『生命の実相』第二十九巻 女性教育篇 第7章 | 山人のブログ

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第7章 ダリアの花に題して

(一)

ここには真っ赤なダリアの花が咲いていますが、このダリアの球根を一見してみますと、一個の(いも)のような形をしているにすぎないのであります。この(いも)のような塊の中にあの美しい()(たん)の花のような花があるということは、ちょっと考えると予想もできないように思われるのであります。しかしながらあの見苦しい一塊の薯の中にすでに美しいダリアの花があったというのでなかったならば、あれを植えた場合必ずああいう花が出てくるというはずがないのであります。ある場合にはまたちがう花ができ、ある場合には醜い花ができたりして、いろいろ種々雑多なものが出ましたならば、そうするとその時に応じていろいろのものが出て来るので、初めからその薯の中にあのダリアの美しい花があるとは言えないのですけれども、実際の場合にはその同じ種類の薯からは同じような花が咲き、同じような葉が出てくるということになりますと、そのダリアの球根の中にはすでに葉があり花があり、それが(ひろ)がって現象世界に展開したと見なければならないのであります。ところがこのダリアの薯にしたところが、それを顕微鏡で覗いてみましても、ダリアには白い花のダリアもあれば赤い花のダリアもあるのですが、その色のちがうダリアの薯を切って、一つ一つその細胞を顕微鏡にかけてのぞいてみましても、その細胞の成分の相異は顕微鏡によってこれは赤い薯であるこれは白の薯であるということはわからないのであります。顕微鏡的組織の中には、そのダリアの球根の物質的細胞になんら赤いということも白いということも、こういう葉の恰好ということも、ああいう花の恰好ということも存在しないのであります。その物質的組織の奥に何かダリアの花の形や色が描かれているのであって、それが現われる条件を備えた時初めて形になって出てくるのであります。

(二)

たとえばこのダリアの花は赤いのでありますが、生きているかぎり、この蕾は開いて赤の花を咲かせるのであります。もうこのダリアは茎を切って花瓶に挿してあるのでありますから、その蕾が伸びて赤い花になるとしますと、赤くなる要素は球根にあるのではなく茎のどこかになければならない。ところがこの茎を切って、それを分析しても、これが赤の要素である、これが白の要素であるということを検出することはできないのであります。根を通ってくるにせよ、球根を介するにせよ、茎を通ってくるにせよ、その吸い上げる養分が赤い色に変わる、それはこのダリアの生命があるかぎりそうなるのであって、根とか球根とか茎とかの器械があるからそうなるというのではないのであります。ただこういうふうなものが自然と出てくるように無形の世界にその原型が備わっているのです。その無形の世界にある原型が、これがわたしの言うところの「習慣の心」とか「傾向の心」とかいるのでありまして、普通心理学者のいう潜在意識ではないのであります。普通心理学上の潜在意識はどういうことかといいますと、たいていは記憶心象のことをいって、生まれてからいろいろ経験するそれが、記憶にずっと蓄積されているけれども、普通の時は思い出せないような隠れている意識、これを潜在意識と言っているのであります。そして現在、ものを考えたり行なったりするために表面に現われて、動いている心を現在意識と申しているのです。しかしわれわれが赤ん坊として生まれてから以後記憶に残った心象(ことがら)(しんしょう)の他にまだまだ深いところに、今までから動いているところの「傾向の心」または「習慣の心」というものがあるのでありまして、その心の設計作用または建造作用というものがあってこそ、まだ心の発達していない胎児が自己の身体を設計し一定の形に造り上げてゆくことができるのであります。そういう意味の、見えない意識をいう場合には、単にこの潜在意識という心理学上の言葉ではどうも不完全であって、傾向的意識とかあるいは習慣の心とかいうと、いっそうわかりやすいのであります。たとえば赤ん坊が生まれると、誰が教えなくとも乳房を含めると自然と吸うようになる、吸うてよいか悪いかわからないけれども、乳房でなくとも空気にしたところが現に吸うているのであります。お前空気を吸わないと死ぬぞと言って教えなくとも、やはり空気を吸っているのであります。これらは生まれて後に経験して得た潜在意識ではないのでありまして、生まれる前から一種の傾向の、習慣的心を持っているからであります。病気も「心」から起こると申しましても、それは、経験後の心もありますけれども、生まれる以前から続いたところの意識(こころ)(いしき)もあるのであります。そういう生後経験以前の意識がこういうダリアの赤い花をこしらえたのであります。こういうダリアの赤い花は、出て来る前からこういう花の種子だか球根だかがあったのです。しかし、地球はいかなる植物も生存できないような高熱状態があったのですから、その種子も球根もない時代があったのですから、そういう種子や球根ができたとするとその種子や球根の設計が心の世界にあったとしなければならないのです。地球の過熱状態以前から、種子や球根以前から、心の世界にあったところのその形が今ダリアの赤い花として開いただけであります。活動写真はスクリーンに映る時その姿があったのではないのですでにフイルムに捲いている時から映してあるのです。それがある条件の備わった場合にスクリーンに映し出されるにすぎないのです。それと同じようにこの花も初めから無形の世界に捲き収められている。それがある条件の備わった場合に活動写真がスクリーンに映るようにそこに現われるのであります。これが「習慣の心」あるいは「傾向の意識(こころ)」というもので、心理学上の言葉で言いますと、ちょっと狭くて完全に当てはまらないのですけれども、広義の潜在意識ということにあてはまるのであります。ところでわれわれの物質界に出てくるところの物質的肉体的の姿状態、ダリアの花なら、その花の姿状態というものは、それは物質的に出て来るまでに心の世界に初めにあるものが、それが形に現われてくる、とこういうことになるわけであります。

