が現われてまいりまして、本当にこの世界が()()()()の世界、神の造り給うた()()の完全な世界がわれわれの周囲に展開してくれるのであります。

そこでこの、()()()()の世界、真如()()()()、実相()()()()の世界というものをわれわれは常に観ることにする、そうしてさらに、その()()()()の世界に住んでいるところの神に造られたる()()()()の人間というものを観ることにいたしますと、今まですべての人間が見ぐるしい人間に見え、利己主義の人間に見え、つまらない人間に見えておりましたのが、それはわれわれの心のレンズを透して単にそう見えていたのであって、()()()()の人間の()()()()の相ではないのだ、そのままの人間は神の子であり、仏の子であり、また神の造り給うたところの人間なのだ、神が完全であるかのごとく人間もまた完全でなければならないということになりまして、五官に現われている相の奥に、()()()()の人間の完全な相を拝むことができるということになるのであります。そういうふうにして、そのままの完全な人間を見るのが生長の家の生活であります。拝む生活というのはそれであってすべて「そのまま素直にありがたい」と拝み切れる生活であります。このすべてのもののその奥に、(肉眼にはまだそうは見えないかもしれませんにしましても)その奥に実在実相の相がある、本物の完全な世界がある。そしてわれわれ自身も「本物の人間なのだから――本物は本物の中にしか生きていない、仮の世界には生きていない――だから、本物の自分(ヽヽヽヽヽ)は本物の完全(ヽヽヽヽヽヽ)な世界の中に今生きているのである」ということが本当に解りましたならば、どんな火の中水の中におってでも本物の自分(ヽヽヽヽヽ)は完全な世界の中にいるのだということがわかりまして、このまま素直にさながらの生活が本当にありがたくなってくるのであります。

さて「()()()()素直にありがたい」という場合の「()()()()」を根本的に「実相」という意味にとりますとそういうふうになるのでありますが、この「()()()()」という言葉を仮の世界の「現状」という意味に受け取りますとどうなるかと考えてみたいと思います。「現象のそのままが素直にありがたい」という場合は、たとえば病気がやってきたら「はァ病気そのままありがたい」と、そのまま素直に受けるのであります。これも一つの素直な受け方でありまして、必ずしも光明無限の生活に背くわけではないのであります。これは仮の世界の方の現状そのままをありがたく受け取ってゆくのでありますが、それでさえも、その素直さがわれわれを生かしてくれるのであります。仮に自分の身体に病気が現われているとしますと、病気そのままを素直に受けて逃げようとしないのであります。逃げようとしないで、そのまま素直にありがたく受ける――この苦しみによって自分の過去の業が消えると、そのまま素直にありがたく受けさせていただくのであります。なんでも逃げ出そうという心がなければ恐ろしいということがいなくなるのであります。われわれは逃げ出そうと思うから恐ろしい。何か犯罪でも犯して逃走した経験のある人に聞いてみますと、逃げているときは人の足音も、障子のコトという音も恐ろしい、宿屋に泊まってもなかなか安眠ができないそうであります。戸籍調べの警官でも来ると胸がドキドキする。ところがとうとう捕まって監獄へ放り込まれたらやれやれと安心しグウグウ寝られる。もう警官がやってきても胸がドキッとはしない。もう捕まっているからそれ以上逃げ出そうと思わないのだから、ドキッとしないのです。そのように、逃げ出そうと思わない時には恐怖心がないのは、()()()()受ける生活になってしまっているからであります。

そのまま素直に受ける気持になれば、このように監獄の中におっても恐ろしいことがなく、素直にその環境を享け楽しむことができるのであります。現象の世界に出て来るいろいろの悩み、悲しみというものは、業の自壊するところの過程でありまして、その業が自壊する時に響きを立てて倒れる。たとえばこういう建築物が素直に建っている時には響きは立てないですけれども、これが地震ででも倒され、あるいは爆弾を投下されてでも粉砕される時には響を立てるのであります。そのように響きを立てる相というものは急激に業が自壊して壊ける時のはたらきなのであります。

