『生命の実相』第二十三巻 常樂篇 第5章 | 山人のブログ

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第5章 全面的自由としての宗教的の救い

一、救われるという本当の意味

宗教に熱心な人たちは「救われたい」とよく申されますが、救われるということはどういうことだと本当に知っていられる人が少ないのであります。貧乏の人が救われると申しますれば金持にしてもらうことだと思っているでしょう。病気の人が救われると申しますれば病気を治してもらうことだと思っているでしょう。監獄にいる囚人が救われると申しますれば特赦になって獄舎から放免されることだと思っているでしょう。そうしますと、金があり、身体が健康であり、境遇環境になんの屈託もない人間はもう救われているのであるか、もう救わないでもよいかと申しますれば、決してそうではないのであります。

救われるということは、外界に善き物が整うことばかりを言うのではありません。外界に善き物が整うということも救われるということの一種ではありますが、宗教的に言う「救い」とは別のことであります。

宗教的の救いと申しますのは、人間が神そのままの自由自在の実相を実現わすることでありまして、病気とか貧乏とか境遇とか、そんな一つ一つの外界の欲望がかなったから宗教はありがたい、かなわなかったら宗教はつまらないというようなものではないのです。もっともっと根本的な救いが宗教的の救いなのであります。

人間が自由自在を得る道は、外界の方面から進めてゆきますと、学問技芸あるものは学問技芸なきものよりも外界を支配する方法を知っております。知恵あるものは知恵なきものよりいっそう外界を自由にすることができます。金あるものは金なきものよりいっそう外界に主権を(ふる)うことができます。しかし、学問技芸、知恵才覚、財産金銭などは、われらにある限られた自由(ヽヽヽヽヽヽ)を与えるのみであって、根本的にわれらに自由を与えるものではないのであります。学芸あるものは学芸にとらわれ、知恵あるものは知恵にとらわれ、財宝あるものは財宝にとらわれ、自由は外界から与えられると思っていたにかかわらず、なかなか思うように自由は与えられず、医学いよいよ盛んにして病気ますますふえ、知恵ますます発達して戦争の悲惨は増大し、財宝ますます多く生産せられて、貧しきものいよいよ多いというようになっているのであります。

だから外にむかって自由を求めて得ることができるのは一局部的な限られた自由であって、根本的な全面的な自由は、そういういろいろの知恵才覚で得られるものではないということが解るのであります。そこで、この全面的な自由はどこから得られるかと申しますと、それを与えるのが宗教的救いであります。

では、宗教的救いというものはどこから得られるか、それは宗門を叩いたり、教会を叩いたりしても、必ずしも得られるに決まってはいないのでありまして、「自分」というものの「実相」を叩くことによって得られるのであります。「実相」と言えばなんであるかと申しますと、神がわれらを神そのままの顕現として創造(つく)り給いしままの「本当の(すがた)」なのです。その本当の(すがた)は、移りかわるわれらの肉体的存在――五官的存在――病み老い朽ち果てる物質的存在を言うのではないのです。われらの五官的存在はわれらの本当の存在ではないのです。「本当の自分」というものは金剛不壊な火にも焼けず水にも溺れぬ神に造られたままの神の子になる実相の自分なのです。

二、(ふた)つの世界

人は(ふた)つの世界に住んでいます。その一つは「創世記」第二章七節に「エホバ神、土の塵を以て人を造り」と書いてある人間――物質的存在として、肉体的存在として幾様にも物質に縛られている人間であります。もう一つは「創世記」第一章二十七節に「神その(かたち)のごとくに人を創造(つく)りたまえり……神その造りたる(すべ)てのものを視たまいけるに甚だ善かりき」とある神のイメージとしての人間、至然至妙自由自在としての人間であります。

この二つの人間、実相の人間と物質の人間とが、「創世記」第二章七節の後半で交錯しているのであります。ここに迷いの元があります。すなわち「土の塵」という物質的制約の中へ、神はその精霊なる「生命(いのち)の気を吹き入れ給うた」――それによって人間は「生ける()」から「生ける()」へと転落したのであります。実際は転落したのではない。五官の眼が迷って霊が物へと転落したように見えているだけであります。ここに人間は自由自在であると同時に、不自由極まる物質的制約の中にある、いわゆる現象人間が出来上がったのであります。