(三)

われわれの運命も、不幸なあるいは幸福な運命が形の世界に出来上がるまでに、心の世界にそれが出来上がり、心の世界に出来上がったフイルムが現実世界に現われてくるのであります。だから、事件が起こる前にそのとおりの光景を夢の中や、精神統一中にアリアリと見ることもできるのであります。『生命の實相』の中にも例を挙げてありますが、ある人は、水車の修繕をしている時それに捲き込まれて足に重傷を負い、ついに片脚を切断するという夢を見て、今日は危ない予感がするから、出勤しても何か故障が起きても断じて修繕すまいと思って、水車小屋の後ろの山の中に逃げたが、山の中に材木泥棒がいたので、それを捉えようと思って追っかけているうちにすっかり夢の中のことを忘れてしまって、工場へ帰ったところを、のっぴきならぬ工場主からの頼みで、水車をちょっと修繕してくれと言われて、断りきれなくて修繕をしたら、注意に注意を重ねて作業をしたにもかかわらず、とうとう夢に見たとおりに水車に捲かれて重傷を負い、片脚を切断せねばならないようになった。これは現実の世界にその事件が起こるまでに、心の世界に起こっていたから夢の中で見ることができたのだとあります。またある児童が電車に轢かれるという予告が夢の中にあったので、轢かれないように一生懸命見張りをしておったのに、ふと見張りの隙にその児童が電車に轢かれてしまったというふうな現象も書いてありました。そういうふうに心で事件以前に見たとおりが現われてくるのは、どうして現われてくるかというと、潜在意識の世界にある観念――無形の世界にある観念が現実世界に形を現わして来るということになるのであります。無形の世界に無形の「心」という元素で造られた心の影、心の姿、形というものがわれわれの運命の世界に出てくるわけであります。昨日も中神さんが自分の子供が突然(ヽヽ)亡くなられた話をなさいましたが、あれも別に予告現象といってはっきりした予告現象もなかったのですが、子供がどうして死んだのであろうかと思っておられたら、妙なことにやむをえず古本屋へ出て行かなければならないような事情になって、古本屋へ行くと、数日前に新刊されたばかりの『生命の實相』風の巻の新しいのがすでに古本屋に売っている。その本の発売元に勤めている中神さんのことですから、新刊二、三日後に古本屋に読み終わりもせずに売られている古本に興味を感じて買ってお帰りになった。そして(ひら)いてみたら栞がちゃんと挟んであって、年幼くして死ぬ児童はこういうわけであると、ちゃんとそのページに(しる)してあったということであります。あるべき事があるべきようにチャンと手廻しができているのです。また二、三日前にお盆ではあるし暑苦しいから髪の毛を散髪してやりたいと思って理髪店で散髪してやったら、「これはあなたのお子さんの初めての髪の毛ですから大切に保存しておきなさい」と言って、半紙にちゃんと、その死ぬべき赤ん坊の髪の毛を包んでくれて保存してある。これが今では大切な形見になったのです。そういうことなんかから想像しても、その幼児の死が起こるまでにはその死の準備がちゃんと整っているのでありまして、これもすでに心の世界にあるべきものが形の世界に現われて来たのであるということを知ることができるのであります。すべて心の世界にないものは出て来ないのでありまして、心の世界に造られたものが形の世界に現われてくるから、こういうことになるのであります。ですからわれわれは心の世界に良きものを造るように心がけなければならないのであります。