われわれの病気の苦しみ、家庭の悩み、不時の災難というようなものがわれわれの生活に現われて来るときには、今まで過去(生まれてから今日までおよび前世を含む過去)に造ったところの業の砕けるときなのですから、われわれは()()()()素直にありがたく受ければいいのであります。そのまま素直に受けるということは、その時その場を最善に生かすように百パーセントの努力をするということでありまして、もう()()()()()と諦めて何もしないで惰けているということではありません。これを招集されて戦場へ行ったことを例に引いてみますと、「逃げ出そう」という心は、戦争が恐ろしくてかえって死傷を多くする心であり、「素直に受ける」といってもわざと身の丈を高くして敵弾に触れるのはその時その場を生かさぬものであり、戦線から逃げ出そうとは思わず、またわざと弾丸にも中らず、その場にある地形や地物を利用し、匍匐し、できるだけ双方の死傷少なく味方の有利になるように最有効に活動することが、その場を最善に生かす道であります。

現在までのキリスト教の中にはどうも受難礼讃の傾向がありがちでありまして、苦しみをそのまま受けて、その時その場を素直に百パーセント生かすことをしないで、苦しみを求めて、わざと苦しみを製造する――苦しみがなかったら喜べないというように歪んでまいっている方がたくさんあるようでありますが、それはまたまちがいになるのであります。自然に展開してくる苦しみは業の消える働きであって、苦しみが無くなる前提として砕けてゆくのでありますから、いつまでも苦しみが継続するために苦しみが連続しているのではないのであります。地震が起こるのは地殻の不平均が最後の安定に達するために地が震れるのであって、いつまでも震れているために地震が震ってはいないのです。それを震っていなければ喜べないというようになり、いつまでも地震がゆっているのがあたりまえだと思うようになれば、邪道であります。このような邪道に陥りますと、三界は唯心の所現でありますから、震れる方がありがたいのだ、震れなければありがたくないと、(けん)(じゃく)の心で「震る」方ばかりを肯定――してゆきますと、その念波によって現象界に現われる相は震れる、これを人生においてたとえてみれば、不幸災難病気などというものが出て来て、いつまでも業が消えないことになるのであります。

ですから、この受難の場合に苦しみを受けるところの「そのままありがたく受ける」受け方にも二つあるということがわかるのであります。「この苦しみは業の砕けてゆくところのありがたい相である。やがて業が砕けた後には光明の世界が来る。暗はアルように見えても本当は無い。光明だけが()()()()()のだから、偽存在が砕けたら光明が出て来るしか仕方がないのだ」という意味で、「アアありがたい、今病気が出ているのは――あるいは苦しみが今出ているのは――偽存在が砕けてやがて光明が出て来るのである。ありがたい」と受けるのは()()に実相を受けて、本当にある光明を予想し光明を心に描くのでありますから、心に描くとおりに現われるという唯心所現の法則によってこの世界には光明世界が現実にも現われて来ることになるのであります。

これに反してそのまま現状をありがたいと受けるにしても、苦しみは神の喜び給うところである、イエス・キリストも十字架にかかられたのであるからわたしも苦しまなければ神様にもうしわけがないから人間の苦しんでいることが神の喜びである、人間が苦しまないで幸福であるならば神は()()()給うものであるというような考え方をいたします時には、それは苦しみをそのまま受けるにしても()()に受けたとは言えないのであります。これはそのまま()()に受け取るのではなく、そのまま()()()()()苦しみを製造して受け取るのであります。

われわれの潜在意識は、かくありたいと思うところの()()をつくり出す力を持っているのであります。たとえば自分が病気になったならば奥さんが同情してくれるだろう、あるいは自分が病気になったら夫が同情してくれるだろう――こうどちらか夫婦の一方が相手の同情を求める心を起こしたがために自分が病気になっている実例はたくさんあります。中嶋先生の満鮮講演行脚の土産話にありましたが、家内が病気になればわたしに凭れてきてくれるだろうから、病気になれ、とこう思って一所懸命に念じたら、家内は病気にはならなかったけれども、子供が病気になったという話をなさいましたが、ともかく、かくあって欲しいと心に描けば、やがてそれがどこかへ形の世界へ出てくるのは明らかです。

ですから、われわれがもし心に、自分が病気の苦しみを受けなかったならば神様に近づく資格がない、苦しまなければ自分は神様に喜ばれないから苦しみたいというような観念から、苦しみ、悩み、病気というようなものを心に描いて招び迎えるようにいたしますならば、そんな悪しきものは神様はおこしらえにならないのでありますが、自分自身の心に描いてそれを現象界へ現出させて、自己を苦しめ、自己を弄んで、これで神様の御心に適うのだと、大変な思いちがいをするようになるのであります。これは神様が苦難を造り給うたのではなく、唯心所現――自分の心が作った苦難であります。

