『生命の実相』第四巻 生命篇下 第7章 | 山人のブログ

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第7章 死線を越えた実話

内容――昭和六年十一月二十日の座談中より 婦人の社会進出と家庭生活――家庭生活を殺すのでなく家庭生活が社会に伸びて手をつなぐ生活――ふつうの生活に神の子の生活がある――感謝の心と苦労の味――食べないで生きられる人――肺臓がなくても生きられる人――一回の話で胃病がよくなり三分間の神想観で心臓が治った話などを集めた。

談話者――河野久子氏(某私塾主)、新野かの子氏(薬剤師)、安藤しず氏(将校未亡人)、中畑忠二氏、永田恭介氏、谷口雅春氏、その他。

河野――上村先生は今日の例会を大変待ちかねていられましたのでございますが、今電話で断りがありましておさしつかえがあるとのことでございました。あの方はせんだってから、良人様との間に問題がありまして離縁話まで持ち上がったのでございます。その問題についてはぜひ先生にご指示をいただきたいとおっしゃってもいましたのですが、お忙しい先生のお時間のお邪魔をしてはならないとご遠慮なさいまして、とうとうご自分で御解決になりました。上村先生は夫人として家庭ばかりに生活を跼蹐(きょくせき)させているのは、どうしても自分の心が満足できない。人間として生きがいある生活をするためには他を愛しなければならないというわけで、後藤静香さんの希望社の幹部として奔走せられているのですが、良人様の御言い分では、婦人が家庭の世話をしないで社会的に奔走するのはまちがっている。自分は妻に世話女房となってくれることを要求するとおっしゃるのでございます。元来あの方の御結婚なさった動機が、今の良人様が先妻にお別れになって非常に苦しみになっていられた。それを上村先生がおきの毒にお思いになって、人一人を救うと思って御結婚になり御夫妻になられたのでございます。

谷口――この「救う救う」といいますけれども「救ってやる」という心では本当は人を救うことはできないのです。「救ってやる」という心の中には、自分は彼より偉いところにいる、高いところにいるという慢心がある。そして相手に対しては「お前はわたしに救ってもらわなければ生きられない憐れな奴だ」という軽蔑がある。この自己満心と相手軽蔑とがある以上は本当は相手を救うことができないのです。本当は相手を救うということは、相手を軽蔑してなにかを与えるということであってはならないのです。相手の神性を見る、相手を尊敬して相手の内に隠れている神性を拝み出し、本当に強い立派な相手を内から目覚めさせてあげるのが本当に救いなのです。先日、岩手支部の佐藤勝身さんからいただいたお手紙によりますと、せんだって十月の二十九日に東京の佐藤順子さんの所で、東京支部の春木さん、熊本支部の沢田さん、上海支部の鈴木さんを始めとして十八名、生長の家の家族がお集まりになった。その席上の上海の鈴木さんが「自分は快きふつうの人間でありたいと思う」ということをいわれた。鈴木さんのその一言に岩手の佐藤勝身さんは自分の目を蔽うていたうろこが一枚落ちた、非常に感心したというお手紙をよこされた。この快いきふつうの人間でありたい」という言葉に何故佐藤さんが感心されたかというと、ふつうの人間以外の生活をしていなければ、人間に価値がないように思うのは、人間の神性の自覚が足りないからなのです。自分というものは、どうしなくとも、人と変わった異常なことや、目立つことをしなくとも、そのままで神の子であるから尊い――この「そのままで尊い」という自覚がないからそのままでは落ち着けないのです。そのままでは落ち着けないのではまだ「自分がそのままで神の子である、どういう外面的な小細工をしないでもそのままで尊い」という自覚が足りないのです。おちつけないからなんとかせねば、と思ってあせる。目の前にある自分の家族を愛することをしないで、なんとか人並み以上の愛をあらわさなければ価値がないように思う。そして近くにいる人々をみな軽蔑して、遠くにある人々になにか義捐金を送ったり、震災見舞いを送ったりすることに大きな自己満足を味わう。そしてそれが出来なかったら自分の価値が減ったように思う。しかし、人間はなにができなくとも自分の価値は不減不耗の神性である事実が第一なのです。それがわかればなにもしなくてもよい、人を救わなくてもよいというのではないのです。それがわからなければ第一自分が救われていないのです。「生長の家」の「智慧の言葉」に「自分に親切であれ」という言葉がある。自分が救われなければ、他を救うことがわからないのです。救われたという状態はどんな状態だということがわからなければ、本当に人を救われた状態に導くことができないのです。盲目の手引きでは救いに導いているつもりで、かえって河の中へ引きずり落とすかもしれないのです。人を救うことを、金を義捐したり、救恤(きゅうじゅつ)品を集めて送ることやら、結核療養所という建物設備をつくることのように思っていられる人もありますが、それも一つの救い方で時には尊いのでありますが、本物の救いではないのです。物品や金をもらって人の愛に感じて救われる人もありますが、物品や金をもらったために怠け心や依頼心を増長させてかえって堕落する人もある。結核療養所という膨大な建築物をたて、それに不快な恐怖すべき名称をつけたために、病気の心的観念を周囲に散布して、一方には結核を治そうと努力しながら一方ではその治す力の何十倍も病人をふやしているとしたら、救っているつもりで一体なにをしているのかわからないのです。物によって人を救おうとする企ては必ず一利一害があって、利益の方を見る人はその利益を誇張して大変世の中を救っているように考えますけれども、物によって救うその救いは永久性の救いになっていない、物は永遠性のものでないから、物だけで救われた救いならば、その救いは必ず破れる時が来るのです。物がなくとも救われる救い、何物がなくとも自分が神である――そのままで救われているという自覚上の救いにあずからなければ、本当に救われたといえないのです。

