山人のブログ

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食事、瞑想、生きる喜び。

5近江遷都と天智天皇の即位

1三月辛酉朔己卯。遷都于近江。是時天下百姓不願遷都。諷諌者多。童謠亦衆。日々夜々失火處多。六月。葛野郡獻白■。

【三月やよひ辛酉かのととりを朔つきたちとして己卯つちのとう〔十九日〕。近江ちかつあふみ于に都みやこを遷うつしたまふ。是この時とき、天下あめのしたの百姓ひやくせい(おほみたから)都みやこを遷うつすことを不願ねがはず。諷諫いさむる者ひと多さはにありて、童謡わざうた亦また衆おほし。日夜日夜よるひるごとに失火やくる処ところ多さはにあり。六月みなづき、葛野郡かどののこほり白燕しろきつばくらめを献たてまつる。】

〔三月十九日、都を近江に移した。このとき、天下の人民は遷都を喜ばず、諷諫ふうかん諷ほのめかし諫いさめるするものが多かった。童謡わざうたも多く、夜昼となく出火するところが多かった。六月、葛野郡かずらののこおりより白燕しろつばくらめを奉った。〕

2秋七月己未朔己巳。耽羅遣佐平椽磨等貢獻。八月。皇太子幸倭京。冬十月。高麗太兄男生出城巡國。

【秋あき七月ふみづき己未つちのとひつじを朔つきたちとして己巳つちのとみ〔十一日〕。耽羅とむら佐平さへい椽磨てんま等らを遣まだして貢献みつきたてまつる。八月はつき、皇太子ひつぎのみこ倭京やまとのみやこに幸いでます。冬ふゆ十月かむなづき、高麗こまの大兄おほえ男生だむせい、城さしを出いでて国くにを巡めぐる。】

〔秋七月十一日、耽羅たんらが佐平の椽磨でんま等を遣わして、朝貢した。八月、皇太子天智が倭やまとの京飛鳥にお出ましになった。冬十月、高麗こまの大兄だいきょう高麗の官位である男生なんしょうが城を出て国を巡り歩いた。〕

3於是。城内二弟。聞側助士大夫之惡言。拒而勿入。由是男生奔入大唐謀滅其國。

【是ここ於に、城さしの内うちの二ふたりの弟おと、側助すけの士大夫したいふ之の悪あしき言ことを聞ききて、拒こばみ而て入いるること勿なし。是こに由よりて、男生だむせい、大唐だいたう(もろこし)に奔はしり入いりて、其その国くにを滅ほろぼさむと謀はかりつ。】

〔そのとき、城内の二人の弟が、側近の士大夫にそそのかされ、再び入城させなかった。このため、男生は大唐に至り、高麗を滅ぼそうと謀った。〕

4十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。

【十一月しもつき丁巳ひのとみを朔つきたちとして乙丑きのとうし〔九日〕。百済くたらの鎮将ちんしやう劉仁願りうじんげん、遣熊津いうしん都督府ととくふが熊山いうせん県令くゑんれい上柱国じやうちうこく司馬しば法聡はふそう等らをつかはして、大山下だいせんげ境部連さかひのむらじ石積いはつみ等ら〔於〕を筑紫つくしの都督府おほみこともちのつかさに送おくらしむ。】

〔十一月九日、百済の鎮将ちんしょうである劉仁願りゅうじんがんは熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡ゆうしんととくふゆうせんのけんれいしょうちゅうこくしばほうそうらを遣わして、大山下の境部連石積さかいべのむらじいわつみらを筑紫都督府に送ってきた。〕

5己巳。司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博徳。大乙下笠臣諸石爲送使。是月。築倭國高安城。讃吉國山田郡屋嶋城。對馬國金田城。

【己巳つちのとみ〔十三日〕。司馬しば法聡はふそう等ら罷まかりて帰かへる。小山下せうせんげ伊吉連いきのむらじ博徳はかとこ大乙下だいおつげ笠臣かさのおみ諸石もろしを以もちて、送使おくりつかひと為なす。是この月つき、倭国やまとのくにの高安城たかやすのき讃吉国さぬきのくに山田郡やまたのこほりの屋嶋城やしまのき対馬国つしまのくにの金田城かなたのきを築つく。】

〔十三日、司馬法聡しばほうそうらは帰途についた。小山下の伊吉連博徳いきのむらじはかとこ、大乙下の笠臣諸石かさのおみもろいわを送使とした。この月、倭国やまとのくにの高安城たかやすのき、讃岐国山田郡さぬきのやまだのこおりの屋島城やしまのき、対馬国の金田城かなたのきを築いた。〕

6潤十一月丁亥朔丁酉以錦十四疋。纈十九匹。緋廿四疋。紺布廿四端。桃染布五十八端。斧廿六。■六十四。刀子六十二枚賜椽磨等。

【潤うるふ(のちの)十一月しもつき丁亥ひのとゐを朔つきたちとして丁酉ひのととり〔十一日〕。錦にしき十四匹とあまりよむら纈ゆはた十九匹とあまりここのむら緋あけ二十四匹はたあまりよむら紺こむ、ふかきはなだの布ぬの二十四端はたあまりよむら桃染ももそめの布ぬの五十八端いそあまりやむら斧をの二十六はたちあまりむつ釤かま六十四むそちあまりよつ刀子かたな六十二枚むそあまりふたひらを以もちて、椽磨てんま等らに賜たまふ。】

〔閏うるう十一月十一日、錦十四匹、纈ゆはた十九匹、緋あけ二十四匹、紺布はなだのぬの二十四端、桃染布つきそめのぬの五十八端、斧おの二十六、釤なた六十四、刀子かたな六十二枚を椽磨でんまらに賜わった。〕

7七年春正月丙戌朔戊子。皇太子即天皇位。〈或本云。六年歳次丁卯三月即位。〉壬辰。宴群臣於内裏。戊申。送使博徳等服命。

【七年ななとせ春はる正月むつき丙戌ひのえいぬを朔つきたちとして戊子つちのえね〔三日〕、皇太子ひつぎのみこ即位くらゐにつきたまふ〈或本あるふみに云いふ。六年むとせ歳ほし丁卯ひのとうに次やどる。三月やよひに位くらゐに即つきたまふ。〉。辰みづのえたつ〔七日〕、群臣おほまへつきみたちを内裏おほうち於に宴うたげしたまふ(とよのあかりたまはる)。戊申つちのえさる〔二十三日〕、送使おくりつかひ博徳はかとこ等ら服命かへりことまをす。】

〔七年春一月三日、皇太子は天皇に即位された。〈ある本には、六年三月即位とある。〉七日、群臣まえつきみを召して内裏で饗応きょうおうをされた。二十三日、送使の博徳はかとこらが帰朝し、使命を果したことを報告した。〕

8二月丙辰朔戊寅。立古人大兄皇子女倭姫王爲皇后。遂納四嬪。有蘇我山田石川麻呂大臣女。曰遠智娘。

【二月きさらき丙辰ひのえたつを朔つきたちとして戊寅つちのえとら〔二十三日〕。古人大兄皇子ふるひとのおほえのみこの女みむすめ倭姫王やまとひめのおほきみを立たたして、皇后おほきさきと為なしたまふ。遂つひに四よはしらの嬪みめを納をさめたまふ。蘇我そがの山田石川麻呂やまだいしかはまろの大臣おほまへつきみの女むすめ有ありて遠智娘をちのいらつめと曰いひ】

〔二月二十三日、古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこの娘である倭姫王やまとのひめのおおきみを立てて皇后とした。全部で四人の嬪みめを持たれた。蘇我山田石川麻呂大臣そがのやまだのいしかわのまろのおおおみの娘を遠智娘おちのいらつめという。〕