自慰的に自己を苦しめて苦しむことによって神に近づく道だと思うようになると、そのまま素直であるつもりであるのかもしれませんけれども、そのまま素直に受ける心を失って、自分で神様の心を忖度して、神は人間が苦しむのを喜び給うのだ、人間が神に近づく道は苦しまなければいけないのだと、逆さま逆さまに考えて、わざと苦しみをこしらえているというようになるのです。今までのクリスチャンの方の中には、この受難礼讃の方が多くて、自分で自分に病気をこしらえたり、自分で求めて家庭の不和を起こしていながら、どうして人生はこんなに苦しみの多い世界だろう、アダムの原罪によるのだからいよいよ苦しまなければならぬと、勝手に神の御意志を忖度して、好んで潜在意識で病気を作っておった方で、わたしの著書を読んで、自分の心のまちがいに気がお着きになると病気が消えてしまったという実例はたくさんあるのであります。

要するに神は悪しきもの、病気や苦しみを造り給わないし、また人間がかくのごとき悪しき状態に陥ることを望み給う結果われわれに苦難が顕われて来るのではなく、ただ業の自壊作用なのですから、そのままじっと素直に受けておれば、悪しきことは本来ないのですから、ただ波として一時()()()()ているだけなのですからやがて消えてしまうほかはないのです。悪というものはたとえば風のようなものである。風というものは、(外に風が吹いて樹木の揺れるのを見て)あんなに風が吹いて、あんなに樹木を動かしている、だから皆さんは風が()()のだと言う。しかしわたしは風は()()と言う。なぜならあの風がもし()()()()()のだったら、あの風を箱詰めにして夏まで保存して夏に出して使ってみたい、といって風を箱詰めにして、部屋の中へ持って来てのぞいて見ると、もう風は()()のです。風というものはこのように()()ものなのです。われわれの苦しみというもの、悩みというものもこの風のように、吹き荒んでいる間はアルがように現われていますが、本当は()()のです。あそこに吹いている風と同じことなのでありまして、「そんなにお前に悩みがあるなら、お前の悩みをここへ箱詰めにして持って来い、点検してやろう」と言って持って来たその箱を開いてみると箱の中には悩みはない。ですから悩みというものは()()()()ので、ただ心の中で仮にわれわれがそれを作っているにすぎないのです。それを、悩みとか、苦しみとか、病気とかいうものがあたかも()()()()()かのように思っているのはわれわれの錯覚であって、そんなものは()()()()()のであります。ですから禅宗の第二祖といわれた慧可禅師が達磨大師に対って「いかにしてかわが心を安んぜん、わが心を安んずるの法奈何」とお尋ねになったら、達磨は「わたしはお前のためにお前の心を安んじてやるから、そのお前の心をここへ持って来い」と言われた。すると、慧可禅師は一所懸命に自分の心はどこにあるかと思って探した。探して持って来ようと思ったけれども、ついに自分の心なるものがどこにあるか発見することができなかった。そこで慧可は「心を探ぬるに心無し」とこう答えられましたら、達磨大師が「我汝のために汝の心を安んじ終わんぬ」と言われた。そこで慧可はハッと悟ったという。そのわれわれが悩んでいる心というものは、実はああいう風が吹いているようなものである。吹いている時に()()ように見えているのですが実体は()()。激昂して腹が立つて、あいつをやっつけてやろうと拳を振り上げている時にはあるかのごとく見えるのです。「そこで、まァあなたは盛んに腹立っていらっしゃる、その腹立てた心を箱詰めにして少しも変わらないように明日ここへ持って来なさい。わたしがそれをなだめてあげましょう」と言いますと、その腹立つ心を箱に詰めようとしているうちに、腹立ちの姿がだんだん変化してくるので元のとおりに寸分ちがわぬように腹立ちつづけているわけにはゆかない。常に変わってしまうのです。この変わるスガタ、無常のもの、非実在のものが心なのです。そういう心は()()心である。しかしながらこの本来無い腹立つ心も、次に腹立て、次に腹立て、いつまでも()()()けてゆけば、常に風が次から次へと吹いているようなもので、その腹立つという心が続いてゆくかのごとく見えるのです。風を箱詰めにしたら消えるのは次の風を断つからです。次から次へとその後を断ってしまえば、今吹いている風は、それが内部に潜在させているエネルギーだけの分の風が吹いてしまえば消えるかはない。そのままおいて次を新たに作らねば業はこの風と同じように消える。業も風も波の一種でありますが、波というものはアルように見えていても結局消えてしまうものなのです。池の中へ石を抛り込みましても、抛り込んだ石を中心として渦が捲き起こって来る。次へまた石を抛り込めばまた渦を起こす。ところがポーンと一つ石を抛り込んで、後を断ってしまってさらに石を抛げ込まずにおけば、最初の渦というものは消えてしまうほかはない。生活上の()()()()素直に受けるというやり方は、この水面の渦というものを、今ある一遍切りにして、素直に受けて後を断つという生活の仕方であります。たとえば「腹が立つ」という渦が起こってきましたら、「これは自分の過去の業というものが催して、石を抛り込んで渦を起こしたその波が起こっているのである」とそのまま素直に受けて踠かずにおれば次には腹立たないということになるのでありますが、その時にもがけばそれが次の業として作用して次に石を抛り込んだと同様の結果になってきて腹立つ心が消えないということになるわけです。ですから腹立つ心を消えさせる唯一の方法は、次に踠かないこと、次に業となるような石を抛り込まないことであります。今は腹立つ心を実例に引きましたが、必ずしも立腹の心だけではない。悲しむ心でも、悩みの心でも、病気でも、それを断ち切る方法は次から次へと波を起こさないことであって、次を断つ(ヽヽヽヽ)ことにあるのです。

