『生命の実相』第十四巻 倫理篇 下 第7章 | 山人のブログ

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第7章 家庭の宗教生活化

山上の白雪(はくせつ)を語る

「生長の家」の家庭生活においては、幸福の家の家庭設計においては、光明の家の家庭構図においては、何よりもまず良人は妻の、妻は良人の、人格を尊重しなければならないのであります。人格を尊重するとは彼の実相(○○)を観ることであります。神そのままの(すがた)につくられたる良人の実相(あるがまま)を観ることであります。今あらわれているところがどうであろうとも――それがたとい醜き(すがた)のものであろうとも、それは彼の実相(あるがまま)ではなくして、われらの念の放射によって賦彩(いろづけ)(ふさい)されたる仮相(うそのすがた)であるのです。富士山上の白雪は千古汚れぬ真白さをもっているのが実相の姿です。それが夕映えを受けてあるいは紫色に変わり、あるいは暗紫色に変わりするのはそれは実相ではなく、光線の反照によって賦彩(いろどり)されてただそう見えるだけの仮相(かりのすがた)であります。富士の積雪は暗紫色に見えるようとも、また灰色に見えようとも手にとってジッと見るならばやはり真白に穢れない白雪なのであります。こういうようにまた人間をもジッと見ることが必要なのであります。黒い雲が本来ないように、悪しき人間もまた本来ないのであります。すべての良人と妻とはその実相は「神の子」であり仏子であり、山上の雪が本来白いように、人間の実相は真清浄真無垢であるのです。光線の反照がときたま山上の白雪を暗紫色に見せるように、人間もまた時たま意地悪そうに見えましょうとも、それはただ、われわれの心が反照しているにすぎないのであります。良人も妻も子供たちもすべての家族たちも、その本当の(すがた)を観るようにするとき、そこに常楽の理想的家庭が出現いたします。十月十八日の朝のことであった。ラジオの聖典講義であまりにも有名になられた某僧侶さんの聖典講義に敬意を表して、ただ声だけでもよいと思ってきいてみたが、あとにも先にもそれがわたしがその某僧侶の講義をきいた唯一回でありましたが、その僧侶のいわれるには「本当の自分というものがこんなに醜く穢れた自分であるということを悟るのが宗教である」と声を激していわれたのにはわたしは思わずラジオのスイッチを切ってしまったのでありました。わたしにいわせれば、()()の自分(ヽヽヽ)というものは真清浄真無垢である。それは神と同体、阿弥陀仏と同体であるのであります。それが一時醜く穢れたる(すがた)に見えようとも、それは本当の自分の(すがた)ではないのである。それは「非存在(にせもの)の我」の仮の(すがた)である――そんな醜い(すがた)は、アルように見えているにしても、それは本当にあるのではない(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)――本当の自分(ヽヽヽヽヽ)が根本からそんなに醜く穢れたものであるならば、本物がそんなに下らないものであるならば、われわれは未来永劫救われっこないのであります。本当の自分(ヽヽヽヽヽ)本来(ヽヽ)清浄無垢なものであればこそ、そこにこそわれわれの救いが成立するのであります。わたしは断言致しますが、本当の自分(ヽヽヽヽヽ)は醜く穢れたものであると知ることが宗教ではありません。どんなに外見が醜く見えようとも本当の自分(ヽヽヽヽヽ)は『法華経』の言葉を借りていえば窮子(まずしきこ)(ぐうじ)ではない、無限長者の跡継ぎである、言いかえれば、神の子であるということを知らせるのが宗教なのである。そしてその宗教とはわれらの哲理や学説ではない、「われ神の子」の自覚がただちに生活となり、そのままが家庭となることであります。自分自身を醜いつまらない人間だと見る人は、また他の人をば醜いつまらない人だと見る人であります。人は自分のとおりのものを相手に移入して、相手のうちに自分自身の影を発見するのであります。家庭の中にあって本当の自分(ヽヽヽヽヽ)はつまらないと思う人があるならば、その人は他の家族に対しても、本当の貴様(ヽヽヽヽヽ)は実に醜くつまらないと見る人なのです。「あんなことをいっていても本当の貴様(ヽヽヽヽヽ)の腹の中は実に醜く穢いものであるぞ」こんな考えをもってすべての家族に対するならば、その人の家庭の空気は必ずや窒息するように暗くなってくるのであります。だから、妻に対してその「本当の彼女」を見るということは、彼女の腹を割ってみたら出て来るであろうところの醜い穢らしさを見ることではなく、その神の子なる完全なる実相を見ることなのであります。良人に対してその「本当の彼(ヽヽヽヽ)」を見るということは、彼の腹を割ってみたら出て来るであろうところの醜い穢れた内心(ヽヽヽヽヽヽヽ)を暴露することではない。たとい、醜い穢れた内心があるように見えてさえも、それは本当(ヽヽ)の彼ではない仮相(かりのすがた)であるとして、その仮相(かりのすがた)の奥に神の子たる十全の神の良人を見ることであります。これが真の宗教であり、宗教が家庭に生きることなのであります。たとい今の現れはどうあろうとも妻は良人の完全なる実相を見、良人は妻の完全なる実相を見、親はこの完全なる実相を見るところに完全円満幸福なる家庭が出現するのであります。