9〈或本云。美濃津子娘。〉生一男。二女。其一曰大田皇女。其二曰■野皇女。及有天下居于飛鳥淨御原宮。

【〈或ある本ふみに美濃津子娘みのつこのいらつめと云いふ。〉て、一ひとはしらの男をのこ二ふたはしらの女めのこを生うみたまふ。其その一ひとはしらは大田皇女おほたのひめみこと曰いふ。其その二ふたはしらは鸕野女うのめ〔持統〕と曰いひて、天下あめのしたを有しろしめすに及およびて飛鳥あすかの浄御原宮きよみはらのみや于に居ましまして、】

〔一男二女をお生みになった。第一を大田皇女おおたのひめみこ、第二を鸕野皇女うののひめみこ天武天皇の皇后、持統天皇という。天下を治められるようになったときは、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやにお出でになった。〕

10後移宮于藤原。其三曰建皇子。唖不能語。〈或本云。遠智娘生一男。二女。其一曰建皇子。其二曰大田皇女。

【後のちに宮おほみやを藤原ふぢはら于に移うつしたまふ。其その三みはしらは建皇子たけるのみこと曰いひて、唖おふしなりて語まこととふこと不能あたはず〈或本あるふみに云いふ。遠智娘をちのいらつめ、一ひとはしらの男をのこ二ふたはしらの女めのこを生うみたまふ。其その一ひとはしらは建皇子たけるのみこと曰いふ。其その二ふたはしらは大田皇女おほたのひめみこと曰いふ。】

〔後に宮を藤原に移された。第三を建皇子たけるのみこという。言葉が不自由であった。〈ある本に、遠智娘おちのいらつめは一男二女を生み、第一を建皇子たけるのみこ、第二を大田皇女おおたのひめみこといい、〕

11其三曰■野皇女。或本云。蘇我山田麻呂大臣女曰芽淳娘。生大田皇女與娑羅々皇女。〉次有遠智娘弟。曰姪娘。

【其その三みはしらは鸕野皇女うののみこと曰いふ。〈或ある本ふみに云いふ。蘇我そがの山田麻呂やまたのまろの大臣まへつきみの女むすめ、茅渟娘ちぬのいらつめと曰いひて、大田皇女おほたのひめみこと娑羅羅皇女さららのひめみこ与とを生うみたまふ。〉。次つぎに遠智娘をちのいらつめが弟おと有ありて姪娘めひのいらつめと曰いひて、】

〔第三を鸕野皇女うののひめみことしている。〉〈またある本には、蘇我山田石川麻呂大臣そがのやまだいしかわまろのおおおみの娘を茅淳娘ちぬのいらつめといい、大田皇女おおたのひめみこと娑羅羅皇女さららのひめみこを生んだとある。〉次に、遠智娘おちのいらつめの妹があり、姪娘めいのいらつめという。〕

12生御名部皇女與阿陪皇女。阿陪皇女及有天下居于藤原宮。後移都于乃樂。〈或本云。名姪娘曰櫻井娘。〉

【御名部皇女みなべのひめみこと阿陪皇女あへのひめみこ与とをを生うみたまふ。阿陪皇女あへのひめみこ〔元明〕、天下あめのしたを有しろしめすに及およびて藤原宮ふぢはらのみや于に居ましまして後のちに都みやこを乃楽なら于に移うつしたまふ〈或本あるふみに云いふ。姪娘めひのいらつめを名なづけて桜井娘さくらゐのいらつめと曰いふ。〉】

〔御名部皇女みなべのひめみこと阿陪皇女あべのひめみこ後の元明天皇をお生みになった。阿陪皇女は天下を治められるようになったときは、藤原宮ふじわらのみやにお出でになった。後に都を奈良に移された。〕

13次有阿倍倉梯麻呂大臣女。曰橘娘。生飛鳥皇女與新田部皇女。次有蘇我赤兄大臣女。曰常陸娘。生山邊皇女。

【次つぎに阿倍あべの倉梯麿くらはしまろの大臣おほまへつきみの女むすめ有ありて橘娘たちばなのいらつめと曰いひて、飛鳥皇女あすかのひめみこと新田部皇女にひたべのひめみこ与とを生うみたまふ。次つぎに蘇我そがの赤兄あかえの大臣おほまへつきみが女むすめ有ありて常陸娘ひたちのいらつめと曰いひて、山辺皇女やまのへのひめみこを生うみたまふ。】

〔次は阿倍倉梯麻呂大臣あべのくらはしまろのおおおみの娘があり、橘娘たちばなのいらつめといった。飛鳥皇女あすかのひめみこと新田部皇女にいたべのひめみこ天武天皇の妃とをお生みになった。次に蘇我赤兄大臣そがのあかえのおおおみの娘があり、常陸娘ひたちのいらつめといった。山辺皇女やまべのひめみこをお生みになった。〕

14又有宮人生男女者四人。有忍海造小龍女。曰色夫古娘。生一男。二女。其一曰大江皇女。其二曰川嶋皇子。

【又また宮人みやひとの男女をのこをみなを生うみてある者ひと四人よたり有あり。忍海造おしのみのみやつこ小龍をたつが女むすめ有ありて色夫古娘しこぶこのいらつめと曰いひて、一ひとはしらの男をのこ二ふたはしらの女めのこを生うみたまふ。其その一ひとはしらは大江皇女おほえのひめみこと曰いふ。其その二ふたはしらは川嶋皇子かはしまのみこと曰いふ。】

〔また後宮の女官で男女の子を生んだ者は四人あった。忍海造小竜の女があり、色夫古娘といった。一男二女をお生みになった。第一を大江皇女おおえのひめみこといい、第二を川島皇子かわしまのみこといい、〕

15其三曰泉皇女。又有栗隈首徳萬女。曰黒媛娘。生水主皇女。又有越道君伊羅都賣。生施基皇子。又有伊賀釆女宅子。

【其その三みはしらは泉皇女いづみのひめみこと曰いふ。又また栗隈首くりくまのおびと徳万とこまが女むすめ有ありて黒媛娘くろひめのいらつめと曰いひて、水主皇女もひとりのひめみこを生うみたまふ。又また越道君こしのみちのきみの伊羅都売いらつめ有ありて、施基皇子しきのみこを生うみたまふ。又また伊賀いがの采女うねめの宅子娘かやこのいらつめ有ありて、】

〔第三を泉皇女いずみのひめみこといった。また栗隈首徳万くるくまのおびととこまろの娘があり、黒媛娘くろめのいらつめといった。水主皇女もひとりのひめみこをお生みになった。また、越こしの道君伊羅都売みちのきみいらつめが施基皇子しきのみこをお生みになった。また伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめがあり、〕

16生伊賀皇子。復字曰大友皇子。夏四月乙卯朔庚申。百濟遣末都師父等進調。庚午。末都師父等罷歸。

【伊賀皇子いがのみこを生うみたまひて、後のちに字あざなを大友皇子おほとものみこと曰いふ。夏なつ四月うづき乙卯きのとうを朔つきたちとして庚申かのえさる〔六日〕。百済くたら、末都師父まとしぶ等らを遣まだして進調みつきたてまつる。庚午かのえうま〔十六日〕、末都師父まとしぶ等ら罷まかり帰かへる。】

〔伊賀皇子いがのみこをお生みになった。後の名を大友皇子おおとものみこという。夏四月六日、百済は末都師父まつしぶらを遣わして調を奉った。十六日、末都師父らは帰途についた。〕