それでは、人間にはそういう自覚上の救いだけを与えたらよいので、食べる物がなくて困ってる人を放っておいてもよいかというような、質問が出るかもしれませんが、何物がなくとも自分が神である、そのままで救われているということが解ると、「何物」にも執着しない自由自在な境地になれますから、他へ対して物の施しでもかえって吝しみなくできるようになる、自由に水が高きより低きに流れるごとく、自然に与えるべきところへ与えることができるようになるのです。生命は愛であり生かす力ですから、自然に愛の働き、全体を生かす働きができてくるのです。物に縛られないで物を生み出して救うことができるようになるのです。物を与えるのでも、ある教化団体がやっているような結核療養所のようなものを建てて、かえって病的精神を散布して人に恐怖心をそそるというようなことをしないで、本当に救う機関を作るようになれるのです。物がなければ、物がなければなどと思っている心を捨てるとかえって物が豊富にできる。物が物がと思っているものだから国際的にも個人的にも鎖国主義になり、有無相通ずる働きができないで、現在のように、物がありあまりながら人間は貧乏しているのです。この「物々」という心を捨てて、「生命生命」と思うようになり、神らしく生きること、神らしく働くこと、自己に宿っている生命、他に宿っている生命を生かすように生かすようにという心になれば、かえって物が生きてくるのです。物を忘れたとき物が生きてくる。机でも「机々」と思って机を見つめている間は机の働きはできないで、机を忘れてその上で本を読んだり字を書いたりしているとかえって机の働きができているのと同じことです。いわゆる利害の経済を忘れたとき本当に経済が立つようになってくる。生かす働きを忘れた、愛の働きを忘れた無鉄砲な不経済や経済無視は無論いけませんが、生命の自然の流露――愛の働き――を妨げないで、経済とか利益とかいうことを超越しているとかえって物そのものが豊富に生きてくるのです。肉体でも、肉体そのものを忘れた時にかえって健康にもなり精力も増進してくるもので、物がなくとも救われる救いというものがハッキリわかってきたら、執着なしにとらわれない生産分配ができて来ますから、かえって物の救済も完成するのです。

人にはいろいろの立場もあり、細かい事情、その事情の色合いというようなものもうかがってみませんと、上村さん個人の立場を批評することはできないのでありますが、概括していえば多勢を救わなければ生き甲斐が感じられないとか、社会的に活動しなければ満足できないとかいうのも捉われた考えだと思われるのです。むろん多勢を救い、社会的に救済の手をのべるのは尊いことでありますが、多勢を救うのも一人を救うのも尊い仕事であ。それも「自分が相手を救う」というように、何事にも「自分が自分が」というようにその「自分」というものに引っかかると、先刻申しましたように相手を軽蔑し引き落とすことになるので、そんなに恩に着せるなら救ってもらわなくてもよいということになるのです。自分がと思うその自分が相手を救うのではない、神の大きな救いの手が自分というものにはいってきてその役割をつとめさせていただくのである、ありがたいことであるというようにならなければ、相手を救うどころか自分も救われていないで、相手の状態がよくないとか、こちらがこんなにまでしているのに相手がそう思ってくれないとか思って腹が立って、自分の心が乱れて、自分自身がかえって救われなくなるのです。だから「自分が相手を救う」というその「自分」が、大きな救いの手の中へ溶け込んで無くならなければ、人を救いながらも自分が救われなくて煩悶しなければならなくなるのです。だから無我の愛でなければ本当の救いは来ない。執着の愛では本当の救いではない、一人に執着するのだけが「執着の愛」ではなく、多勢に執着し社会に執着するのも「執着の愛」でありますから、無我になって、大きな神の救いの中に溶け込んで少しの無理もなしに動き出す、そこで自分も救われることになり、同時に自分が多勢を救いうることになるのです。自分が多勢をすくうという「力み」があるから、いろいろ煩悶が起こるのですが、神が救うのだということがわかると、神の力が自分を押し流して社会へ出してくれるときには社会へ出て社会を救う。なにかの御旨で社会へ自分が出られないときには神は自分の手だけを使っていられるのではない。神のみ手はいくらでも多人数あるのですから、そのみ手が必ず社会を救っていてくださるという安心があれば、自分は事情によって社会へ進出をしないでも、家庭のうちで家庭を光明化することも喜びとなり感謝となってくるはずです。多数の救済もけっこうでありますが、一人を救うことも大きな仕事である。仏典にも聖書にも一人の放蕩息子が救われることはすでに救われている多勢の孝行息子よりも神の喜びであると書いてあります。一つの家庭が光明化され、そこに真に光明化された家庭の見本ができあがることは夫婦喧嘩をしながら社会へ社会へと進出するよりもいっそう大なる仕事である場合があるものです。とにかく社会へ進出することはけっこうですが、そのためには脚下をしっかり踏みしめて家庭を生かしつつ社会をも生かしてゆくようにしなければならないと思います。先日、東京の「友の会」のリーダーの一人がここへ見えられ、いろいろ話をうけたまわったことでありますが、「友の会」の羽仁もと子さんは、在来の日本女性が家庭の中にばかり生活を跼蹐させて、惰眠を貪っているという旧慣に対して革命の叫びを上げられた。いろいろの日本の家庭婦人にはむだな時間の浪費がある。講談を読んだり小説を読むほかは何一つしないでポカンと暮す有閑夫人もある。そういう無駄な時間の浪費を有用に合理化して、自己修養と社会奉仕に転換してゆきたいという運動のようでありますが、その主張には「生長の家」もしごく賛成であります。しかし一方、世の中にはギリギリまで家庭内の仕事に追いつめられて、無駄な時間が全然ない生活もあります。どんなに家庭生活を合理化しても社会へ進出する余裕のない生活者もあります。そこに奥むめおさんなどが評して、そんな仕事は有閑階級の仕事で一般大衆の救済とならないといわれるのだそうですが、ともかくそういう全然無閑階級の家庭生活に追われる婦人が、社会事業だ社会事業だといって社会へ進出するために家庭生活があまりにお留守になるというような場合に、その良人たる人が、「婦人よ、まず家庭に帰れ」と叫ぶのも無理はないと思います。わたしの知っているあるクリスチャンの婦人は毎日教会や、婦人会や、慈善会などを追いまわしていて子供の世話など少しもされない。子供が学校から帰って来ても、家には錠が掛かっていてはいることができないので、何時間でも門にたたずんでいるというようなことがあるのです。これなどは極端な例ですが、社会事業でないと生き甲斐が感じられないとか、家庭の縁の下の力持ちではつまらない、なにか目立つ花々しい生活でなければ生甲斐が感じられないというのでは、外面の花々しさを追っている生活であって、本当の自覚――人間はそのままで神の子であるから尊いという自覚――を得て、自然に動き出している生活だとはいえないと思います。夜中におりてひそかに万ずの植物をうるおし、目立つべき昼の時が来たら自然に消えてしまうような、夜露のような生活さえも、花々しい社会事業に劣らない尊い生活だということを悟ることもまた必要です。要は、人間は内にいても外にいても深く(ヽヽ)切に(ヽヽ)生き抜くことが必要です。よい加減にゴマカス生活が一番いけないのです。内で惰けている生活もまた悪いし、外の仕事の方が(〇〇〇〇〇〇〇)派手で面白くて(〇〇〇〇〇〇〇)安価に(〇〇〇)愛他的精神を満足(〇〇〇〇〇〇〇〇)させる(〇〇〇)()()とて、内の仕事をなおざりにして浮き足だって外へ出る(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)というような生活もまた本物ではないでしょう。