病気も一つの波であって、心の不調和の波が具体化したのを病気というのであります。すべて心のエネルギーは形に現われたときは消えてゆきつつあるときでありますから、抛っておけば消えてしまうのです。ラジオの波でも抛っておけば消えてしまって、その時間にセットを合わさなかったら次の時にかけたって何もかかってこないでしょう。波だから消えてしまうのであります。波は起こっている時はその波立たせるエネルギーの消耗されつつある時です。われわれの過去の業も、われわれの生活に悩みがあらわれ、病気があらわれ、不幸があらわれているときこそ、業の潜在エネルギーが消えつつある時ですから、われわれは、そのまま素直に受けつつ、それから逃げ出そうと、踠き、悩み、不平に思いさえしなかったら、それらのものはみなやがて消えてしまうのです。病気もそのまま受ける者には張合いがないから病気の方から逃げ出して消えてしまうのであります。またたとえば、古池に石を抛り込んで、渦巻きが起こっているから何か蛙でもおるのかと思って棒をもってつっ込んで掻き回してぐるぐるやったらいつまでも水がぐるぐる回って波が起こる。その渦が起こっているのは何かおるにちがいないと思ってまたぐるぐるやっている結果、連続的にいつまでも渦巻きが消えないことになるのです。そこで病気も――病気というものは本来()()ので――この渦巻きのようなものです。本来()()のであるが現われている時だけ水面に一種の不調和な波動が起こっているわけです。その波動を何かあると思って、心の恐怖でぐるぐるかき回すと、そういうことをやればやるだけ、波が起こってますますその渦巻きは消えないのであります。人と人との争いでも「あいつあんなふうにしてわたしに対して何か悪意を持っているにちがいない」と思いまして、「何か悪意を持っているかもしれぬから、一つ遠回しに聞いてやろう」とこう考える。そこで、その人の知合いのところへ行って、「あの男、わたしのことを何とか言っていやしなかったかね。どうもあの男は近頃僕に対して変な尖がった顔つきして睨んでおったから」というようなことでも言いますのが、池の中を棒で掻きまわすと同じ働きになっているわけです。そうすると相手の人は、「いや君、安心しておったらいいよ」とその時は言ってくれるかもしれませんけれども、その人がまた一方の人に会った時に「君のことをあの人はこう言っておったよ。君が尖った顔して睨んでいたから何か悪意を持っていやしないか」と言う。それがまた相手に伝わってくると、「何もわたしは尖った顔をして彼を睨んだこともないのに、あいつは邪推している。けしからぬ」と思って、今まで何とも思わなかった人間が、本当に今度は心を尖らせて睨むというふうになって、そこに大きな波紋を起こすということになるのです。その大きな波紋を避けようと思ったら、最初の波紋が起こった時に、それが起こってるように見えても、そのまま素直に受ける気持になってゆけば、たとい本当に渦巻きがあっても、渦巻きは渦巻きだけの業が回転すれば消えてしまう。相手が本当に睨んでおっても、素直にそれを受けてこちらがありがたく感謝するような顔をしておれば、相手だってそんなにいつまでも睨んでいるわけにもゆかぬので、その渦巻きが消えてしまうのであります。