17五月五日。天皇縱獵於蒲生野。于時大皇弟。諸王。内臣。及羣臣皆悉從焉。六月。伊勢王與其弟王接日而薨。未詳官位。

【五月さつき五日いつか、天皇すめらみこと蒲生野かまふの乙の甲於に縦ほしきまにまに猟みかりしたまふ。時とき于に、大皇弟だいくわうてい諸王おほきみたち内臣うちつおみ及およびに群臣まへつきみたち、皆みな悉ことごとに焉ここに従したがひまつる(みともしまつる)。六月みなづき、伊勢王いせのおほきみと其その弟おとの王おほきみ与と日ひを接つぎ而て薨こうず。未いまだ官位つかさのくらゐ詳つまひらかにあらず。】

〔五月五日、天皇は蒲生野がもうのに狩りに行かれた。時に、大皇弟ひつぎのみこ大海人皇子おおあまのみこ、諸王、内臣および群臣みなことごとくお供をした。六月、伊勢王とその弟王とが日をついで薨去こうきょした。〕

18秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜筑紫率。』于時近江國講武。又多置牧而放馬。

【秋あき七月ふみづき、高麗こまのくに、越之路こしのみち従ゆ使つかひを遣まだして進調みつきたてまつる。風かぜふき浪なみ高たかし、故かれ帰かへることを不得えじ。栗前王くりくまのおほきみを以もちて、筑紫率つくしのかみに拝おほす(よさす)。時とき于に、近江国ちかつあふみのくに武つはものに講ときて、又また多さはに牧むまきを置おき而て馬むまを放はなてり。】

〔秋七月、高麗こまが越路こしのみち北陸の沿岸から使者を遣わして、調を奉ったが、浪風が高く帰ることができなかった。栗隈王くるくまのおおきみを筑紫率つくしのかみのちの大宰帥に任じられた。時に、近江国おうみのくにで武術を講じた。また多くの牧場を設けて馬を放牧した。〕

19又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又命舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇天命將及乎。

【又また越国こしのくに燃土もゆるつちと燃水もゆるみづ与とを献たてまつる。又また浜の台うてな之の下もと於に諸もろもろの魚いを水みずを覆おほひ而て至いたる。又また蝦夷えみしに饗みあへしたまふ。又また舎人とねり等らに命おほして所々ところどころ於に宴うたげを為なせしむ。時ときの人ひと曰いへらく「天皇すめらみことが天命みいのち将まさに及つきむとする乎か」といへり。】

〔また越こしの国から燃える土と燃える水を奉った。また水辺の御殿の下にいろいろな魚が、水の見えなくなる程集まった。また蝦夷えみしに饗応きょうおうされた。また舎人とねりらに命じてさまざまな場所で宴をさせられた。人々は、「天皇は位を去られるのだろうか。」と言った。〕

20秋九月壬午朔癸巳。新羅遣沙■級■金東嚴等進調。丁未。中臣内臣使沙門法弁・秦筆賜新羅上臣大角干■信船一隻。

【秋あき九月ながつき壬午みづのえうまを朔つきたちとして癸巳みづのとみ〔十二日〕。新羅しらき沙㖨さとく〔沙さ〕飡さん金きむ東厳とうげむ等らを遣まだして進調みつきたてまつる。丁未ひのとみ〔二十六日〕、中臣なかとみの内臣うちつおみ〔鎌足〕、使沙門ほふし法弁ほふべん秦筆じんひちをして、新羅しらきの上臣じやうしん(おほまへつきみ)大角干だいかくかん庾信ゆしんに船ふね一隻ひとふなを賜たまはしめて、】

〔秋九月十二日、新羅は沙トク級サン金東厳さとくきゆうさんこんとうげんらを遣わして調を奉った。二十六日、中臣鎌足なかとみのかまたりは沙門の法弁ほうべんと秦筆じんひつを遣わして、新羅の上臣である大角干庾信だいかくかんゆしんに船一艘を与えられ、〕

21付東嚴等。庚戌。使布勢臣耳麻呂賜新羅王輸御調船一隻付東嚴等。冬十月。大唐大將軍英公打滅高麗。

【東厳とうげむ等らに付つく。庚戌かのえいぬ〔二十九日〕、布勢臣ふせのおみ耳麻呂みみまろをして、新羅王しらきわうに御調みつきを輸いたす船ふね一隻ひとふなを賜たまは使しめて、東厳とうげむ等らに付つく。冬ふゆ十月かむなづき。大唐だいたう(もろこし)の大将軍だいしやうぐん英公えいこう、高麗こまを打うち滅ほろぼす。】

〔東厳とうげんらに言付けられた。二十九日、布勢臣耳麻呂ふせのおみみみまろを遣わして、新羅王しらぎおうに調物を運ぶ船を一艘贈り、東厳とうげんらに言付けられた。冬十月、大唐の大将軍である英公えいこうは、高麗こまを打ち滅ぼした。〕

22高麗仲牟王初建國時。欲治千歳也。母夫人云。若善治國可得也。〈若或本有不可得也。〉但當有七百年之治也。

【高麗こまの仲牟王ちうむわう初はじめて国くにを建たてし時とき、千歳ちとせまで治をさめむと欲おもひき也なり。母夫人ぼうふじん(ははのおりくく)の云いひしく「若もし善よく国くにを治をさめば得う可べからむ也や〈若もしくは或本あるふみに「不可得うべからじ也や」と有あり〉、但ただし当まさに七百年ななほとせ之の治をさめ有あるべし也なり」といひき。】

〔高麗の仲牟王ちゅうむおうは、初めて国を建てたとき、千年に渡って治め続けることを願った。これに対し母夫人が、「もし国をたいへん善く治めたとしても、まず七百年ぐらいのものだろう。」と言った。〕

23今此國亡者。當在七百年之末也。十一月辛巳朔。賜新羅王絹五十疋。綿五百斤。韋一百枚。付金東嚴等。

【今いま此この国くにの亡ほろび者は当まさに七百年ななほとせ之の末すゑに在ありてあるべし也なり。十一月しもつき辛巳かのとみの朔つきたち、新羅王しらきわうに絹きぬ五十匹いそむら、綿わた五百斤いほはかり、韋おしかは(をしかは)一百枚ももひらを賜たまひて、金東厳こんとうげむ等らに付つく。】

〔今この国の滅亡は、まさに七百年後のことであった。十一月一日、新羅王に絹五十匹、綿五百斤、なめし皮百枚を贈られ、金東厳こんとうげんらに託した。〕

24賜東嚴等物各有差。乙酉。遣小山下道守臣麻呂。吉士小鮪於新羅。▼是日金東嚴等罷歸。

【東厳等とうげむらに物ものを賜たまふ、各おのもおのも差さしな有あり。乙酉きのととり〔五日〕、小山下せうせんげ道守臣ちもりのおみ麻呂まろ吉士きしの小鮪こしびを新羅しらき於に遣つかはす。是この日ひ金東厳等こんとうげむら罷まかり帰かへる。】

〔東厳とうげんらにもそれぞれに応じて物を賜わった。五日、小山下の道守臣麻呂ちもりのおみまろ、吉士小鮪きしのおしびを新羅に遣わした。この日、金東厳こんとうげんらは帰途についた。〕

25是歳。沙門道行盜草薙劔逃向新羅。而中路風雨。荒迷而歸。八年春正月庚辰朔戊子。以蘇我赤兄臣拜筑紫率。

【是この歳とし、沙門ほふし道行どうぎやう、草薙剣くさなぎのつるぎを盗かすめて新羅しらきに逃向にげゆきき。而しかれども中路みちなかばに風かぜ雨あめ荒あらくありて迷まどひ而て帰かへりつ。八年やとせ春はる正月むつき庚辰かのえたつを朔つきたちとして戊子つちのえね〔九日〕。蘇我そがの赤兄あかえの臣おみを以もちて筑紫率つくしのかみに拝おほす(よさす)。】