人間は外へ進出して生活しても内に沈潜して生活しても、ともかくも浮き足立たずに、一歩一歩足元を踏みしめて深く切に(ヽヽヽヽ)生きてゆくのでなければならないのです。それが「生長の家」の行き方であって、「生長の家」の生活は、形に捉われない、万人一様な型をきめるということがない自由自在な生活なのです。一つの型をきめておいて、その型に自身の生活をはめ込まなければ苦痛を感ずるというような不自由な生活ではないのです。婦人は家庭のみを守らなければならないという旧い型もまちがいでありますし、家庭以外にぜひとも社会へ進出しなければ生き甲斐がないというのもまちがいでありましょう。生命は生かさねばならない(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)今までの家庭婦人という(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)旧い型は破らねば(〇〇〇〇〇〇〇〇)ならないし(〇〇〇〇〇)()()()()社会婦人という新しい(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)型の中へさえもはまって(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)いってはならないのです(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。型へはまった時、生命は必ず窒息しかけるから苦しむのです。生命は自由創造のものであるから、その人の持ち場において深く切に(〇〇〇〇)生きてゆけばよいのです。その自由創造の生活のあらわれが、ある時は行き届いた家庭婦人になってもそれはもう型にはまった家庭婦人ではない、ある時は社会的に進出してもそれはいわゆる社会婦人ではない。家庭婦人でも社会婦人でもどちらでもない、ただふつうの人間が深く切に(ヽヽヽヽ)生き、家庭を切実に生き、社会を切実に生きているのです。そしてこのふつうの人間が、そのままで尊い生活を実現するのが「生長の家」の生活なのです。この「生長の家」の生活になるとき、もう決して社会的進出は家庭生活とは矛盾しないものとなるのです。

今までの家庭生活というものは、自己の一つの家庭というものにあまりに引っかかりすぎていました。そのために社会へ進出するのには家庭から離れねばならなかった。家庭を守るには社会から離れねばなりませんでした。しかし新時代の家庭は社会的生活の中へ一つの細胞として溶け込んで、一つの家庭が善くなることは同時に社会全体が善くなることであり、社会的事業を進めることが家庭を犠牲にせず、かえって家庭の重荷を軽くするように進められねばならないと思います。せんだって「友の会」の東京落合組のリーダーをしていられた松本恒子さんとおっしゃる方が来られて話してくださいましたが、その方は「友の会」の事業として託児所兼幼稚園のようなものを計画していられる。そして幼児から小学校へ行くまでの子供をあずかって「友の会」の精神に「生長の家」の精神をとりいれて子供たちを保育してゆきたい、すでに仕事を始めるなら敷地も建物も無料で譲ってくださろうという人もあるということを話されました。なんでもその方の計画によりますと、今までの家庭では一人の子供や二人の子供に一人の母親が付き切りで終日の時間を奪われる、家事を十分するにも、自分が修養するにも、良人の内助をするにも、少数の子供があるために時間がない、よい加減に粗相にしておかなければならない。ところが、そういう子供をこの幼稚園へ集めて、数人の母親が順番を決めて保母の役目をして、一つの尊き精神を中心として、子供を幼い芽生えの期間から教育し保護し指導してゆくことにすると、当番以外の奥さんたちは、毎日少数の幼児の世話に奪われていた大部分の時間が助かる。その時間に十分丁寧に家事をはたすことができるし、自分の修養勉強もでき、育児法などの研究もでき、良人の内助もできるということになる。今まで盲目的に子供に没頭していて、子供の教育でも時間こそたくさんかけているが、でたらめなものであったのが、時間を労すること少なくして子供がいっそう合理的に育てられるようになる。子供は幼いときから団体的に育てられるために自然に団体的訓練ができて、協同の精神、全体の一員たる精神が養われ、個人的な利己的な精神が少なくなり、全体を生かす精神が養成されることになる。こういう計画を話してくださいましたが、こういう社会事業はご婦人が家庭を放擲して社会社会と外部へ進出する運動ではなくて、今まで孤立していた家庭が拡がって社会的に連絡がとれ、婦人が社会的に進出したため、家庭の生活の中からその楽しさを奪ってしまうというようにはならず、かえって家庭生活の時間と負担とを少なくして、本当に家庭として楽しみ生きる時間を増してくれることになる。こうなると、良人がたの方でも婦人の社会進出をむやみに排斥なさらないと思いますね。家庭婦人団体の公共的事業としては、社会の職業へ進出して社会の人の職業を奪うというものよりも、社会的につながることによって、家庭の仕事が量の上に軽減され質の上に向上し、さらに家庭の仕事が量の上に軽減された結果、社会の方へも手助けをすることが自然にできるというようになるのが理想的です。婦人が時間を最も無駄につぶすのは、子供をつれて医者がよいをすることですから、「生長の家」の真理を知って家族中医者にかかる必要をなくすることが、家庭婦人の時間を合理化する最も重要な要素だと思います。