それで「土の塵」にて造られたる(換言すれば物質にて造られたる)人間ばかりを見ていて、これが「人間」であると思っている人間は、「エデンの園」(自由自在の実相境)を逐い出された不完全な罪ある人間ばかりを観て、人間は罪人だ、罪人だと言っているのであります。そういう人には五官に視える物質的な人間ばかりしか視えないのですから、無罪、無病、不苦、不能な「神の造ったままの人間」(「創世記」の第一章において神が己の像に造った人間)が視えないのです。そして人間は罪あるもの、病にかかるもの、苦しむもの、悩むものだと思っているのです。そう思っているから自分の「念の創作力」によって罪を顕わし、病を現わし、苦しみ悩んでいる――言い換えれば「創世記」第二章のように、エデンの楽園から追い出されているのであります。

神は、病にかかるような人間をなぜ創造(つく)ったか。罪を犯すような人間をなぜ創造(つく)ったか。不完全に人間を創造(つく)っておきながら、神はなぜ人間を罰するのか。神は力が足りないのか、理性を失っているのであるか。……反クリスチャンのこうした反駁に答えうる人はいわゆるキリスト教徒にはほとんどないのであります。

そういうキリスト教徒には、「創世記」の第一章にわれらの創造主(つくりぬし)なる神が、明らかに “Elohim” と(しる)されており、第二章では、”Jehovah” と(しる)されているのに気がつかないのであります。「エロヒム神」が我らの創造主(つくりぬし)であり、エホバ神はわれらの「ニセ物の創造主(つくりぬし)」なのであります。「エロヒム神」は霊なる「言葉」をもってわれら人間を神の(みすがた)のごとく完全に罪なく悩みなく創造(つく)ろ給うていっさいの物を支配する権利を与え給うたのであります。「エロヒム神」を創造主(つくりぬし)とせる人間は霊的実在であって罪もなければ病もない、悩みもなければ苦しみもないのであります。

ところが「創世記」の第二章では、われらの創造主(つくりぬし)「エロヒム神」がいつの間にか、「エホバ神」という名前に擦りかえられているのであります。諸君はここに気をつけねばなりません。諸君が自分の「本当の父」だと思っていたエホバ神は「本当の父」ではなく、戸籍謄本がいつの間にか書きかえられて、「ニセ物の父」が「本当の父」であるように公文書が偽造されているわけであります。

「創世記」第一章にあるわれらの創造主(つくりぬし)なる父はわれらを「言葉」にて神の(すがた)に完全無欠に霊的実在として創造(つく)り給うたにもかかわらず、エホバ神は「お前はエロヒムの子ではない。俺の子だ。お前は完全なものではない、霊的実在ではない、物質で創造(つく)ったものだ。罪を犯すものだ」とわれらに言っているのであります。そのエホバ神の言葉を信じて、「自分は愛の神、全能の神、完全の神の子で、神そのままの(すがた)に完全に造られていると思っているのに、それは嘘であったのか。自分は土の塵(物質)の子であり、罪を犯すように造られ、そして罪を犯したら神に罰せられるように造られているのか」と嘆き悲しんでいるのが現時多くの信仰なきクリスチャンの現状なのであります。

わたしはこのような信仰をもっているクリスチャンを本当の信仰なき人間というのであります。なぜならこのようなキリスト教徒は神を信じているように見えているけれども、「人間を神の像に完全無欠に創造(つく)り給うた本当の神」を信じないで、いつの間にか戸籍謄本を書きかえ、本親のような顔をして、「本来無罪の人間」を「罪あり」と恐喝している(まま)(おや)の神を本親だと思っているからであります。信仰というものは、なんでもかでも信じさえすれば「信仰がある」というわけではありません。本当の親神を信ずるのが本当の正しき信仰であります。

三、神罰なき神の肯定

あるキリスト教界の先輩は、「自分も前には愛の神、神罰のない神を信じていたけれども、それは自分が若かったからで、聖書をよく読むと神罰のある神が解る」と言われたのでありますけれども、わたしの経験によりますと、昔を神罰の神(〇〇〇〇〇〇)を信じていたけれども(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)今は神罰の神が(〇〇〇〇〇〇〇)存在しないことを(〇〇〇〇〇〇〇〇)信ずるよう(〇〇〇〇〇)()