〔この年、沙門の道行どうぎょうが、草薙剣くさなぎのつるぎを盗んで、新羅に逃げた。しかし途中で風雨にあって、道に迷いまた戻った。八年春一月九日、蘇我赤兄臣そがのあかえのおみを筑紫宰つくしのかみ大宰帥に任じた。〕

26己卯朔己丑。耽羅遣王子久麻伎等貢獻。丙申。賜耽羅王五穀種。▼是日。王子久麻伎等罷歸。

【三月やよひ己卯つちのとうを朔つきたちとして己丑つちのとうし〔十一日〕。耽羅とむら王子わうし(せしむ)久麻伎くまぎ等らを遣まだして貢献みつきたてまつる。丙申ひのえさる〔十八日〕、耽羅王とむらわう(とむらのこにきし)に五穀種いつくさのたなつものを賜たまふ。是この日ひ、王子わうし(せしむ)久麻伎くまぎ等ら罷まかり帰かへる。】

〔三月十一日、耽羅たんらが王子久麻伎くまきらを遣わして調を奉った。十八日、耽羅王たんらおうに五穀の種を賜わった。この日、王子の久麻伎くまきらは帰国の途についた。〕

27夏五月戊寅朔壬午。天皇縱獵■於山科野。大皇弟。藤原内大臣。及群臣皆悉從焉。秋八月丁未朔己酉。

【夏なつ五月さつき戊寅つちのえとらを朔つきたちとして壬午みづのえうま〔五日〕。天皇すめらみこと、縦ほしきまにまに山科野やましなの於に猟みかりしたまふ。大皇弟だいくわうてい、藤原ふぢはらの内大臣うちつおほまへつきみ及およびに群臣まへつきみたち皆みな焉ここに悉ことごとに従したがひまつれり。秋あき八月はつき丁未ひのとひつじを朔つきたちとして己酉つちのととり〔三日〕。】

〔夏五月五日、天皇は山科野やましなののに薬狩りをされた。大皇弟ひつぎのみこ大海人皇子おおあまのみこ、藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみ鎌足および群臣らがことごとくお供をした。秋八月三日、〕

28天皇登高安嶺。議欲修城。仍恤民疲止而不作。時人感而歎曰。「寔乃仁愛之徳不亦寛乎。云々。」

【天皇すめらみこと、高安嶺たかやすのたけに登のぼりまして、城きを修つくらむと欲おもほして議はかれども、民たみ(おほみたから)の疲つかれてあることを恤うるふるに仍よりて、止やめ而て不作つくりたまはず。時ときの人ひと感かなひ而て歎なげきて曰まをししく、「寔これ乃すなはち仁愛めぐみうつくしび之の徳のりなり、不亦また寛ゆるはざる乎や云々しかしか」とまをしき。】

〔天皇は高安山たかやすやまに登って、城を築くことを相談された。しかし、まだ人民の疲れていることを哀れんで、築造はされなかった。当時の人はこれに感じて、「仁愛の徳が深くいらっしゃる。」云々と言った。〕

29是秋。霹■於藤原内大臣家。九月丁丑朔丁亥。《十一》新羅遣沙■督儒等進調。

【是この秋あき、藤原ふぢはらの内大臣うちつおほまへつきみの家いへ於に霹礰かむとけあり。九月ながつき丁丑ひのとうしを朔つきたちとして丁亥ひのとゐ〔十一日〕。新羅しらき沙飡ささん督儒とくじゆ等らを遣まだして進調みつきたてまつる。】

〔この秋、藤原内大臣鎌足の家に落雷があった。九月十一日、新羅しらぎは沙サン督儒ささんとくじゅらを遣わして調を奉った。〕

6藤原鎌足の死

1冬十月丙午朔乙卯。天皇幸藤原内大臣家。親問所患而憂悴極甚。乃詔曰。「天道輔仁何乃虚説。積善餘慶猶是無徴。

【冬ふゆ十月かむなづき丙午ひのえうまを朔つきたちとして乙卯きのとう〔十日〕。天皇すめらみこと藤原ふぢはらの内大臣うちつおほまへつきみが家いへに幸いでます。親みづから患やまふ所ところを問とぶらひ而て悴かしけてあるさま極きはめて甚はなはだしきことを憂うれへたまふ。乃すなはち詔のたまひて曰いへらく「天道あめのみちの輔仁たすけめぐみ、何なにそや乃すなはち虛むなしく説とけるか。善ほまれを積つみて慶よろこびを余あますといへど、猶なほ是ここに徴しるし无なし。】

〔冬十月十日、天皇は藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみ鎌足の家にお越しになり、親しく病を見舞われた。しかし、衰弱が甚しかった。それで詔みことのりして、「天道が仁者を助けるということに偽りがあろうか。積善の家に余慶があるというのに、そのしるしがない答はない。〕

2若有所須。便可以聞。」對曰。「臣既不敏。當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍國。死則何敢重難。云々。」

【若もし須かならずすべき所ところ有あらば、便すなはち以もちて聞きこす可べし。」とのたまへり。対こたへて曰まをししく「臣やつこ既すでに不敏さとからずて、当まさに復また何なにそ言まをすべきや。但ただ其その葬はぶりの事こと、宜よろしく軽易やすきを用もちゐたまふべし。生いきて則すなはち軍国いくさのくに於に務つとむること無なかりて、死しにして則すなはち何なにそ敢あへて難かたきことを重かさねむや、云々しかしか。」とまをしき。】

〔もし望むことがあるなら何でも言うがよい。」と言われた。鎌足は、「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のためにお役に立てず百済救援の失敗のこと、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか。」云々、とお答えした。〕

3時賢聞而歎曰。「此之一言。竊比於往哲之善言矣。大樹將軍之辭賞。可同年而語哉。」庚申。天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家。

【時ときの賢さかしきひと〔こを〕聞きき而て歎なげきて曰まをせらく「此こ之の一言ひとことをば、窃ひそかに往むかしの哲さかしきひと之の善よき言こと於に比たとへまつる矣や。大樹将軍たいじゆしやうぐん之の賞たまものを辞いなびしこと、詎いづれか同おなじき年としを而して語かたる可べき哉や」とまをせり。庚申かのえさる〔十五日〕、天皇すめらみこと、東宮ひつぎのみこなる大皇弟だいくわうていを藤原ふぢはらの内大臣うちつおほまへつきみの家いへ於に遣つかはして、】

〔時の賢者は褒めて、「この一言は昔の哲人の名言にも比すべきものだ。大樹将軍たいじゅしょうぐん後漢の馮異ふういが、賞を辞退したという話と、とても同じには語れない。」と言った。十五日、天皇は東宮太皇弟ひつぎのみこ大海人皇子おおあまのみこを藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみ鎌足の家に遣わし、〕

4授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏。自此以後。通曰藤原内大臣。辛酉。藤原内大臣薨。〈日本世記曰。「内大臣春秋五十薨于私第。

【大織だいしきの冠かがふりと大臣おほまへつきみの位くらゐ与とを授さづけたまふ。仍かさねて姓かばねを賜たまひて藤原氏ふぢはらのうぢと為なせり。此これ自より以もちて後のち、通とほして藤原内大臣ふぢはらのうちつおほまへつきみと曰いふ。辛酉かのととり〔十六日〕、藤原ふぢはらの内大臣うちつおほまへつきみ薨こうず(みうせぬ)〈日本やまとの世よの記ふみに曰いはく「内大臣うちつおほまへつきみ、春秋とし五十いそちにありて私第わたくしのいへ于に】