河野――誠にけっこうなお話をうかがわせていただきました。

新野――これは別の話でございますが、わたしたちの知人が自分の後嗣ぎにするといって、女学校出の秀才をおもらいになり女子医専へ入れておられましたが、その方が非常によい方でありまして、純な気持ちから実の父母に対するように、のん気に自由に窮屈でなしに当り前にふるまっておられましたために、その義父母の方では、彼女は恩を恩とも思っていない、感謝の心がないから、せっかく世話をしてやっても将来どういうことになるかたよりないことである、としじゅう口癖にいっておられましたが、わたしはそういうことをしじゅういってらっしゃると、言葉の力でそれが実現するから、そんなことをなるべく言わないようになさいとその義父母の方に常々いうのでありましたが、なかなかお聞き入れになりません。とうとうだんだん親子のなかが不仲になり、その方はご離縁ということになりました。その娘さんは純で、媚びるということなく実の親に対するように自由にふるまっておられたために、それが理由でそういう御離縁になるというのは誰がまちがいなのでございましょうか。

谷口――それはあなたのおっしゃるように言葉の力が実現したのでありますが、そういう言葉が出るようになったのは、(ひと)の世話をしても、自分が(〇〇〇)世話をしたのであるというように、とかく自分が自分がという気持ちがあり、その自分に(〇〇〇)「恩を着よ」というように恩着せがましく常に思っているから、娘さんの方でもなんとなしに圧迫を感ずるので、最初はなんの気なく自由にふるまっていたのでも、しだいしだいに離れた気持ちになり、ついに互いに不仲になったのではありますまいか。だから恩を施しながらでも報いを求める気持ちになるとともするとかえって恩を仇で返される。報いを求めないでいるとかえって人はその恩をいつまでも忘れない。またもしその人が恩を忘れていても、それはその(〇〇〇〇〇)一人の人に(〇〇〇〇〇)恩を施したのではなく(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)全体の一員に対して(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)尽くしたのでありますから(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)必要があれば(〇〇〇〇〇〇)全体中の他のひとから(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)廻り廻って恩返し(〇〇〇〇〇〇〇〇)があるものです(〇〇〇〇〇〇〇)。福田、すなわち天の倉に貯えておけば、供給は必要に応じて天の倉から来るものなのです。自分が彼に尽くしたというよりも、全体の一員が(〇〇〇〇〇〇)全体に対して尽くした(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)という気持ちを失わないことが肝心であって、自分と彼とをあまりハッキリさせすぎ、全体という観念を失ってしまうと人間はいつでも不幸になりがちです。

新野――その義父母がたは、その娘さんをもらって学問させるのは老後に力になってほしいからだのに、こんな薄情な義理知らずの娘では教育をつけてもらったあとで逃げてしまうかもしれないなどとおっしゃるのでございますの。

谷口――そういうふうに娘に学資を入れるのを貯蓄銀行へでも預金しておくようなつもりでしながら、恩を知れ、義務を知れといわれるのでは、たまったものじゃないじゃありませんか。貯蓄銀行へ預けておいたら一定の利子がつかないのだけれども、人間に投資しておけば義理とか恩とか無形無限の利子がついてくるから、いっそう利益だというような功利的な考えで養女を育てるというようになると、養女の方でも、その功利的な考えが感応してかえって恩に着なくなるものです。これが心の法則です。むろん恩を受けて恩に着ないのは善くないのでありますが、恩に感ずるのは、恩を受けた人が自発的に恩を感じるのであってこそ尊いのです。最初から功利的な目的で恩を着せて、恩に着よというのでは恩を与えることがかえって精神的に相手を縛ることになるのです。

新野――先日もその義父母が風邪のために臥床されていました。それだのにその娘さんが真実の子のようにしんみりと看病しようとしないといって、義父母は大変不足をいっていらっしゃいました。

谷口――その娘さんの方も、あまり世間の苦労というものを知られないために、恩を恩だと感じられないのでありましょう。ともかく、その方がその娘さんを後嗣ということにして、今まで人生で苦労して得たすべての財産を譲ろうとせられる。その譲られる財産を得るために、本来その義父母たちがどれだけ人生の戦場で労苦されたか、その労苦の結果得られた尊いものを譲ろうとされるのであるから、ありがたいことである、と感ずれば、感謝の念が自然に湧いて来るべきはずでありますのに、そういう感謝の念が湧いてこないのは、財物を得るのにはどれだけ人生の戦場で苦しまなければならないか、その苦労の体験がないからです。つまり苦労が足りない、苦労が足りないから、もっと苦労するように神さまが、元の貧しい家庭にお戻しになり人生において、財物を得るにはどれだけの苦労が要るか、その苦労しなければ得られない財物を譲るには、どれだけの思い切りと愛とが要るかということを体験させられるのでありましょう。つまり今度のような結果になるのは、その義父母になる方の心の反映と、娘さん自身の心の反映との最も自然の結果でありますなあ。

新野――そうおっしゃいますと、その娘さんは本当に苦労が足りないのでございます。それに心がお強いのでありますか、そういうような結果になっても平然としていられるようなところがあるのです。わたしならば養女にいって半年もたたないうちに「誠がない」などということを理由にして戻されたりすると、世間に顔向けのできない恥ずかしい気持がすると思うのでございますけれども。