()()()とても広い豊かな(〇〇〇〇〇〇〇〇)心境に出られた(〇〇〇〇〇〇〇)のであります(〇〇〇〇〇〇)。神罰があることを信ずる間は人間は、「罰」を心に描く「念」の具象化力によって、病気、艱難、あらゆる不幸を外界に映し出して、人間の実相――()()()たる自由自在(〇〇〇〇〇〇)な実相(〇〇〇)をあらわすことができないのであります。それにはわたしがよい証拠でありまして、神罰を戦々兢々として信じ、神を恐怖し、ただ、命これ従わんことを念願し、一枚の衣と一筋の繩の帯と一個の小バスケットの他何物ももたずに聖フランシスのような生活を送っていた時代のわたしは、いかに苦難と不幸と病気とばかりを味わっていたことでしょう。神は神罰を恐るるものをかえって罰するかのような状態を現わしていたのであります。しかしそれは、神がわたしを罰したのではなく、「神罰を恐るる念」がわたしを罰していたにすぎません。

世の人々よ、ニセ信仰家に欺かるることなかれ。わたしは神の(〇〇〇〇〇〇)弁護者で(〇〇〇〇)あります(〇〇〇〇)わたしは(〇〇〇〇)神の完全さ(〇〇〇〇〇)()証拠だてる(〇〇〇〇〇)ために(〇〇〇)遣わされた(〇〇〇〇〇)使者で(〇〇〇)あります(〇〇〇〇)。神は決して神罰を与えるものではありません。神は愛の神であり、全能の神であり、完全の神でありその神によって創造(つく)られたるわれわれは神そのままに完全であり、自由であり、無罪であります。わたしが諸君に神の完全さと、人間の完全さとを(あかし)する。継親の神にあざむかれて人間を土の塵(物質)にて創造(つく)られたる不自由不完全なるものだと思うことなかれ。

神は人間を神の(すがた)に完全に創造(つく)られた――わたしはただそれを信ずるのであります。あとからできた「怒りの神」や「妬みの神」や、恐喝の神や神罰の神を信じないのであります。では、神罰と見えるような状態がなぜあるか。それはわれらの神罰の実在を念う「念」がそれを外界に投影したのであります。神罰の観念をもっているから、自分で想像して造った神罰の法則に触れるとたちまち、神罰の観念が具象化して病気となり、不幸となるのであります。

神罰の観念と、人間は物質にて創造(つく)られたという観念は「創世記」の第二章以来、なかなか抜きがたき人間の潜在意識となっており、あらゆる不幸はこの神罰の観念と、人間は物質的存在だという観念との流転展開であります。神罰の観念を抜いたならば、ほとんどあらゆる病気不幸は消えてしまうのであります。

だから「汝の罪は赦されたり、立ちて歩め」のイエスの一語にて(いざり)は自由に歩けるようになっているのであります。わたしも「汝の罪は本来無い!」との一語で多くの病人を癒やしています。諸君は「誰が谷口に人の罪を赦す権威を与えたのであろうか、彼はただの人間ではないか」と言うかもしれません。イエスが「汝の罪赦されたり」の一語で病人を(なお)された時にも同じように「誰がイエスに人の罪を赦す権威を与えたのであるか。彼は大工の子なならずや」と当時のユダヤ人は言っているのであります。イエスは「神の子」であるから、罪を赦す権能を与えられているけれども、谷口は「神の子」でないから罪を赦す権能はないとお言いになりますか?

谷口が「神の子」でなければ、誰の子でありますか?神以外に創造主(つくりぬし)なきがゆえにすべての人間は皆「神の子」なのであります。「イエスだけが神の子であって、人間はイエスを通さなければ神の子になれない」と言う一派のキリスト教思想がありますが、笑うに耐えた邪見であります。「イエスを通さなければ神の子になれない」ような人間は誰の子でありますか。神以外に創造主(つくりぬし)があり、神以外に天父があり、そこから生まれた子をイエスを通して「貰い子」としてもらわなければ神の子になれないなどとはなんという矛盾に満ちた思想でしょう。

わたしはわたしの神性のゆえに、わが父「神」を証し、すべての人類がまたわが兄弟「神の子」たることを証しする。人間はすべて神の子であって、「貰い子」も「継子」もない、みんな神の子なのであります。わが(あかし)(まこと)とするものはわれに従え、神を「神罰を下す継父なり」と()いる者よ去れ。