〔大織だいしきの冠と大臣の位を授けられた。姓を賜わって藤原氏とされた。これ以後、通称、藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみと言った。十六日、藤原内大臣鎌足は死んだ。〈日本世記高句麗こうくりの僧である道顕どうけんの著に言う。「内大臣うちつおおおみは五十歳で自宅で〕

5廼殯於山南。天何不淑。不憖遣耆。鳴呼哀哉。碑曰。春秋五十有六而薨。〉甲子。天皇幸藤原内大臣家。

【薨こうず(みうせぬ)。山南やまみなみ於に遷うつし殯もがりしたまふ。天あめ、何なにそ不淑よからずて、不懃ねもころに耆おきなを遺のこしたまはざるや、鳴呼ああ哀かなし哉や」といふ。〈碑いしぶみ(ゑりいし)に曰いはく「春秋とし五十有六いそちあまりむつに而て薨こうず(みうせぬ)」といふ。〉甲子きのえね〔十九日〕、天皇すめらみこと藤原ふぢはらの内大臣うちつおほまへつきみが家いへに幸いでます。】

〔亡くなった。遺骸を山科やましなの山の南に移して殯もがりした。天はどうして心なくも、しばらくこの老人を遺さなかったのか。哀しいかな。碑文には春秋五十六にして薨こうずとある。」十九日、天皇は藤原内大臣ふじわらのうちつおおおみの家にお出ましになり、〕

6命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔。仍賜金香鑪。十二月。災大藏。是冬。修高安城收畿内之田税。』于時災斑鳩寺。

【大錦上だいきむじやう蘇我そがの赤兄あかえの臣おみに命おほして恩めぐみの詔みことのりを奉ささげ宣のべしめたまひて、仍かさねて金くがねの香鑪かうろを賜たまふ。十二月しはす。大蔵おほくらのつかさに災もゆるわざはひあり。是この冬ふゆ、高安城たかやすのきを修つくりて、畿内うちつくに之の田税たちからを収をさむ。時とき于に、斑鳩寺いかるがのてらに災もゆるわざはひあり。】

〔大錦上の蘇我赤兄臣そがのあかえのおみに命じて、恵みふかい詔みことのりを詠みあげさせられた。また金の香鑪こうろを賜わった。十二月、大蔵おおくらに出火があった。この冬、高安城たかやすのきを造って、畿内うちつくにの田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺いかるがてら法隆寺に出火があった。〕

7是歳。遣小錦中河内直鯨等使於大唐。又以佐平餘自信。佐平鬼室集斯等。男女七百餘人遷居近江國蒲生郡。

【是この歳とし、小錦中せうきむちう河内直かふちのあたひ鯨くぢら等らを遣まだして、大唐だいたう(もろこし)於に使つかひせしむ。又また佐平さへい餘自信よじしん佐平鬼室集斯きしつしふしん等ら男女をのこをみな七百余人ななほたりあまりを以もちて、近江国ちかつあふみのくにの蒲生郡かまふのこほりに遷うつし居すまはしむ。】

〔この年、小錦中の河内直鯨こうちのあたいくじららを大唐に遣わした。また佐平余自信さへいよじしん、佐平鬼室集斯さへいきしつしゅうしら男女七百余人を近江国おうみのくにの蒲生郡がもうのこおりに移住させた。〕

8又大唐遣郭務■等二千餘人。九年春正月乙亥朔辛巳。詔士大夫等大射宮門内。戊子。宣朝庭之禮儀與行路之相避。

【又また大唐だいたう(もろこし)郭務悰くわくむそう等ら二千余人ふたちたりあまりを遣つかはす。九年ここのとせ春はる正月むつき乙亥きのとゐを朔つきたちとして辛巳かのとみ〔七日〕。士大夫したいふ等らに詔みことのりたまひて宮門内みかどのうちに大おほきに射ゆみいしめたまふ。戊子つちのえね〔十四日〕、朝庭みかど之の礼儀ゐやまひと行路みちゆきびと与とは之これ相あひ避さけよと宣のたまふ。】

〔また大唐が郭務惊かくむそうら二千余人を遣わしてきた。十年十一月条と重出九年春一月七日、士大夫まえつきみらに詔みことのりして、宮廷内で大射礼だいじゃらいがあった。十四日、朝廷の礼儀と、道路で貴人と行きあったとき、道を避けるべきことを仰せ出された。〕

9復禁斷誣妄妖僞。二月。造戸籍。斷盜賊與浮浪。』于時天皇幸蒲生郡匱■野而觀宮地。』又修高安城積穀與塩。

【復また禁いさめて誣妄たはごと妖偽およづれを断やむ。二月きさらき、戸籍へふむたを造つくりて、盗賊ぬすびとと浮浪うかれひと与とを断やむ。時とき于に、天皇すめらみこと、蒲生郡かまふのこほりの匱迮野ひつさの乙の甲に幸いでま而して宮地みやどころを観みそなはす。又また高安城たかやすのきを修つくりて穀たなつものと塩しほ与とを積つむ。】

〔また誣告たわごと、流言るげんなどを禁じられた。二月、戸籍を造り、盗人と浮浪者とを取締った。同月、天皇は蒲生郡がもうのこおりの日野ひのにお越しになり、宮を造営すべき地をご覧になった。また高安城たかやすのきを造って穀と塩とを蓄えた。〕

10又築長門城一。筑紫城二。三月甲戌朔壬午。於山御井傍敷諸神座。而班幣帛。中臣金連宣祝詞。夏四月癸卯朔壬申。

【又また長門城ながとのき一ひとつ筑紫城つくしのき二ふたつを築きつく。三月やよひ甲戌きのえいぬを朔つきたちとして壬午みづのえうま〔九日〕。山の御井みゐの傍ほとり於に、諸神もろもろのかみの座みましを敷しき而て幣帛みてぐらを班あかちて、中臣なかとみの金くがね(かね)の連むらじ祝詞のりとを宣のる。夏なつ四月うつき癸卯みずのとうを朔つきたちとして壬申みずのえさる〔三十日〕。】

〔また長門に一城、筑紫に二城を築いた。三月九日、山の井三井寺の泉のそばに、諸神の座を設け、幣帛みてぐらを捧げられた。中臣金連なかとみのかねのむらじが祝詞のりとを奏した。夏四月三十日、〕

11夜半之後。災法隆寺。一屋無餘。大雨雷震。五月。童謠曰。

【夜半うしのとき(よなか)之の後のち、法隆寺はふりうじに災ひのわざはひありて、一屋ひとや余あますこと無なし。大雨ひさめふり雷震いかづちなる。五月さつき、童謡わざうたありて曰いはく。】

〔暁に法隆寺で出火があった。一舍も残らず焼けた。大雨が降り、雷鳴が轟いた。五月、童謡わざうたが行なわれた。〕

12于知波志能。都梅能阿素弭爾。伊提麻栖古。多麻提能伊■能。野■古能度珥。

【于知波志能うちはしの乙、都梅能阿素弭爾つめのあそび甲に、伊提麻栖古いでませこ甲、多麻提能伊鞞能たまての乙いへ甲の乙、野鞞古能度珥やへ甲こ甲の乙と甲じ、】

〔板を渡した仮橋のたもとの遊びに出ておいで、玉手の家の八重子やえこさん、〕

13伊提麻志能。倶伊播阿羅珥茹。伊提麻西古。多麻提能■能。野■古能度珥■

【伊提麻志能いでましの、倶伊播阿羅珥茹くいはあらじぞ乙、伊提麻西古いでませこ甲、多麻提能鞞能たまての乙へ甲の乙、野鞞古能度珥やへ甲こ甲の乙と甲じ。】

〔お出でになっても悔いはありませんよ。出ていらっしゃい。玉手の家の八重子やえこさん。〕

14六月。邑中獲龜。背書申字。上黄下玄。長六寸許。秋九月辛未朔。遣阿曇連頬垂於新羅。是歳。造水碓而冶鐵。

【六月むつき、邑中むらなかに亀かはかめを獲う。背せに申しんの字なを書しるせり、上うへは黄き下したは玄くろ、長ながさ六寸むき許ばかりなり。秋あき九月ながつき辛未かのとひつじの朔つきたち。阿曇連あづみのむらじ頰垂つらたり新羅しらき於に遣つかはす。是この歳とし、水碓みづうすを造つくり而て鉄くろがねを冶わかす。】