谷口――その娘さんは本能的に郷里の実家へ帰りたい希望があるのじゃありませんか。戻されて帰ったところが別に生家の方でいじめられるということはないのでしょう。

新野――その生みの母親というのが、公然「母より」と書いて常に長々しい手紙をその娘さんによこすんだそうです。これなども義父母の気にいらないところなんです。

谷口――いったん幼女にやったならばその母親として、そういうことは常識から見て遠慮すべきものです。そういう常識から見て当然できがたきことが平気でできるのは、その母親がその娘さんを取り戻したい欲望があるのです。表面の心ではよそへやって勉強させたいと思っている。しかし奥底の心ではよその娘にはしてしまいたくない。潜在意識ではむしろその約束が破談になって娘さんを自分のところへ取り戻したいのです。潜在意識はおうおう(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)その人の表面の心の(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)希望を裏切って(〇〇〇〇〇〇〇)自分の欲する(〇〇〇〇〇〇)ところをその人に(〇〇〇〇〇〇〇〇)強制することが(〇〇〇〇〇〇〇)あるものです(〇〇〇〇〇〇)。常識ではできがたいような不合理なことを、その不合理さに気づかないで平然とやれるような場合、その人の潜在意識をしらべてみると、潜在意識の奥底に、表面の心に反逆するものがあるのです。

安藤――わたしはこちら(ヽヽヽ)へ修行に来させていただく途中、汽車を途中下車いたしましてそこの養子と嫁とに会ってきたのでございますが、おかげ様で嫁の心が大変折れて優しくなってきていました。郷里から女中をつけて勤務地へ出してあったのでございますが、その女中が心のきつい女で、なんの気なしにいう言葉でもとても鋭い語調を(つか)うので、使う方の嫁自身が圧倒されて大変苦労したそうでございます。そういう女中に出くわしてみて、嫁ははじめて自分自身というものをその女中に映し出して見て、自分自身の真相がわかったと申します。今まで、自分が正しい正しいとばかり思っていたけれども、自分が正しいと思うばかりに相手が悪い悪いと思われてひとこと物を言っても相手を刺すような語調になる、そして自分ではどうしてもそれが悪いと思えなかったのでございます。自分が少しも悪くないのに、(ひと)が自分に悪く当たるとばかり思っていたんでございますが、その女中がちょうどそれと同じような性格であって、自分の欠点を実現して見せてくれたために、はじめて自分が悪かったんだとわかりました。こういって大変心が折れてきたのでございます。

谷口――それは大変結構なことですなあ。人間は心が広くなりいっさいを包容するようになれないで、ただ正しいばかりでは自分も苦しく(ひと)をも苦しめることになるのです。なんでも(〇〇〇〇)物事に対して(〇〇〇〇〇〇)一つ(〇〇)()観方よりないと思う(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)自分の観察の仕方より(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)他に正しい観方は(〇〇〇〇〇〇〇〇)ないと思う(〇〇〇〇〇)そういう狭い心を(〇〇〇〇〇〇〇〇)捨てた(〇〇〇)とき(〇〇)はじめて人間は自由な広々とした(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)立場に出られるのです(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。自分という眼鏡ばかりを通さないで(ひと)の眼鏡も通して見る、(ひと)の世界も理解でき、自分の世界も理解でき、皆それで善い、許されていると解る。キリストが貢取りや酒飲みと一緒に飲み食いされたのもそういう広い御心からであったに違いありません。

われわれが自分自身の観方よりほかにどんな正しい観方もないと感ずるとき、世界のすべてが自分に敵対しているようで、この世界が狭くなり、生きている場所がないような気がし、ついには死にたくなるようなことになるのは自然です。よく世間で自殺するような人たちはこういう人たちに多いのです。いろいろの観方があると気がつくとき、何事もまた許されるべきことであり、調和したことであり感謝せずにいられないことになるのです。自分では自覚しないでいて人を刺すような語調をする人は、常にこの包容性の足りない人でありまして、包容性が足りないために、自然自分が刺すような語調になり、刺すような語調で言葉をかけられて、相手は自然語調強く答えるために、相手は自分を憎んでいるのであるなどと思って、夫婦仲が悪くなることがあるものです。

安藤――わたしのところの嫁も一度結婚前に自殺しかけたことがあるのです。眠られないと申しまして、医者から睡眠剤をもらいまして、それを貯めて置いて一度に飲んだのでございます。そしていく日も覚めないで大騒ぎをさせたことがございました。

谷口――自殺するというような人は、心が狭くて主我的で自分の一つの考えに執着しすぎて、世界を自分の考え方に強制するか、でなければ世界から自分が逃げて行こうとするのです。自分の考えばかりを通そうとして、他の考えを生かそうとしないものはかえって自分自身が生きなくなるのです。「自分」という殻から一生出ないひよこは死んでしまうほかはないのです。「自分」という殻を破って出たときに人間もはじめて生長できるのです。人間は一度は自分の小さい世界を捨てる修行をしなければならぬのです。その方は今その修行を神さまから課せられているのでしょう。

安藤――ここへ来ます途中、(せがれ)に会ってきたのですが、時間もありませんでしたし、皆の前でそういう話もできないものですから、汽車の中へ送って来た時、ちょっとその事は話しただけでしたが、倅が申しますのに、自分の欠点はわかっている、それは自分の心が弱いことです。時々は死にたく思うが、それもできない。なんとかしなければならないが、もうしばらく待ってくれといっていたのでございます。今の女と別れなさいと強いましては、倅の心はまだ耐えられないところがあるらしいのでございます。「お母さん、わたしのことで生長の家へ行かれるのでしたら、今しばらく待ってくれ」と申しました。「いや、お前のことばかりではない今度はわたしの悟りのために行くのだから」といって別れたのでございましたが、皆可哀想な人たちばかりでございます。