(四)

結婚問題なども、まず心の世界で造られて、それがしだいに形の世界に顕われてくるのであります。形の世界でいくら焦ってみても、急いでみても、心の世界に成就していないことは実現しない。ですから、まず神に祈って神と一つになって、神の導きで心の世界に良縁を作っておきさえすれば、急ぐことも焦ることもいらないで、自然にそれが形の世界にあらわれてくるのであります。ある時、関西へ講演旅行に参りましたらこういう話をきいてきたのであります。京都にAさんという生長の家の誌友がある。娘さんが三人あるのですが長女が二十四歳でもう婚期を過ぎてきたというので、親たちはいくらかの取越し苦労をしておられたのであります。どうも娘の縁談が遅いからどうしたらよかろうかと親しい友達のIさんに御相談になったのです。するとIさんが、「生長の家は『引っかかる』ということが一番いかんのやさかい、どうでも神様にお委せいたしますという気になりなはれ。早く片づけんならんということもないし、自然が一番ええのでっせ。そうかというて、いろいろの人に頼むというのはいかんと自然に来るのばかりを待たんならんと力むということもいらへん。人に頼みとうなるのも自然やさかい。谷口先生は、嫁にやりたい娘があったらその写真をたくさんを写して知っている人に皆くばっておいて、神様よきようにして下さいと神様にまかせておいてもええと言っていられた」と言われたのです。Aさんは帰ってそのことを自分の娘に話されますと、お嬢さんは「わたしいややわ、そんな写真だけ見て好きになるような人は。わたし本当に本人と本人と会って好きだと心から思うような人でないといややわ」と言われた。それにも一理あるのでAさんはお嬢さんの写真をたくさん撮って知人へ配るというようなことはせられませんでした。しかしIさんの言葉で安心せられました。それは「早く片づけんならん(ヽヽヽ)ということもないし、生長の家はねば(ヽヽ)ならん(ヽヽヽ)ということはない、生長の家は引っかかるのが一番いかん。自然が一番いい」ということでした。娘がそういうのも自然であるし、それでよい。何も知り給う神様がよいようにしてくださる、もう神様にお委せしましたという気になられました。するとIさんから、「この青年にお嬢さんを(めと)わせたら」といって一枚の写真を持って来られました。相手は相当のところであるし、娘も別にいやだと言わないし、縁談は順調に進行いたしました。

(五)