〔六月、ある村の中で亀をつかまえた。背中に申の字が書かれてあった。上部は黄色で下は黒かった。長さは六寸程であった。秋九月一日、阿曇連頰垂あずみのむらじつらたりを新羅に遣わした。この年、水碓みずうす水力の臼を造って鉄を鋳いた。〕

7大友皇子、太政大臣に

1十年春正月己亥朔庚子。大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣。進於殿前奏賀正事。癸卯。大錦上中臣金連命宣神事。

【十年とをとせ春はる正月むつき己亥つちのとゐを朔つきたちとして庚子かのえね〔二日〕。大錦上だいきむじやう蘇我そがの赤兄あかえの臣おみと大錦下だいきむげ巨勢こせの人ひとの臣おみ与と殿おほとのの前みまへ於に進すすみて、賀正事あらたしきとしのことを奏まをす。癸卯みづのとう〔五日〕、大錦上だいきむじやう中臣なかとみの金くがね(かね)の連むらじ命神事かむごとを宣のる。】

〔十年春一月二日、大錦上の蘇我赤兄そがのあかえと大錦下の巨勢人臣こせのひとのおみが宮殿の前に進んで、新年の賀詞を奏上した。五日、大錦上の中臣金連なかとみのかねのむらじが命によって、神々への寿詞よごとを述べた。〕

2是日。以大友皇子拜太政大臣。以蘇我赤兄臣爲左大臣。以中臣金連爲右大臣。以蘇我果安臣。巨勢人臣。

【是この日ひ、大友皇子おほとものみこを以もちて太政大臣おほきまつりごとのおほまへつきみに拝おほせたまふ。蘇我そがの赤兄臣あかえのおみを以もちて左大臣ひだりのおほまへつきみと為なしたまふ。中臣なかとみの金くがね(かね)の連むらじを以もちて右大臣みぎのおほまへつきみと為なしたまふ。蘇我そがの果安臣はたやすのおみ、巨勢こせの人臣ひとのおみ、】

〔同日、大友皇子おおとものみこを太政大臣に任じられた。蘇我赤兄臣そがのあかえのおみを左大臣ひだりのおとどに、中臣金連なかとみのかねのむらじを右大臣みぎのおとどとされた。蘇我果安臣そがのはたやすのおみ、巨勢人臣こせのひとのおみ、〕

3紀大人臣爲御史大夫。〈御史。盖今之大納言乎。〉甲辰。東宮太皇弟奉宣〈或本云。大友皇子宣命。〉施行冠位法度之事。

【紀きの大人臣うしのおみを以もちて御史大夫ぎよしたいふと為なしたまふ〈御史ぎよしは蓋けだし今いま之の大納言おほきものまをすつかさ乎か〉。甲辰きのえたつ〔六日〕、東宮ひつぎのみこの太皇弟だいくわうてい宣みことのりを奉たてまつりて〈或本あるふみに大友皇子おほとものみこ命おほせことを宣のべたまへりと云いふ〉冠位かがふりのくらゐ法度のり之の事ことを施行おこなひて、】

〔紀大人臣きのうしのおみを御史大夫ぎょしたいふとした。六日、東宮太皇弟ひつぎのみこ大海人皇子おおあまのみこが詔みことのりした。〈ある本には、大友皇子おおとものみこが言一命すとある。〉冠位、法度のことを施行された。〕

4大赦天下。〈法度冠位之名。具載於新律令。〉丁未。高麗遣上部大相可婁等進調。辛亥。百濟鎭將劉仁願遣李守眞等上表。

【天下あめのしたに大おほきに赦ゆるしたまふ〈法度のり冠位かがふりのくらゐ之の名なは、具つぶさに新にひしき律令りつれい(のりのふみ)於に載のせる也なり〉。丁未ひのとひつじ〔九日〕、高麗こま、上部じやうほう大相可婁たいしやうかる等らを遣まだして進調みつきたてまつる。辛亥かのとゐ〔十三日〕、百済くたらの鎮将ちんしやう劉仁願りうじんげん、李守真りしゆしん等らを遣まだして表ふみを上たてまつる。】

〔天下に大赦を行なわれた。法度、冠位の名は、詳しく新しい律令にのせてある。九日、高麗こまが上部大相可婁じょうほうたいそうかるらを遣わして調を奉った。十三日、百済にある鎮将ちんしょうの劉仁願りゅうじんがんが、李守真りしゅしんらを遣わして、上表文を奉った。〕

5是月。以大錦下授佐平余自信。沙宅紹明。〈法官大輔。〉以小錦下授鬼室集斯。〈學職頭。〉以大山下授達率谷那晋首。〈閑兵法。〉

【是この月つき、大錦下だいきむげを以もちて佐平さへい余自信よじしん沙宅紹明さたくせうめい〈法官のりのつかさの大おほき輔すけ〉に授さづく。小錦下せうきむげを以もちて鬼室集斯くゐしつしふし〈学職ふむやのつかさの頭かみ〉に授さづく。大山下だいせんげを以もちて授達率たつそつ谷那晋首こくなしんしゆ〈兵法つはものを閑ならへり〉】

〔この月、佐平余自信さへいよじしん、沙宅紹明さたくしょうみょう法官大輔に大錦下を授けられた。鬼室集斯きしつしゅうし学頭職に小錦下を授け、達率谷那晋首たつそつこくなしんしゅ〈兵法に詳しい〉、〕

6木素貴子。〈閑兵法。〉憶禮福留。〈閑兵法。〉答■春初。〈閑兵法。〉■日比子。賛波羅。金羅金須〈解藥。〉鬼室集信。〈解藥。〉

【木素貴子もくすくゐし〈兵法つはものを閑ならへり〉憶礼福留おくらいふくる〈兵法つはものを閑ならへり〉答㶱春初たふほんしゆんそ〈兵法つはものを閑ならへり〉㶱日比子賛波羅金羅金須ほんにちひこさんはらこむらこむす〈薬くすりを解しれり〉鬼室集信くゐしつしふしん〈薬くすりを解しれり〉にさづく。】

〔木素貴子もくすきし〈兵法に詳しい〉、憶礼福留おくらいふくる〈兵法〉、答ホン春初とうほんしゅんそ〈兵法〉、ホン日比子賛波羅金羅金須ほんにちひしさんはらこんらこんす〈薬に通ずる〉、鬼室集信きしつしゅうしん〈薬に通ずる〉に大山下を授けた。〕

7以上小山上授達率徳頂上。〈解藥。〉吉大尚。〈解藥。〉許率母。〈明五經。〉角福牟。〈閑於陰陽。〉以小山下授餘達率等五十餘人也。』童謠云。

【小山上せうせんじやうを以もちて授達率たつそつ徳頂上とくちやうじやう〈薬くすりを解しれり〉吉大尚きちだいじやう〈薬くすりを解しれり〉許率母ごそちも〈五経ごきやうを明あきらめり〉角福牟かくふくむ〈陰陽おむようのつかさ於に閑ならへり〉にさづく。小山下せうせんげを以もちて余あたし達率たつそつ等ら五十余人いそたりあまりに授さづく。』童謡わざうたの云いはく。】