谷口――お嫁さんの心がだんだん変わってこられた、それがいよいよ変わって正しい正しいとばばかり思いつめていた自分の正体がわかって、悪い悪いと思っていた周囲は、自分の「周囲を刺す心」の反映であった。良人の行ないも自分の心の影であった。悪い悪いと思っていたのは周囲ではなく、自分であったのだとわかって、人を責めるというような心が全然なくなったのに、自殺するなどという卑怯なことができるものではない、自分が作った罪はどれだけでも自分が生きていて、忍びつぐなおうという気になったとき、その良人さんは必ずお嫁さんの所へお帰りになりましょう。自殺して苦しみをのがれようとか、自殺して目にもの見せてやろうとかいう心はまだ本当に懺悔のない心です。人を責める心、人を刺す心は人を逐い出す心です。そういう心のある人の側にいるのは常に責められているようで苦しいものですから、良人でも誰でも離れていきますけれども心が人を刺さないでなんとなく引きつける心になるとその心が磁石となって、人は必ず引き寄せられて来るものです。またたといその良人が自分の許へ帰って来ませんでしても、もう人を責める心がなくなって、良人がそういうように自分を離れたのは自分が悪いのだ、当然のことだと思えるようになったならば、かえって心の肩の荷がおりてもうそのお嫁さんの心は苦しくなくなるのです。安藤さん、あなたの病気も心の苦しみ、心の滞りから起こったのですが、それを皆さまのご参考に話してあげてください。

安藤――わたしのこの病気の始まりはなにから話したらよいでしょうか。良人が軍人でございましたが、精神病になりまして九年間患いましてとうとうなくなりました。発作のたびごとに実に心痛いたしまして、胸の中に塊ができる思いがいたしました。時には自分も一緒に気狂いになってしまった方がよいと思うことがあったくらいでございました。そのころ、わたしは東京にいまして池袋の至誠殿へ出入りしていました。至誠殿の教祖というのは女の方で、信者から「お母さん」と呼ばれていたいらした方でしたが、平常はポカンとした常識のない、何を話されても返事のできない人でしたが、神様の話になると滔々(とうとう)として別人のように雄弁にお話なさいました。毎日、至誠殿へ通っていましたが、しまいにあきて、良人のなくなるころには滅多に行かないようになっていました。良人は精神病のために生きている間は実にものすごい表情をしていましたから、どうぞせめて死に顔だけは静かな顔になって欲しいと一心に祈っていましたら、死に顔は生前のものすごい顔に引きかえて、実に平和な静かな救われた顔になっていましたので、病気というものは生きてる間にだけあるもので、死んでしまったら病気はないものだとありがたく思いました。

谷口――そのころはまだ食事をとるのに肉体的に障りはありませんでしたか。

安藤――わたしはそのころは、別に肉体的には故障はありませんでしたが、それから後、しだいに、食事をするたびに食道の奥の方でゴクリと(つか)えるところができまして、食物がそこを通るときに外から人が聞いていてもゴクリと音がするほどになりました。一週間に一度くらいは全然食物が通らないこともありました。そのころ、わたしは水戸市の息子の所におりましたが、医者に診てもらいましても病名がハッキリわからず、胃のアトニーだなどと申しておりましたが、しだいに病気が重くなり、食べものを吐くようになったのでございます。岩手に帰りまして仁科博士の盛岡病院で診察を受けましたが、病名は少しもいわれず、治るか治らぬか入院してみなければわからぬとのことでございましたが、入院して読書などをしていますと、気分が転換したせいか、一時は軽快いたしましたが、またしだいに悪くなりました。ちょうどわたしの入院している病室は佐藤勝身さんの務めていらっしゃる盛岡貯蓄銀行の建物と向い合わせになっていましたが、佐藤さんとは数年間疎遠になっていまして、そこに佐藤さんがいらっしゃるとは少しも気がつかなかったものでございます。ところがその病院勤務のお医者さまの一人が盲腸炎になられまして、わたしの隣の病室へ入院なさいましたが、それが佐藤さんのお知り合いで、ある日佐藤さんがそのお医者さんを見舞いに来られて、ふとごらんになると、「安藤しず」とわたしの名前が病室に書いてあるものですから、つと扉を開いてわたしの病室へはいって来られたのです。佐藤勝身さんの妹さんは当時はなくなられていましたが、わたしとことに仲のよい同窓で、したがって佐藤さんとはごく懇親の間柄だったのでございます。その時わたしは街へ散歩に出ていましたが、帰ってみると佐藤さんが待っていらして、「まあ、あなたはこんな所に入院していられたのですか」というわけで、それ以来たびたびわたしの病室へ見舞いに来てくださいました。わたしが再び佐藤勝身さんと親密にしていただくことになり、「生長の家」へ導かれるようになりましたのは、佐藤さんのその亡くなられた妹さんの霊界からの活動があるように思われるのでございます。ある日佐藤さんがいらして、「この病室をかわってください。わたしの妹が夢のうちに毎夜のように現われて、安藤の今いる病室はよくないからかわれという」とおっしゃるのです。それでわたしは霊媒の小林寿子さんのところへ付き添い人にいってもらいまして、佐藤さんの妹さんの霊魂を呼び出して聞いていただいたのでございます。「この仏さんは妙な仏さんだなあ。なかなか出て来ない」などといって随分長時間出て来られなかったそうですが、とうとう出ていらして「佐藤さんに夢を見せたのはわたしです。あの病室には性質の悪い霊魂がいるから室を変えなさい」といったそうでございます。それで病室をかわり養生しましたが、病気は入院当時は一時よかっただけでその後だんだん悪くなってゆきました。佐藤さんご自身が「手のひら療治」をなさってくださり、わたしにもそれを教えていただきまして、一度などは江口鎮白先生が「手のひら療治」の講習に盛岡に来られたのを幸い、わざわざわたし一人のために江口先生を病院まで連れて来てくださいまして、手のひらの治療力を啓いていただいたのであります。身体が弱っているので合掌して啓いていただくのがなかなか疲れて苦しゅうございました。それからも病気は一向はかばかしく良くなりませず、御飯をいただいて一口食べては水を飲んで流し込むのでしたが、そのたびごとに皆吐き出してしまいまして、バケツに三倍ぐらい吐き出しまして、やっと胃袋にはいります分量は一日一膳ぐらいのものでございました。十一月には、病院に入院していてもよくなる方法もないから、退院して家へ帰ってすきなような生活をしたらよかろうといわれるので退院して、大更村の自宅へかえり、バケツに食べ物を吐き出し吐き出しして、生きているということになんの喜びも希望ももてず、時々幽霊のように街をフラフラ歩いて帰っては横になっていましたが、その時、佐藤勝身さんがまた見舞いに来てくださいました時、浅野和三郎先生の雑誌『心霊と人生』を偶然置き忘れて帰ろうとなさいましたが、わたしが気がついて申し上げると「これは汽車の中で皆読んでしまったから読んでみなさい」といわれました。この浅野先生の雑誌がなかったら、「生長の家」をわたしは永久に知らされなかったでありましょう。「生長の家」を知らなかったら、わたしは今ごろ生きていないでしょうから、この浅野先生が「生長の家」を紹介してくださったことを今でも感謝しているのであります。