理論ばかりでは、それが実際生活にどういうふうにあらわれてくるものであるかについて、明らかな概念が得られないでありましょうから、ここには、その一、二の実例をあげて説明することに致しましょう。

良人の実相を見る

昭和九年九月のある朝、一人の三十歳ぐらいの奥様がわたしを訪れて良人が酒を飲んで夜は外泊して時たま帰って来るほかめったに帰ってこない、この良人を外泊しない善良な良人に変化する方法はないものであろうかと、わたしに相談を持ちかけられたのであります。それでわたしは、「時たまその良人が帰って来られた時には嬉しいと思いますか?」と質問したのであった。するとその奥様は「良人の顔を(〇〇〇〇〇)()()だけでも胸糞が悪いと思います(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)」と答えるのであった。毎夜のように酒を飲んで外泊するのがその良人の「本当の自分(ヽヽヽヽヽ)」であるならば、それは顔を見るだけでも胸糞が悪いという奥様の言葉を正当視(ジャスティファイ)しなければならないことになるでしょう。かくのごとき良人は尊敬に値しないし、また尊敬できないのが当然であります。しかるに、かくのごとき良人の(すがた)本当の彼ではなく(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)、ただ妻君の心が反映して、夕映えが純白の積雪を暗紫色に染めて暗紫色に見えしめているように、かく見えしめているだけであって決して実相ではない、はたしてしからば事件の解釈が別となるのでありましょう。この時は夕映えを反照する雪がたとい暗紫色に見えようとも、それを汚れた雪として軽蔑してはならないと同様に、良人が酒を飲んで外泊して来ようとも、その醜き姿を本当の良人だと思ってはならないのであります。酒を飲んで外泊して帰る姿は、良人そのものの実相(○○)ではなく、「顔見るだけでも胸糞が悪い」と言う妻の(こころ)の反映でしかないのである。軽蔑すべきは良人の実相(ヽヽヽヽヽ)でもなく、また妻の実相(ヽヽ)でもなく、ただ妻の心を浮雲のように掠めて飛んだ疑いの妄念(〇〇〇〇〇)にすぎないのです。だから、わたしはその奥様にいったのです。「良人が悪いのでもなく、あなたが悪いのでもない、ただ悪いと思う念(ヽヽヽヽヽヽ)が悪いのであるから、その悪いと思う念(ヽヽヽヽヽヽ)を捨てて、今日から本来神の子である良人の実相を見ることにして、どこにも憎むべき影のない善い良人がそこにいると思い、良人が帰って来られた時には顔を見るだけでも胸糞が悪いなどと思わず『ああ帰って来て下さって嬉しい(ヽヽヽ)』と思うようにしなさい」とわたしはその奥様に忠告したのであった。良人の実相(本物の良人)が悪いのならば軽蔑するのが当然であり、実相が悪くないならば、その顕われがどうあろうとも愛し敬し信頼するのが当然であります。この奥様はわたしの忠言に従って、今まで良人の仮相(かりのすがた)を見て軽蔑していた念を捨てられ、良人の実相を観て愛し、敬し、信頼することにせられたのであります。ところが、たちまちにして神の子(ヽヽヽ)なる良人の実相を顕現し、一週間目にその奥様が来ていわれるには、「今まで、世の中で一等悪い良人だと思われていた良人が、今では世の中にこんな善い良人が他にもう一人あろうものかと思われるほどによい良人になりました」ということであった。悪い良人は(ヽヽヽヽヽ)()()ない(ヽヽ)――本当の自分は(ヽヽヽヽヽヽ)本当の良人は(ヽヽヽヽヽヽ)本当の妻は(ヽヽヽヽヽ)、そんなにも本来善いものであることがこれでもわかるのであります。この本当の人間――実相人間(リーアルマン)の善さをすべて生ける人々に観ることを教えるのが本当の宗教の働きでなければならない。人間とは実に悪いものだなどと教えるのが宗教だと思っているのは誤解もまたはなはだしいといわなければならないのであります。