ところが、ある日のこと、自分の甥が東京からやってきたのです。Aさんは近いうちに娘が結婚することになっておって、この人と縁談が進行中である、この人がその相手なのだといって写真をその甥に見せたのであります。すると、その甥がじっ(ヽヽ)とこの写真を十分間ぐらい睨んでおって、それから「伯母さんどうも僕の心にピッタリこない、わたしがこう見ているとどうもわたしの目と目が合わない。どうもこの縁談はよくないと思う」と言うのです。その甥というのは人相や相性をよく観るのだそうです。「なるべくならやめておきなさいましよ。わたしの友だちに良い候補者がありますから、その方へやったらどうです」という話なんです。ところが、甥がそう言ったかといって断るわけにもいかないし、それからIさんとも親しい間柄であるから、Iさんから話があったのを、そんな薄弱な理由でむやみに断るわけにもいかないのです。すると、その甥が言うのに、「いやそれはよい断りようがある、それでは八卦見の所へ行きなさい。そして八卦見の所に行ってももしよいと言ったら仕方がないからお嫁におやりなさい。しかしもし悪いと言ったら、それを口実にしてお断りなさい。そうすれば、だれそれが言ったというて先方へ傷がつかなくてよい」という話だったそうです。それからAさんが八卦見のところへ行ったそうです。八卦見に行って互いの年齢を言って「これとこれはどうですか」と言ったら、「それはいかん。たいへん相性が悪い」と一言の下に言ったそうです。そして八卦見が「いかん」と言ったのですから誰にも傷つかずに断われるわけですが、本人がおって断っては、相手を嫌って断ったとあっては悪いからと、そのお嬢さん甥が東京へ伴れて行ったのです。それから、その甥の方がAさんのお嬢さんを東京の自宅へ伴れて来まして、自分の知合いの男に紹介するつもりでおられました。ところがその甥というのは三年ほど前に結婚して東京に家を持っているのです。音楽家であってそれからその友だちの所へ音楽家の友だちが多勢やってくるのです。ところがある日、音楽学校の新しい先生でYさんという青年が甥のところを訪ねて来まして、ふとお嬢さんを見初めたそうです。ふと見初めたけれども何とも言わないで、「あああのひとは善さそうな人だな。あんな人を妻に欲しいな」とこう思ったのです。そう思っても本当に恋しいと思った場合には相手の運命のことなどを考えて軽々しく求婚などもできないものです。その慎重な青年音楽家は何にも言わないでそのまま自分の思いを秘めて自宅へ帰って行きました。「今、自分は音楽家としてスタートを切ったばかりで収入も余計ないし、親に妻君を貰ってくれと言うほどには、確固たる実生活の基礎が築かれていないから、あの人を欲しいには欲しいけれども、結婚してもあの人を幸福にしてあげられない」こんなことを考えて、遠慮して、そのままそれを自分の心のうちにのみ秘めておられたのであります。やがて学年が終わって学校の休みに、この青年が国へ帰ったのです。すると、国の父が突然「お前、嫁貰わんか」と言うのです。「嫁貰わんか、といっても、どうもまだ自分が生活がしっかりしてないのだから、貰うわけにもまいりませんね」と答えますと、父は「しかし、貰うものなら、良いのがあったら貰ってもいいだろう?生活ぐらいのことは心配しなくてもいいよ。良いのさえあれば生活の方は俺の方から足してやろう。」こういう話なのです。「それは良いのさえあれば貰っても悪くはないけれども、なにぶんその自分で自分だけがやっと生活できるくらいだから……」と答えますと、「かまわんじゃないか。いいなさえあれば。お前知らんか?Aさんの所に良い娘があったじゃないか」と父はこう言うのです。そして、「この人だよ、お前貰う気はないか」と一枚の写真の中の一人のお嬢さんを指差されたのを見ますと、どうしたことでしょう。先日Aさんの甥の宅で初めて会って「この人を欲しい」と思ったお嬢さんだったのです。

というのは、もう三年前甥が結婚した時、結婚式にAさんが甥の結婚だというので娘と一緒に参列したのです。その音楽家のお父さんもその結婚式に参列しておって、その時親がAさんのお嬢さんを見初めておったのです。そして「もう二、三年して息子が就職したころにあの娘欲しいな」と、その時から、自家の息子の嫁に欲しいと思っておられたのでありました。親の方はちゃんと心に極めておかれたのを、その青年はAさんのお嬢さんだとは知らないで、甥の所で偶然に出会って「あの人欲しい」と思って、胸に秘めてあったのです。それを親の方から貰わんかと言うのでなんという好都合のことであったでしょう。そんなわけで先日電報で、Aさんとその娘さんと一緒に上京せよという電報が東京の親類から来たのであります。何の事かと思って二人が上京してみると、まるで誂えたようなよい具合な縁談だったのであります。この良縁はいわば三年前から甥の結婚式に両方の人たちが参列した時から心の世界にできていたのであります。それが、「早くこの娘を片づけねばならぬ。片づけねばならぬ」と思って焦燥(あせ)っていられる間は、その「ねばならぬ」という心の引っかかりが邪魔になって形の世界に顕われるのが遅れていたのですが、生長の家へお入りになって気分が開けていって、そうしてもう早く片づけようとも思わなくなって、神様の御心のまにまにどうなってもよろしゅうございますという気持ちになった時、よい具合に向こうからちゃんとそういうお献立ができてきて願ったり叶ったりの縁談が整ったのであります。引っかからない心、素直な心、そのまま受ける心、今あるうちでなんでもできることを素直に実行する心、こういう心になりますと、「我」の心がとれますので、神様が心の世界に用意しておいてくださった一番良い事が現実世界へ現われてくるのであります。