谷口――佐藤さんからのお手紙では、もうあなたは医者から死の宣告を受けているのだから、せめて死後の霊界生活のことについて知らせてあげたいというので、それとなく『心霊と人生』を持ってお出でになったのだそうです。

安藤――アラさようでございましたか。あとからわたしも「この寒中はもつまい」と医者から宣告されていたということをきかされましたが、その当時はそんなことはまったく知らなかったのでございます。で、佐藤さんが貸してくださった『心霊と人生』を、始めから終いまで読ましていただいて最後のページに来ますと『生長の家』の広告が出ていたのでございます。第二集の三号四号ですか「慢性病撲滅号」と題して広告がありましたが、急にわたしの心はその広告に引きつけられてしまったのでございます。「これでなければ救われない」という気がしきりに動いて来ましたので、それを早速注文致しまして送っていただき、その二冊をいくど繰り返し読んだことでしょうか。毎日毎日読んでいました。それを読んでいるうちに(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)人間は肉体ではないから(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)食べ物を食べなくても(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)生きられるという(〇〇〇〇〇〇〇〇)感じが天徠の声のように(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)わたしの心で這入ってきたのです(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)。そのころわたしは会う人ごとに「わたしは食べ物を食べなくても生きられる方法を知ったから死なない」と口癖のように話していました。それから一ヵ月後に××からまた忰が見舞いに来てくれましたが、掘りごたつを隔てて向い合っていますと、不思議そうにわたしの顔を見つめているのでございます。「なぜそんなにわたしの顔を見るのだ」といいますと、「お母さんはよくこんなに健康になったな、一月前と比べるとまるで雲泥の相違だ」といいました。そういわれまして、はじめて自分にも気づいたことでございましたが、一ヵ月前にはバケツに二杯ぐらい吐き出し吐き出ししているうちに、時の拍子にいく粒か胃袋にはいる御飯がやっと一膳ぐらいになるかならぬくらいでしたが、一ヵ月間『生長の家』「慢性病撲滅号」二冊を毎日繰り返し読んでいますうちに、水では流し込むのですが、食物を吐き出さずに二膳は食べられるようになっていたのです。

永田――一日に二膳ですか、一食に二膳ですか。

安藤――一食に二膳ずつ食べられるようになったのです。

永田――癌ではなかったのでしょう。

安藤――レントゲンで数回見ていただきましたが、わたしには当時はおっしゃいませんでしたが、立派な癌だったそうです。食道と胃袋との境い目に癌があって、肋骨の下になっている部分で、手術にも縫合にも大変不便な箇所だったそうでございます。今もわたしがこんなに快方に向かっているということを聞いて、医者が不思議だ一度見せてほしいとおっしゃるそうでございます。さてこうして一食に二膳まではたった一ヵ月で目だって快方に赴いたのですが、それから先はわたしの信仰が進まないものですか、なかなか進歩しないのです。やはり水で流し込まなければ食事が通らないのです。昨年の夏には、自分の信仰はこれだけより進まないのかと悲しい暗い気持ちになりましたが、またかえりみますと、こういう病気があることはけっこうでございまして、目に見える信仰の尺度がこうして肉体についていてくれるので、自分の心持ちを常に反省して、だんだん神に近づいて行くことができるのだと思いますと、またこれもありがたいおかげだと思ったりもしてみました。

谷口――この方の病気は不思議な病気でして、そうして吐き出さずに御飯を食べられるようになりましても、一度は胃袋の入口でギツンと痞えて、あとから冷水をコップで二杯も三倍も飲まなければ胃袋の方へはいって行かないのでした。

安藤――それで去年の冬などは寒い寒中にも冷水を一口の食事ごとにグングン飲んで慄えていたものでございました。

谷口――液体ならなんでもはいるかというとそうでないので、茶を飲んでも、やはり胃袋の入り口で痞えていて、冷水をあとから飲まねばはいらなかったのだそうです。

安藤――それがこちらへまいりまして半月ほどしますと、茶で楽に御飯が食べられるようになったのでございます。お菓子もお茶でいただけるようになりましたので、お客様に行ってもさしつかえがなくなりました。数日前神戸の親戚の方につれられて大丸の食堂でご馳走になりましたが、公開の食堂で人様の前で、例のようにギツンギツン食道で痞えて戻って来やしないかと内心ビクビクものでしたが、非常に楽に通りまして大変ありがたく思いました。