子供の実相を見て優良化した実例

ついでに、子供の実相を見ることによって子供を善良化したという実例をあげて、人間の実相はその表面の顕われがどんなに見えようとも、本来清浄円満完全なものであるということの実例といたしましょう。

阪神沿線に甲南高等学校という学校がある。中学部から高等学校修了までの課程を順次授けしめる学校でありますが、その中学部の二年生にA君という学生があった。なかなか喧嘩好きの勉強嫌いで、喧嘩になら自分一人で五年生を五、六名も相手に甲子園浜で待っているから果し合いをしようというほどの少年であります。そういう事件が学校当局の耳に入ったので、学校当局としては放置するわけにもゆかなくなりその少年を停学に処しました。ところが停学期間が過ぎても、その少年は学校へゆこうとしないのです。「俺は停学に処するような学校は気に食わぬ」といって「あんな学校は癪に障るからもう通学しない」というのです。学校へ行かぬだけならまだよいが、「金を五十円くれ、どこへでも出て行く」という。「金をくれなければ金をくれなくともよい。暴れてやる」といって障子でも襖でも叩き壊さんばかりなのです。なにしろ中学五年生五人ぐらいをこちらは一人で戦おうというほどの少年でありますから、少年といっても、お相撲さんほどに力が強いのです。金をやらなければそれが暴れる。暴れるだけならそれもよいが、しまいには「金はくれてもくれなくてもよい。とにかく、僕はどこへでも今日のうちに出て行く」というのです。そう言い出したが最後を決して後でひくような少年ではない、家出をしたら何をしでかすかわからないと思えば親御たちは心配なのです。その時、この少年のお父さんがわたしに相談に来られた。()()(いち)(じゅう)を聞いていましたわたしは、そのお父さんに「そのお子さんは大変見所があるじゃありませんか。なかなか善い性質がある。そのお子さんが家を出て行く、もう帰って来ぬなどというのは、そのお子さんの美点を認めてくれぬからです。その善いところを認めて、それを言葉に顕わして賞めるようにしてごらん、そのお子さんは家が楽しくなり、家出なんかしなくなります。学校の先生も、家庭の皆さんも、この子供は始末におえぬ不良少年だと思っているから(ヽヽヽヽヽヽヽ)その思っている念(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)がそのお子さんに反映して、本来神の子なる善良なお子さん(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)を悪く見せているのですから、今日からそのお子さんを始末に終えぬ不良少年だなどと思わぬようにしなさい。必ず、実相の善き子供があらわれるから」と忠告したのであった。このお父さんは早速お帰りになると、もう不良少年なる仮相(○○)の息子を見ないことにし、実相の息子(〇〇〇〇〇)善良なる神の子なる息子(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)を見るようにせられたのです。そして息子にいわれるには「今日『生長の家』という所へいったら、その『生長の家』の先生がお前のことを賞めていたよ、お前は本当に立派な人間なのだって」――こういうとその息子の御機嫌が早速直って家出することを中止してしまって「一度その『生長の家』の先生のところへ連れて行ってくれ」といい出したのです。今ではその少年は学校へも喜んで行っているし、父に対しても今まで予想だもしなかった親思いのやさしい手紙を書いている。こういうように人の本質の「神の子」なる実相を観るようにすれば、良人でも子供でも、すべての家族でも善くなってくるのであります。悪い自分は本来ない(ヽヽヽヽ)――本来無い自分をあるかのごとく引っかかってそれに執し、それを()め直そうとするならば、反発してますます悪くなってくるのであります。悪は本来存在せず(〇〇〇〇〇〇〇〇)ただわれわれの執する念によって(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇○)仮存在の相をあらわしている(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)()()ありますから(〇〇〇〇〇〇)、「悪あり」と心に執してそれを()め直そうとするほど無駄なことはないのであります。それは自分の妄想で「お()け」を暗中に描いておいて、それと取っ組み合いをするに等しいのです。その「お()け」は本来ない(ヽヽ)のであるから、いくらそれと取っ組み合っても、心に描いている限りは消えはしない。心の中に光を点して「お()け」は本来無いと知ったときに、もうその「お()け」は消えてしまっているのでありましょう。今までの宗教が人間は罪人だとか、罪悪深重だとか説いた結果はその開祖自身までも罪悪深重だとか、十悪五逆尽くさざる無き悪人であるとかいって、自己の善くないのを嘆かずにいられなかったのは当然であります。なぜなら、かくのごとき開祖は、人間は本来「悪人」だと心で認めており、心に認めているものは形に現われずにはいないからです。人間は本来「悪人」ではない、善の善の善の極致であるのが実相である。実相が善であり、そのほかに何物も無きがゆえにこの実相を見るようにすれば、人間はひとりでにその本来の完全な相(〇〇〇〇〇〇〇)が、自分自身にも、また対者にも、家族全体にも顕われてくるのであります。