〔小山上を達率徳頂上たつそつとくちょうじょう〈薬に通ずる〉、吉大尚こそつも〈薬に通ず〉、許率母こそつも〈五経に通ず〉、角福牟ろくふくむ〈陰陽に通ずる〉に授けた。小山下を他の達率たつそつたち五十余人に授けた。』童謡わざうたがあった。〕

8多致播那播。於能我曳多曳多。那例々騰母。陀麻爾農矩騰岐。於野兒弘爾農倶。二月戊辰朔庚寅。

【多致播那播たちばなは、於能我曳多々々おのがえ乙だえ乙だ、那例々騰母なれれど乙も、陀麻爾農矩騰岐たまにぬくと乙き甲、於野児弘儞農倶おやじをにぬく。二月きさらき戊辰つちのえたつを朔つきたちとして庚寅かのえとら〔二十三日〕。】

〔橘たちばなの実は、それぞれ異なった枝になっているが、玉として緒に通す時は、みんな一本の緒に通される。〈身分や才能がそれぞれ異なっている者に、大がかりに沢山の爵位を与えた大盤振舞いを咎めたものか〉二月二十三日、〕

9百濟遣臺久用善等進調。三月戊戌朔庚子。黄書造本實獻水■。甲寅。常陸國貢中臣部若子。長尺六寸。

【百済くたら台久用善たいくようせん等らを遣まだして進調みつきたてまつる。准うるふ三月やよひ戊戌つちのえいぬを朔つきたちとして庚子かのえね〔三日〕。黄書造きふみのみやつこの本実ほんしつ水臬みづはかりを献たてまつる。甲寅きのえとら〔十七日〕、常陸国ひたちのくに、中臣部なかとみべの若子わくごを貢たてまつる。長たけ尺六寸ひとさかあまりむき、】

〔百済くだらが台久用善だいくようぜんらを遣わして調を奉った。三月三日、黄書造本実きふみのみやつこほんじつが水はかり水準器を奉った。十七日、常陸国ひたちのくにから中臣部若子なかとみべのわくこを奉った。丈が一尺六寸。〕

10其生年丙辰。至此歳十六年也。夏四月丁卯朔辛卯。置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。

【其その生うまれてある年とし丙辰ひのえたつ〔656〕にて、此この歳とし於に至いたりて十六年ととせあまりむとせ也なり。夏なつ四月うづき丁卯きのとうを朔つきたちとして辛卯かのとう〔二十五日〕。漏剋ときのきざみ(ろうこく)を新台にひしきうてな於に置おく。始はじめて打うつに時ときを候うかがひ動うごきて鍾かねつき鼓つづみうてり。始はじめて漏剋ろうこくを用もちゐき。】

〔生まれてからこの年まで十六年である。夏四月二十五日、漏刻ろこく水時計を新しい台の上におき、はじめて鐘、鼓を打って時刻を知らせた。〕

11此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也。云々。是月。筑紫言。八足之鹿生而即死。五月丁酉朔辛丑。

【此この漏剋ろうこく者は天皇すめらみことの皇太子ひつぎのみこに為ましましし時とき、始はじめて親みづから製造つくれる所ところ也なり云々しかしか。是この月つき、筑紫つくしの言まをさく「八やつの足あし之の鹿か生うまれ而て即すなはち死しにつ」とまをす。五月さつき丁酉ひのととりを朔つきたちとして辛丑かのとうし〔五日〕。】

〔この漏刻ろこくは天皇がまだ皇太子であった時に、始めて自分でお造りになったものであるという。云々。この月に、筑紫国ちくしのくにから、「八本足の鹿が生まれて、間もなく死んでしまいました。」と言ってきた。五月五日、〕

12天皇御西小殿。皇太子。群臣侍宴。於是再奏田■。六月丙寅朔己巳。宣百濟三部使人所請軍事。庚辰。

【天皇すめらみこと西小殿にしのこどのに御おほましまして、皇太子ひつぎのみこ群臣まへつきみたち宴うたげに侍はべり。是ここ於に、再ふたたび田儛たのまひを奏すすめまつる。六月みなづき丙寅ひのえとらを朔つきたちとして己巳つちのとみ〔六日〕。百済くたらの三部さむほうの使人つかひの軍事いくさのことを請ねがひてある所ところに宣のたまふ。庚辰かのえたつ〔十五日〕、】

〔天皇は西の小殿にお出でになり、皇太子や群臣まえつきみは宴席に侍った。ここで田舞たまいが二度演じられた。六月四日、百済くだらの三部の使者が要請した軍事について仰せ事があった。十五日、〕

13百濟遣眞子等進調。是月。以栗隈王爲筑紫帥。』新羅遣使進調。別獻水牛一頭。山鷄一隻。秋七月丙申朔丙午。

【百済くたら羿真子けいしんし等らを遣まだして進調みつきたてまつる。是この月つき、栗隈王くりくまのおほきみを以もちて筑紫率つくしのかみと為なす。新羅しらき使つかひを遣まだして進調みつきたてまつる、別ことに水牛すいぎう一頭ひとつ山鶏やまどり一隻ひとつを献たてまつる。秋あき七月ふみづき丙申ひのえさるを朔つきたちとして丙午ひのえうま〔十一日〕。】

〔百済が羿真子げいしんしらを遣わして調を奉った。この月、栗隈王くるくまのおおきみを筑紫率つくしのかみ大宰帥とした。新羅が使者を遣わして調を奉った。別に水牛一頭、山鶏やまどり一羽を奉った。秋七月十一日、〕

14唐人李守眞等。百濟使人等並罷歸。八月乙丑朔丁卯。高麗上部大相可婁等罷歸。壬午。饗賜蝦夷。

【唐人たうのひと(もろこしのひと)李守真りしゆしん等ら百済使人くたらのつかひ等ら並ならびに罷まかり帰かへる。八月はつき乙丑きのとうしを朔つきたちとして丁卯ひのとう〔三日〕。高麗こまの上部じやうほう大相可婁たいしやうかる等ら罷まかり帰かへる。壬午みづのえうま〔十八日〕、蝦夷えみしに饗賜あへしたまふ。】

〔唐人李守真らと、百済の使者らは共に帰途についた。八月三日、高麗こまの上部大相可婁じょうほうたいそうかるらが帰途についた。十八日、蝦夷えみしに饗応きょうおうされた。〕

8天智天皇崩御

1九月。天皇寢疾不豫。〈或本云。八月天皇疾病。〉冬十月甲子朔庚午。新羅遣沙■金萬物等進調。辛未。

【九月ながつき、天皇すめらみこと寝疾不予みやまひしたまふ〈或本あるふみに、八月はつきに天皇すめらみこと疾病みやまひしたまふと云いふ〉。冬ふゆ十月かむなづき甲子きのえねを朔つきたちとして庚午かのえうま〔七日〕。新羅しらき沙飡ささん金万物こむもんもつ等らを遣まだして進調みつきたてまつる。辛未かのとひつじ〔八日〕、】

〔九月、天皇が病気になられた。冬十月七日、新羅しらぎが沙サン金万物ささんこんまんもつらを遣わして調を奉った。八日、〕

2於内裏開百佛眼。是月。天皇遣使奉袈裟。金鉢。象牙。沈水香。栴檀香。及諸珍財於法興寺佛。庚辰。

【内裏おほうち於に百ももはしらの仏ほとけの眼みめを開あけまつる。是この月つき、天皇すめらみこと使みつかひを遣たてまだしたまひて袈裟けさ金鉢くがねのはつ象牙きさのき沈水香ぢむすいかう栴檀香せんだんかう及およびに諸もろもろの珍財たからを法興寺ほふこうじの仏ほとけ於に奉たてまつりたまふ。庚辰かのえたつ〔十七日〕、】