谷口――この安藤さんの医学上の不治症がどうして癒ったかと申しますと、人間は食物を食べないでも生きられるものであるという天徠(てんらい)の真理が『生長の家』ただ二冊を繰り返し読んでいられるうちに悟られた――これが根本なのであります。「食物が無ければ生きられないからどうしても食物を通さねばならぬ」と食物に執着している間は、かえって食物が食道を通過しないで、食べても食べてもバケツに二杯も吐き出されたのでありますが、「食物がなくても人間は死なないものだ」との真理が分かってきたときに、食物が通らないと困るという恐怖心がなくなって、かえってスラスラ食物が食道を通るようになったのであります。一燈園などでは無一物中無尽蔵と申しまして、「何も財産がなくとも人間は生きられるものだ」と知ったときに、かえって経済的にスラスラと必要なものが与えられてくる生活を実証していられますが、それは経済問題ですが、それと同じ真理がここに生理的に実証されたのであります。人間は何がなくとも(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)それ自身で生きられる(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)ものである(〇〇〇〇〇)。この自覚が「生長の家」で説く「人間、神の子」の真理でありましてこの真理が解れば、その他のものはその自覚にともなう反映(〇〇〇〇〇〇〇〇〇)として自然に備わるものなのです。食物がなくても生きられるとの自覚の反映として、食べ物がかえって食道を通るようになったのは当然であります。ただ今この席をお立ちになった若い御婦人は、盛岡農林学校の教授の奥様で栄野さんといわれますが、今度安藤さんと一緒に「生長の家」へ修行に来られたのでありますが、肺病を患って、一時身体がむくんで(ヽヽヽヽ)、足の甲までむくんで(ヽヽヽヽ)いて、顔などもところどころ紫黒色の斑点ができて、医者はもう一週間もつまいと家族の人に話したそうであります。そこへ紹介されてお越しになったのが、佐藤勝身さんでした。銀行の行務にお忙しいのに、毎夜、六十日間降っても照っても一日も欠かさずにお通いになって『生命の實相』を読んでおきかせになったのだそうです。

森川――わたしはその時以来ずっと栄野さんに付き添っていたのですが、栄野さんは最初のころ、随分佐藤さんに素気なくせられました。佐藤さんが十五日ぐらいおかよいになったころ「どうです、人間は神の子だということが悟られましたか」とおっしゃると、「悟れません」と言ってツンとして澄ましていらっしゃいました。それが佐藤さんに毎日『生命の實相』を読んでいただいているうちに、嬉しくなられて笑顔を見せるようになられメキメキ健康を回復されたのであります。

沢田――佐藤さんに東京の誌友会で会った時話しをきいたのはあの方のことでしたか。なんでも医者がもうあの方の肺臓は大分空洞になっているといったとかで、非常に悲観しておられたとき、佐藤さんは突然「肺臓なんか無くってもよいじゃないか」と語調鋭くいってしまったが、気がついて「オヤオヤこれは大変なことを口走ってしまった。そのあとをどう収拾したものだろう」と思ったが、その言葉が病人に大変力を添えたようだった、それは神さまからいわれた言葉だったようですといっておられました。

谷口――「肺臓なんかなくても生きられる」と佐藤さんが断固としていわれた、それは実に尊いお言葉です。そのために肺臓がかえってよくなって、今まで腐っていた肺臓が再生してきたというのは大変おもしろい事実じゃありませんか。「肺臓がないと困る、肺病が伝染(うつ)っては困る」などとなまじっか生理学や衛生思想にとらわれてそう思っているとかえっていつのまにか肺臓が腐っていたのに、「肺臓なんかなくても生きられる」と心の思い煩いが肺臓から全然なくなったときに肺臓がかえって復活してくる。食物がなくとも(〇〇〇〇〇〇〇)肺臓がなくとも(〇〇〇〇〇〇〇)なにがなくとも(〇〇〇〇〇〇〇)人間は生きられる(〇〇〇〇〇〇〇〇)。人間は食物でもなく肺臓でもなく、人間は「心」であるという真理が解って「心」が調ってきたら、その心の反映として食物も食べられ、肺臓も再生するという事実に立脚して、はじめてわれわれは肉体は心の影であるということが会得されるのです。永田さん、あなたは「生長の家」へお越しになってから急に尿量が増えたとかおっしゃっていましたが、どうなさいました。くわしくお話しくださいませんか。

永田――実は実母がこの春急に亡くなりまして以来、わたしは非常に心を痛めたとみえまして、神経衰弱のようになりまして、ちょっと電車に乗りましても心臓がドキドキする。心臓がこれで麻痺して死んでしまいはしないかと思うほどなのです。ウイスキーを懐中していて、それを少し嘗めるといく分心臓の胸騒ぎがおさまるのです。心臓そのものが悪ければアルコールを飲んでかえっておさまるというはずがない、これは心臓そのものが悪いのではない。こう心で否定するのですが、否定してもなかなか病気そのものはよくならないのです。ここからちょっと神戸へ電車に乗ってすらも、もうすぐ心臓がドキドキと来るのです。そのころ、腎臓をも痛めているらしく尿量がばかに減って気分がすぐれずにいたのでしたが、せんだって、はじめて上田源三郎君に紹介されてここへ来ましたときには、家内の病気の話ばかりしまして、わたしの病気のことは先生に少しも話しませんでしたが、先生と対談して帰りますと、精神の感応と申しますか、その日から急に、なんと形容しましょうか、堤を決したとでも言いますように排尿が盛んにあるのです。最初にお目にかかったとき、「まず現在利益をいただいてからでないと」などと申しておりましたが、正にその現世利益をいただいたわけですなあ。それ以来、非常にからだの具合がようございまして元気になりました。心臓の方もしだいによくなりました。先日東京へ行かねばならぬ用事ができましたが大阪駅の待合室で汽車を待ち合わしていますと、また急に心臓がドキドキ始まってきたのです。これから長距離の東海道線を汽車に揺られながら、旅をせねばならんかと思うと大変な気がするのです。やむをえず人なかをもかえりみず、合掌をして神想観を二、三分していますと、不思議やスーッと心臓の動悸が止まってしまいました。それ以来心臓の発作は一度も起こりません。その神想観の間はホンの三分間くらいでした。ほんとに助かってありがとうございました。