在来の倫理道徳と生長の家の倫理道徳

悪の存在を認めて、それを外部から抑え()め直してゆこうとするのが在来の倫理道徳であります。この倫理的修養によって人間が善人になれるくらいなら、法然上人も親鸞聖人も、みずからを「罪悪深重」だなどと嘆かれることは決してなかったでありましょう。悪の存在を認める者は、法然、親鸞の大徳をもってしても、みずから描いた悪の幻の中に沈淪してゆかなければならなかったのであります。しかし、悪の存在を認めさえせねば、そして円満完全なる実相独在のみを信ずれば、徳(うす)く、識足らざるわたしごときものでも、悪がすみやかに消え、善がひとりでに発現してくるのであります。わたしのことは我田引水のきらいがあるからいわぬことにして、つい最近誌友となられたB氏のことを実例に引いてみましょう。

B氏はまだ『生長の家』誌友になって間がないのに、一週間もすると怒る心、恨む心、争う心の三悪心が自然に内から消えてしまったと告白された。この人は今まで宗教的修養を熱心に目指された方であって、三年間に六畳敷の一室に天井まで届くほど修養書を読破されたほどの人であります。けれども悪人を本来アリと認めて外から心を磨いてゆくいわゆる「修養」では、どうしてもこの三悪心は解けないのであります。たとえばこの人は小学校時代に唱歌の女教師と些細な感情の行き違いから零点を付けられた。零点ではお情け及第すらもできないのであるから、そのために少年の運命がどんなに阻まれるかもしれない。B氏自身は、小学校の落第を発表されるころには中学校の選抜試験に及第していてなんら前途の障礙を受けませんでした。けれどもなんといっても学校教師ともあろう者が、自分の感情から少年の前途を阻む惧れのあるような行為をするとは赦しがたきことである――こうB氏の恨み心は、爾来三十数年間ズーッと続いてきたのでありまして、いかなる外からの修養もこの恨み心を解消することができないのでありました。B氏は思えらく、この恨みは、相手の女教師が死ななければ消えないであろうと。ところが、三年前にこの女教師は死んでしまったけれども、いっかなこの恨み心が消えないのでありました。そしてB氏はまた思えらく、「この怨み心は自分が死ななければ消えないであろう」と。ところがB氏がわたしの講演を聞き聖典『生命の實相』を読まれるに至って、忽然として、この恨み心が内から消えてしまったのでありました。この話は、かつて『生長の家』誌にちょっと書いておきましたが、ここには三十年間修養を重ねて来られても消えなかったかくも深く烈しい恨みの心が、なにゆえかくも容易(たやす)く消えてしまったかを考えてみたいのであります。それは今までその「恨み心」が消えなかったのは「恨み心」を本来アル(ヽヽ)として取り扱ってこられたからであります。ところが「生長の家」の聖典を読むと「恨み心(〇〇〇)は本来無い(〇〇〇〇〇)、ただ本来恨まない神の心のみが実在であって、それのみが本来の自分(ヽヽヽヽヽ)であると知らされたからであります。恨み心(ヽヽヽ)本来無い(〇〇〇〇)心だと知ったために恨み心(ヽヽヽ)は消えてしまい、恨みない(〇〇〇〇)神の心のみが実在であると知ったために(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)、恨まない本当の心(〇〇〇〇)が顕われてきたのであります。それは内からの更生であり、みたま(ヽヽヽ)による生まれ更わりであったのです。外から形で()め直していったのでは、一つが直っても全体が直らない。ところが、B氏が内から更生してきて実相が顕われてきますと、恨み心、怒り心、争う心、穢がる心、恐れる心、驕る心が同時に解消してしまったのであります。もう一つの実例をあげるならば、ある日B氏が市の水道係へ手紙を書いたのです。それはもう1ヵ月も前から料金前納で申し込んであった水道工事に、今になっても工夫をよこしてくれないのであるから、普段のB氏がこんな際に書く手紙なら「すでに一ヵ月以前に料金前納にて申し込みあるにもかかわらず、なんの理由をもって未だに工事に来られず候や」などと、幾分激越した調子で手紙を書くはずでありますのに、B氏は自分の書いた手紙を読み返してみて「オヤオヤ」と自分ながら驚かれたのであります。それは、「朝夕肌えに寒さ感ずる初冬の候にも相成り申し候については、水仕事をなす女性の苦労も思いやられ候まま、先般来お願い申し置き候水道工事の件、御都合も相つき候わば……」などと実に不思議に柔らかい手紙が書けているのでありました。直そうと思って直したのではない、書こうと思って書いたのではない。本当の自分が神の子(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)であって、本来善い(〇〇〇〇)ものだと解る、ただこの悟りによって自然にいっさいの方面にその善さが具象化して顕われてきたのであります。