こういうように、そのまま素直にありがたいという功徳は、実に宏大無辺な功徳を持っているのであります。現象の方から素直に受けるゆき方は、病気もそのまま素直にありがたいと受けることによって、業の消える働きを素直に促進するのであります。実相の方からそのまま素直に受けるゆき方は、病気と見ゆれども病気あるにあらず、神の造り給いし世界には病気なんかないのだというような気持で、()()()()の実相を見るということにいたしまして、中から隠れている実相を現わすということになるのであります。

そこで最初の肺病の治った人の話に戻ります。「あんたはどうも頑固で他人の言うことを素直に聞き入れる心が足りぬ。すなわちハイという返事が悪いから肺がわるくなっているのですから、そこでハイハイ言うようになさい」と言ったら治ったというのは、まるで落語のような低級な迷信のように考えられますけれども、そこには今申しましたような深い真理が籠っているのであります。素直に、そのまま受ける心というものが足りないために人といつも角を突き合わせるような心になっておられる人がよく胸の病気を患います。たいてい胸の病に罹っている人は非常に批判力が鋭い。肺病の人は死に際までも頭がハッキリしていると言われますが、鋭敏な頭で、批判力の鋭い人が多い。そういう人はいつも争いがちであり、いつも心の角で他と突き合っているのであります。争い、突き合いの波の渦巻きが常に起こっているのですから、その不調和の波の渦巻きが胸に溜まれば、形に現われてきて、それが胸の病となるのであります。ですから、何を言われてもただハイ、何でもハイハイと素直に受ける気持になったら、心の衝突が去り、心の自由性が回復する。したがって肺がよくなって、自分のハイの返事がよくなったので肺はよくなってくる。「ハイハイと言え」で肺病が治ったのは、こじつけるようで実はこじつけでもなんでもない、根本原理は、素直な心は万物を癒す、素直な心のところには争いというものがない。素直が破れた時にはじめて歪んだものが出て来たり、捻けたものが出て来たりするのであって、素直の中には一切万物が備わっているということであります。では、素直ということを根本的にいかにしたら把握することができるのかといいますと、すべて実在の世界には悪いものはないのだという――この大自覚です。何か悪いものがあると思ったら素直に受けられない場合があります。わるいものを排斥するのは人間の自然でありますから、この世に何か悪いものが実在すると考える限り、われわれは絶対素直にハイと言ってすべてを受けることができなくなるのであります。ところが、生長の家の人生観になりますと()()()()()()()においては、悪いものは()()のだということを本当に根本的に知りますから、悪いものは()()から、来たるものはみなよしでそのまま受けることができるのであります。ですから本当の素直というものは、生長の家のような世界観になって悪いものは本来ないのだということを徹底的に魂の中へ畳み込むより致し方がないのであります。それには『生命の實相』を読むのもよいが、自分で読んでいるだけでは読みちがい、解しまちがいというようなこともありますから、その点ではこうして練成を受ける人は毎朝口で教えを聴き、身をもって行ずるのですから、三月もいるうちに人格が変わり性格一変してしまうのは当然のことだと考えられます。ともかく、根本的にわれわれが「そのまま素直にありがたく」なれる人生観は、この世界は神様によって造られた、神の智慧と、愛と、生命と、無限の供給とによって造られたのであって、すべてのものは、ことごとく完全に調和しているのだという「アルものすべて善し」の根本的世界観を把握し、今までの「悪も存在する」という世界観を根本から置き換えてしまった時に、われわれはすべてそのままありがたく受けることができるようになるのであります。そうなれば何がやってきても驚くことも、恐れることも、心の波を立ち騒がせることもいらない、みんなありがたい、みんな素直にハイハイと受けられるようになるのであります。