キリストが「われは道なり、真理(まこと)なり、生命(いのち)なり、(われ)()らでは誰にても父の()(もと)に至る者なし」(「ヨハネ伝」第十四章六節)と言い給いし言葉から、キリストを通さねば人間は「神の子」にしてもらえないという普通クリスチャンの一般観念が生まれて出るのでありますが、ここにキリストが「我」と言い給いしは肉体キリストではないのであります。「道」であり「真理」であり「生命」であるキリスト、「アブラハムの生まれぬ(さき)より我はあるなり」と言われたキリスト、すなわち肉体キリストにあらず、「真理なるもの」「生命なるもの」「実相なるもの」を通さなければ、本当の父なる「神」の御許へ行くことができないと言われたのであります。なぜならわれらが「本当の父なる神」すなわち「創世記」の第一章において、われらを創造(つく)り給うたとある正しき「父」の子となるには「ニセ物の父」なるエホバ神、怒りの神、嫉みの神、復讐の神、神罰の神の手を免れて、「真理」を通して、どれが本当の父であるかを見分けねばならないからであります。だからキリストは、「我は真理である。真理を通さねば、本当の父の許へ行かれない」と言われたのであります。

それは肉体キリストではない、真理キリストであります。アブラハム以前より存在し、二千年前にはキリストの肉体に宿り、今またわが肉体に宿りて、「本当の父」(完全なる神、神罰なき神、罪も病も創造(つく)らざる神)を(あかし)するところ真理キリストであります。真理によらざれば本当の父を見分けることができない。「われに由らで誰にても父の御許に至るものなし」とはこういう意味だったのであります。

されば、われらは誰によらずとも真理によれば(〇〇〇〇〇〇)「父の御許に至る」ことができるのであります。真理によらざれば、いわゆるキリスト教を信ずるとも、邪信迷信に陥れば「父のみ許に至る」ことはできないのであります。「父のみ許に至る」というのはどういう意味であるかと申しますと、それは「創世記」の第一章にある神の実子として、神の(すがた)に完全につくられている霊的実在としての本当の自分を発見することであります。土の塵にて造られたる物質人間アダムの子としての自分ではなく、「エロヒム神」の子として、無病、無罪、不悩、不苦にして、自由自在に創造(つく)られたる自分を発見することであります。

本当に救われるということは、神罰に威嚇されていやいやながら善をするのでもなく、神罰を赦してもらうことでもなく、罪があるのに、()()(ひい)()で特赦してもらうことでもなかったのであります。真理により実相により、本来の自由自在な人間を発見することが本当に救われるという意味なのであります。

「実相に依らで父の御許に至るものなし。」実にそうです。「実相」を知らないでは、(まま)(おや)を本親だと見違えるほかはないのであります。だからわれわれは常に「実相」を呼び出すことが必要なのであります。

ところが、この実相というものはどこにあるかというと、遠いところにない。自分のうちにあるのであります。だからある禅宗の偉いお坊さんは「主人公、主人公」と毎日自分を呼んでまた自分で「ハイ、ハイ」と答えていたそうであります。生長の家では「神のこ、神の子」と呼んで自分で「ハイ、ハイ」と答えるのであります。道を歩いている時にも「今、神の子が道を歩いていると思う」のであります。また神想観といって自分が神の子である実相を観ずる修行をするのであります。そして心の底から自分が土の塵にて造られたアダムの子であるという潜在意識が消え、すべての罪の意識が消えたときに、われらは完全に救われたということになり、すべての自由な完全な状態が、実相そのままの現われとして自分自身に実現わするのであります。キリストが「汝の罪赦されたり、起ちて歩め」と言って病者を癒やされたごとく、私もまた同じように言って病者を癒やすことができるのは自分自身の罪の観念で自縄自縛された結果、病気をあらわしている者が、罪の観念を解除された結果、自然に治るのであります。生長の家が出現して以来、多くの信徒たちがただ『生命の實相』の聖典を読むだけで、その『生命の實相』の内容を語り伝えるだけで多くの病者を癒やしえた体験を発表していられるのも、神の創造(つく)り給える世界には本来罪もなく神罰もないからであります。