以上の例で明らかでありますとおり、本当の自分(〇〇〇〇〇)――本当の人間(〇〇〇〇〇)というものは神の子であってこんなに善いものじゃと悟る――これが「生長の家」の倫理学の真髄であり、この一つの中心的悟りによって諸他の万徳がおのずから顕現してくるのであります。

夫婦生活の倫理

だから夫婦生活を営むに当たっても、できるだけ良人は妻の、妻は良人の善なる実相を見ることにし、仮そめの、見せかけの、虚妄(うそ)(こもう)の、現われなる欠点を見ないことにしなければならないのであります。いかに外側の見せかけの状態(すがた)(じょうたい)が欠点あるものに見え、それが醜く、()からざるものであろうとも、すべての人の実相は、われらが心に描いて空想しうる最大限よりもより以上に美しく、快く、善良なるものなのであります。本当の自分はかくのごとく正しく、「本当の自分」はかくのごとく善良なのであります。「本当の彼」はかくのごとく立派であり、「本当の彼女」はかくのごとく美しいのであります。見せかけの「念の投影」でしかない五官に見える人間を「本当の人間」だなどとは思いあやまるな。かくのごとき思いあやまりをするがゆえにこそ、ある宗教家のように「本当の自分はこんなにも悪いものだと知ることが宗教だ」などという迷語をつぶやくに到るのであります。そういう迷語に追随する人間があまりにも多いからこそ、世の中の人間がますます悪しき(すがた)に顕われてくるのであります。およそ見せかけの外見の醜い姿を、そのまま本当の自分(ヽヽヽヽヽ)だなどと知ることは宗教ではありません。それは現象学であって宗教(○○)では断じてない、現象学は仮の見せかけの(すがた)そのままをアルとして取り扱う。これに反して宗教とは(〇〇〇〇)仮の見せかけの相の奥に(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)円満完全な実相があることを(○〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)直観的に見透し(〇〇〇〇〇〇〇)その(○○)円満完全なる実相を(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)信じ礼し敬する(〇〇〇〇〇〇〇)これこそ本当の宗教であるのであります(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)