先日、ある人の書いた天理教祖の伝記を見ますと、そのうちに天理教祖がある病人がお腹が痛くて苦しんでいる。すると天理教祖が、やおら座を立って、神前へ行き三粒ほどのなんだか塊を持ってきて、病人に与え「これをお喫りになればじきに治りますから、いいお薬をさしあげましょう」と言って口へ入れて下さった。すると神徳たちまち現われてその病人の病気が治った。そこで病人が教祖に「あれは何でしたか。大変よく効きましたが」とお訊きしますと、教祖は「あれは金平糖じゃわいな」とおっしゃったというのです。そしてまたおっしゃるのに「その金平糖を嘗めておれば病気が治るじゃろう。なぜ治るかお前たちにわかるかえ。それはね、金平糖は角が立っている。角が立っているのをありがたいと嘗めておったら、丸くなるじゃろう。そうして門というものが取れれば中から甘い美味しい味が出て来る。人間はありがたいとあらゆるものの味わいを素直に噛み締めておったら心の角というものがなくなって、ただありがたいばかりになる。そしたら病気というものはなくなるのだよ」と言われたというのであります。これもさながら、生長の家で言う「そのまま素直にありがたい」生活であります。

要するに、心の角で自分自身を傷つけるのであって誰も相手がわれわれを傷つけるのではないのであります。悩みがあるのは自分の心で、自分自身が傷ついて、自分が竹の棒で池を掻きまわしながら、「波が起こった、波が起こった、どうしたら消えるだろう」と狼狽しているのが悩みの相なのであります。それをそのまま素直にありがたいと、こう丸く受けてしまえば、何事も悪いことはこの世の中に起こらないのであります。それでは万事がそのまま素直にありがたいということになれば、何がやって来ても防御せずにそのまま素直にハイハイと敵に首でも切られるようになっているのが、素直なのだろうと考える人もあるかもしれませんが、それは素直でなくて、強情に「こうだ」というものに引っかかっているのです。このそのまま素直ということは、今与えられた環境においてそれをありがたく受けてその場における一番いい働きをやってゆくことなのであります。親鸞聖人の言葉を唯円坊が録したという『歎異抄』という本がありますが、その中にどういうふうにしたら救われるかといって弟子が親鸞聖人に聞いているところがあるのです。すると親鸞聖人が仰せになるのに「それではわたしの言うとおりを必ず実行するか」「ハイ、実行いたしまする」「それでは人を千人殺したら極楽往生できるから千人殺せ」と仰せられた。唯円坊は「仰せではございますが、わたしには千人どころか一人も殺す器量がございません」とお答えしました。すると親鸞聖人は「それでわしの言うとおり実行すると申したのじゃ。それでよく思い知れ、人間は自分でどうしようと思っても我の力で何事もできるものではない。千人を殺せと言われても殺す因縁の回って来ないものは一人も殺すことができない。自分の働きでどんなに殺そうと思っても殺せるものじゃないのだ。いわんや、救われるというような大事なことは我の力でできるものではない」と言われました。我の力でないのですから、われわれはそのまま素直にありがとうと受けるほかはないのであります。日本が第二次世界対戦の責任者だと言われて非難されていますけれども、あれも、過去のお互いの業がめぐり来たったのであって、あそこまで行ってしまったら自然にそうなるよりしかたがなかった。それは人類というものは、今まで他の生物を殺して生きてきた。殺すものは殺されなければならない。それは心の法則なのであります。業は形にあらわれて自己処罰して消えつつあるのです。親鸞聖人も言われたように我の力では一人だって殺すことはできないのです。そして殺した者が殺されて業が自浄されて次の新しき時代へと進展してゆくのです。「あいつが戦争を起こしたのだ」と人を責める心は、また次の争いの業をつくることになるのです。われわれはどんな事態が起こって来ても、それに処するための最善の手段をつくすことはむろん必要なのですが、それを契機として人を憎んだり、争いの心を起こしてはならないのです。火事は消さなければならない。その消すことに熱心になるのが最善の手段を講じることになるのでありますが、火事を憎んだり、腹立てたりする必要はない。それは自分の魂の浄化のために解決すべき課題として与えられたものとしてそれを素直に受けて、最も平和な明智ある心をもって処置してゆけばよいのです。学生が宿題を与えられたらそれを素直に受けて解決することによって課せられた業は果たされて消滅し、自分の魂はいっそう向上するようなものであります。