(六)

というのはわれわれの心は、『華厳経』の「唯心偈」に書いてあるとおり「(たくみ)なる()()のごとく」どんなものでもこの現象界へ描き出すのであります。ちょうどラジオ・セットの波長みたいなものでありまして、その波長に合うものだけを引き寄せる。それを画家が自分の個性相当のものを描くように描き出すのであります。必ずしもある具体的な病気とか不幸とかを思わなくても、それに類似するような暗い心を持続していますと、類は類を招ぶ心の法則によって、そこにある具体的な病気や不幸が起こってくるので、必ずしも一定の病気とか不幸とかを思い浮かべなくても、心の創化作用によって具象化(かたちにあらわ)(ぐしょうか)れるのであります。ラジオのセットは何も一定の姿を思い浮かべることはないけれども、よそから放送があるとどんな放送であっても具体的の響きをそこに立てるのでありまして、それと同じことでわれわれの心もラジオのセットのように、この習慣の心が常に悪い波動を出し、悲観的波動を出し、暗い波動を出し、人を恨んだり、ぶつぶつ言ったり、陰気な憂鬱な波動を出していたならば、それに相応(ふさわ)(そうおう)しい波長をもった観念が集まってきて具象的に現われるのであります。自分自身は何も結婚の最初から「離婚」などというような不肖なことは思い浮かべていないにしましても、この世界のどこかにおいて、「離婚」という不肖な事件はザラにあり、その観念はいたるところに満ちていますので、もし、その観念を感受するような暗いとげとげしい心を持っていましたならば、宇宙に満ちている「離婚」の観念がその心のラジオ・セットに引っかかって具象化するのであります。例えばJOBKならJOBKの波長を自分の心に起こす、そうすれば宇宙のどこかにあって放送しているところの「離婚」の波動を自分の心の波動が磁石になって引き寄せ、それを具象化するのであります。「不幸」というものは本来ないのですけれど、すべてそういうぐあいにしてわれわれの心のセットにかかってきまして、そこに形に現われるということになるのであります。「本来無い不幸」がどうして現われるかというとすべて「我」の心が邪魔になるのであります。「我」というものは「本来一体」のものを取りちがえて分裂感(わかれたかんじ)(ぶんれつかん)を起こしたものであります。ちょうど大海の水のように、われわれの生命は、「神」と「自」と「他」と、その三つは一体である。それが波と波とのように分かれて、本来一体でないと思い、「(われ)」だけであくせく苦労しなければならないと思う、これが「()」の心であります。この「()」の心で苦労すると本来一体が一体でなく見える。大海の水が一体でありながら無数の波に分かれているように見え、満月は本来マン円いにもかかわらず、(くだ)けて不完全に見えるように不幸は本来ないにかかわらず、不幸の(すがた)が表面に現われてくるのであります。ですから幸福を招きたい人は「()」の心を捨て、引っかからない、素直な心、そのまま受ける心、神様におまかせした、全体の動きにおまかせした、明るい焦らない朗らかな心をもつことが大切であります。「()」があったら人間は明るくなれません。

()」をとったら明るくなる。明るい世界に暗い影は這入ってこないのですから、常に心を明るい清らかな嬉しい嬉しいの状態でおきますと、万事都合よくそのままで何でも整うようになるのであります。