そこで、宗教的生活とは互い互いの見せかけの仮相(ヽヽ)の奥に、円満完全なる実相(○○)あることを直観的に透見し、その円満完全なる実相を信じ、礼し、敬し、敬し、尊重し、讃嘆し、それを如実に言葉に表わし態度にあらわして生活することであるのであります。かくのごとくするときには、周囲の人々、家庭の人々、相手の人々ことごとく善良なる人々となって顕われてくるのみならず、自分自身の実相が顕われて自分自身が善良となり、その心性が大きくなり、豊かになり、美しくなり、癇癪が起こらなくなり、よりいっそう洗練された心ばえとなるのである。およそこの世の中で最も高貴なる魂とは、接する人ごとにその相手の実相の美しさを観、いかにその外見が醜かろうとも、その実相を敬し礼しうること、かの常不軽菩薩のごとくでなければならないのであります。これに反して逢う人ごとの魂の実相を観ず、外面の、見せかけの醜悪なる部分のみを強調して、自分自身に失望し自分自身を軽蔑し、同時にすべての他の人々も自分自身と同様に醜いのが本当だなどと、暗黒方面のみを探し出して、いやに皮肉にひが(ヽヽ)んでしまう人はよほど浅薄(シャロー)(せんぱく)な魂の持ち主であります。

ある芸術家のサークルでは批評眼の鋭いということが、もてはやされる一つの資格として讃えられるのであります。どんなに善く見えるものにさえも、その欠点をあますところなく剔抉(てっけつ)して、そのメスの鋭さを珍重するのであります。しかしかようなメスの深さはまだ浅いということを知らなければなりません。なぜなら、そのメスは皮膚の表層の美しさを切り開いて全内腹部の内臓の醜さを露出することができたとしましても、それはまだその内臓を巧みに動かし、栄養を吸収して生命力と化し、血液を滞りなく全身にまくばらせる等々の、神秘微妙な働きをする生命の美を啓く深さまでそのメスが達していないからであります。かくのごとき程度のメスは、それが常に暗黒層までの切り開きにとどまり、人間の暗黒面のみに心がとどまり執着するがゆえに、いかに彼がよい頭の持ち主であり、その批評が犀利であるにしても、背後の大いなる光を拒んで見ないのですから、その人の心の力はしだいに急速にその善さを失い、その自由さを失い、型にはまって欠点を見るただ凡俗の批評家群に堕してしまい、みずからの生命も枯渇し、勢力は衰え、人相は悪くなり、やがては自己の力全体が泥土に委せられてしまうことになるのであります。だから、今日いかにその批評家の眼が犀利であろうとも、その眼が実相の善さにまで到達しないで、人の弱さ、欠点や、暗黒面ばかりを観る練習を続ける限り、日ならずしてその人自身の能力は衰退し、生命は干からびて枯渇して、まだ年も若いのに自分の十分な能力が発揮できなくなって世の中から忘れられてしまうようになるのであります。他の暗黒面を見ることはその相手の人を暗黒の谷底に突き落としてしまうことになるばかりでなく、同時に自分自身を暗黒の谷間に墜落せしむることになりますから注意しなければなりません。

現実の悪はどう改善するか

しかし、「悪」が現にここにあるのを見ないでもよいものでしょうか。「悪」をそのまま放置してそれを改善するためのなんらの手段方法をもめぐらせないでもよいものでしょうかとは、わたしがしばしば質問を受けることであります。しかしわれわれは「悪」に執着しないでも「悪」を改めしめることは可能であるのであります。それが「悪」であるとわれわれが知るのは、そこに「善」がないということであって、悪が積極的にあるということではないのです(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)――これは実に大切なる真理であります。「()」は()でありますから、「悪」を除かずとも善をつけ加えれば「悪」はおのずから消尽してしまうのであります。「善」をつけ加えるにはどうすればよいかといえば、どこまでも、どこまでも相手を理想化し、さらに理想化してどこまでも無限に相手を高め上げてゆくことにすればよいのであります。どこまでも人間を理想化して眺めても、人間は理想化しすぎるということはありません。なぜなら人間の実相は神の子であり無限に善さを備えているからであります。

およそ相手を良くするには自身を良くすることが第一であります.自身が良くならないのに相手をよくなしうるということは困難であります。そしておよそ自身を良くするための方法は、自分の心の中に光明の精神波動を照り輝かすことであります。自分の心の中に光明の精神波動が波立っているときその人は善き人であり、自分の心の中に光明の精神波動が波立っていないとき、暗黒の思念が押しかぶさっているとき、その人は悪しき人なのであります。人の欠点を見るとき、その欠点に自分の心が捉われ、それをとやかく言挙げするとき自分の心の中には暗黒の思念が波打たずにはいないでしょう。「暗黒の思念」は決して相手を良化することはできないのです。良人を良くしてやろうと思って小言をいう妻君が良人をますます悪くするのは、妻君の心の中に「暗黒」の思念が波打っているからであります。妻君を良くしてやろうと思って叱りつける良人が妻君を良化しえないのも、妻君を叱るときの良人の心には「暗黒の思念」が波打っているからであります。相手を良化しようと思うならば、まず自分の心の中から「暗黒の思念」を除去(とりさ)(じょきょ)らなければならない。まず自分自身を、「光明思念」でみたさなければならない――換言すれば相手の悪を見るような心に(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)なってはならないのです(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)。結局相手の悪を見ないで実相を見る心にならなければならないのであります。ここにこそ自分自身が光明化し、さればこそまた相手が光明化してくる可能性があるのであります。

われらが何人に対してでも相手の実相を見るようにするとき、われらは相手と調和するようになってくるのであります。実相においてはわれらは本来自他一体であるからである。調和しないで反目し相争うのは実相を見ないからであります。妻は良人の実相の円満完全なる姿を見るようにするとき良人と完全に調和してしまうのです。良人は妻の完全円満になる姿を見るようにするとき妻と調和してしまうのです。親は子の実相を、子は親の実相を見、執着の念を捨て、神の完全な護りのうちにあることを信じて、相手を神にまかせ預けるとき、親子は調和したものとなってしまうのです。そして家庭は幸福の家と化し、その生活は天国浄土となってしまうのです。

諸君よ、どれだけでも自分の妻を無限によい妻だと思い、自分の良人を無限によい良人だと思い、自分の親を無限によい親だと思い、自分の子を無限によい子だと思え、善く思いすごすことに遠慮するな。どれほど諸君は自分の家族を理想化して考えてみても考えすぎるということはないのであります。この行事を毎日続けよ。諸君の親は、諸君の良人は、諸君の妻は、諸君の子供は日増しにその理想に近づいてくるでありましょう。進歩は絶えず継続する。そして歓びに満たされた家庭は出現する。家族の各員たちに互いに相手を理想化して眺める行事にもまして尊い行事はないのであります。

失策は向上の段階

むろん、実際生活においては、家族の各員は誰でも時々何かの事柄で失錯を演ずることはあるでしょう。しかしこういう失錯はいちいち拾い上げて咎め立てする必要はないのです。それはよりいっそうハッキリと完全なる実相があらわれるための段階でしかないのです。生長期の幼児は一つ躓いて倒れるごとに、いっそう十分起ち上がることを覚え、いっそう巧みに歩行することを覚えるのであります。われらは無限生長の前途から考えればまだ幼児であるのある。側にいる人が、その倒れたことを非難せず、またむやみにその顕われた弱さに同情せず、冷厳なしかし知恵深き愛をもって、「あなたは強いのです。実相は起きられるのです」との励ましの一語でその実相の強さを引き出すとき、その幼児はいよいよ強く生長してゆくのであります。無限の善さを相手に見よ。その善さ(ヽヽ)を引き出しうるものであると信ぜよ。これが本当は知恵深き愛なのであります。弱さや醜さをそのまま本当の相であるとして同情する甘き安価な(〇〇〇〇〇)表面の愛(〇〇〇〇)に陶酔するな。

かくのごとく、日常生活においての家庭の各員の誰かが躓いてもこれを咎めず、善き言葉で励ましの掛け声をかけ、善き(ヽヽ)思念で内在する善さを引き出すようにするとき、その家庭の人々はどれだけでも実相内在の善さ(ヽヽ)が引き出されて、年月が経てば経つほど、その家庭はよくなり、夫婦はよくなり、親子はよくなるのであります。

結婚生活の歳月が流れてゆくに従って、その夫婦が互いに相手に飽きてくるのは、結婚生活中に、互い互いが相手に内在する実相の善さを観ることをせず、理想の善さを引き出すことをせず、時偶(ときたま)あらわれる外見の一時的失錯を実在(ほんとにあるもの)(じつざい)として執着し、欠点に心を執するために、実相内在の善(ヽヽヽヽヽヽ)が互い互いの前では引き出されず、互いの生長が停滞し、美しさが蔽い隠され、ついに相手にはどんな美しさも(よろ)しさもないものだと失望するに到るのであります。かくのごとき家庭の破壊を永遠に防ぐには、夫婦が互いに相手の実相の善さを観る(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)ということが、是非とも必要なのであります。善き思念は善き相手を作り出し、光明の思念は光明の家庭を作り出すのであります。