〔内裏で百体の仏像の開眼供養かいげんくようがあった。この月、天皇が使者を遣わして、袈裟けさ、金鉢こがねのはち、象牙ぞうげ、沈水香じんこう、栴檀香せんだんこうおよび数々の珍宝を、法興寺ほうこうじ飛鳥寺の仏に奉らせられた。十七日、〕

3天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥内。詔曰。朕疾甚。以後事屬汝。云々。於是再拜稱疾固辭不受曰。

【天皇すめらみことが疾病みやまひ弥いよよ留とどまれり。勅みことのりして東宮ひつぎのみこを喚めしたまふ。臥内みねや(おほとの)に引ひき入いれたまひて、詔おほせごとして曰のたまひしく「朕わが疾みやまひ甚はなはだし、以もちて後のちの事こと汝いましに属つけたまふ云々しかしか」とのたまひき。是ここ於に、再拝をろがみて疾やまひと称まをして固かたく辞いなびて、不受うけまつりたまはずて曰まをしたまひしく】

〔天皇は病が重くなり、東宮大海人皇子おおあまのみこを呼ばれ、寝所に召されて詔みことのりし、「私の病は重いので後事をお前に任せたい。」云々と言われた。東宮大海人皇子おおあまのみこは病と称して、何度も固辞して受けられず、〕

4「請奉洪業付屬大后。令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家脩道。」天皇許焉。東宮起而再拜。便向於内裏佛殿之南。

【「請ねがはくは、洪業あめのしたを奉たてまつりて大后おほきさきに付属つけたまひて、大友王おほとものみこをして諸政もろもろのまつりごとを宣のべ奉たてまつら令しめたまへ。臣やつかれの請願こひねがはくは、天皇すめらみことが為みために奉たてまつりて出家いへでして修道をこなひしまつらむ」とまをしたまひき。天皇すめらみこと焉ここに許ゆるしたまふ。東宮ひつぎのみこ起たち而て再拝をろがみたまふ。便すなはち内裏おほとのの仏殿ほとけのみあらか之の南みなみ於に向むかひて、】

〔「どうか大業は大后皇后にお授け下さい。そして、大友皇子おおとものみこに諸政を行なわせてください。私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います。」と言われた。天皇はこれを許された。東宮は立って再拝した。内裏の仏殿の南にお出でになり、〕

5踞坐胡床剃除鬢髮。爲沙門。於是天皇遣次田生磐送袈裟。壬午。東宮見天皇、請之吉野脩行佛道。天皇許焉。

【胡床あぐらに踞坐しりうたげて、鬢髮かみ(ひげかみ)を剃除そりて、沙門ほふしと為なりたまふ。是ここ於に、天皇すめらみこと次田生磐すきたのいくいはを遣つかはして袈裟けさを送おくらしめたまふ。壬午みづのえうま〔十九日〕、東宮ひつぎのみこ天皇すめらみことに見まみえて請ねがはくは吉野よしのに之ゆきて仏道ぶつだうを修行をこなひ(をこなひせむとまをしたまひて)、天皇すめらみこと焉ここに許ゆるしたまふ。】

〔胡床に深く腰かけて、頭髪をおろされ、沙門さもんの姿となられた。天皇は次田生磐すぎたのおいわを遣わして袈裟を送られた。十九日、東宮は天皇にお目にかかり、「これから吉野に参り、仏道修行を致します。」と言われた。天皇は許された。〕

6東宮即入於吉野。大臣等侍送。至菟道而還。十一月甲午朔癸卯。對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。

【東宮ひつぎのみこ、即すなはち吉野よしの於に入いでませり。大臣おほまへつきみ等たち侍はべり送おくりて菟道うぢに至いたり而て還かへりつ。十一月しもつき甲午きのえうまを朔つきたちとして癸卯みづのとう〔十日〕。対馬国つしまのくにの司つかさ使つかひを筑紫つくしの大宰府おほみこともちのつかさ於に遣まだして、言まをさく、「1月生つきたちて二日ふつか。】

〔東宮は吉野よしのに入られ、大臣おおおみたちがお仕えし宇治うじまでお送りした。十一月十日、対馬国司つしまのくにのみこともちが使者を大宰府だざいふに遣わして、「今月の二日に、〕

7沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務■等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。

【沙門ほふし道久だうく、筑紫君つくしのきみ薩野馬さつやま、韓嶋勝からしまのかつの娑々ささ、布師首ぬのしのおびと磐いはの四人よたり、唐たう(もろこし)従ゆ来まゐきて曰まをせらく『2唐国たうのくに(もろこしのくに)が使人つかひ郭務悰くわくむそう等ら六百人むほたり、送使おくりつかひ沙宅孫登さたくそんとう等ら一千四百人ちあまりよほたり、】

〔沙門道久どうく、筑紫君薩野馬つくしのきみさちやま百済救援の役で唐の捕虜となった、韓島勝裟婆からしまのすぐりさば、布師首磐ぬのしのおびといわの四人が唐からやってきて、『唐の使者である郭務惊かくむそうら六百人、送使の沙宅孫登さたくそんこうら千四百人、〕

8合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。「今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。」

【総すべ合あはせて二千人ふたちたりの乗のれる船ふね四十七隻よそあまりななふな、倶ともに比智嶋ひちしま於に泊はつ。之こを相あひ謂かたらひて曰いひしく「今いま吾輩われらが人船ひとふね数衆あまたなりて、忽然たちまちに彼そこに到いたれり。恐おそるらくは彼かの防人さきもり驚駭おどろきおぢて射ゆみいて戦たたかはむことをおそりまつる。乃すなはち道久だうく等らを遣まだして預あらかじめ稍やくやく来朝まゐきて之ある意こころを披陳ひらきまをさむ」とかたらひき』とまをせり」とまをす。】

〔総計二千人が、船四十七隻に乗って比知島ひちしまに着きました。語り合って、今、我らの人も船も多い。すぐ向こうに行ったら、恐らく向うの防人さきもりは驚いて射いかけてくるだろう。まず道久どうくらを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることに致しました』と申しております。」と報告した。〕

9丙辰。大友皇子在内裏西殿織佛像前。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。

【丙辰ひのえたつ〔二十三日〕、大友皇子おほとものみこ内裏おほうちの西殿にしのとのの織仏像おりもののほとけのみかたの前みまへ於に在まします。左大臣ひだりのおほまへつきみ蘇我赤兄臣そがのあかえのおみ、右大臣みぎのおほまへつきみ中臣なかとみの金くがね(かね)の連むらじ蘇我そがの果安はたやすの臣おみ、巨勢こせの人ひとの臣おみ、紀きの大人うしの臣おみ焉ここに侍はべり。】

〔二十三日、大友皇子おおとものみこは内裏の西殿の織物の仏像の前におられた。左大臣ひだりのおとど蘇我赤兄臣そがのあかえのおみ、右大臣みぎのおとど中臣金連なかとみのかねのむらじ、蘇我果安臣そがのはたやすのおみ、巨勢人臣こせのひとのおみ、紀大人臣きのうしのおみが侍っていた。〕

10大友皇子手執香鑪先起誓盟曰。「六人同心奉天皇詔。若有違者。必被天罸。云々。」於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起。

【大友皇子おほとものみこ、手みてに香鑪かうろを執とりたまひて、先さきに起たちて誓盟ちかひしたまひて曰いはく、「六人むたり心こころを同ひとしくして天皇すめらみことが詔みことのりを奉うけたまはる。若もし違たがへて有あら者ば必かならず天罰あまつつみを被かがふらむ、云々しかしか」と誓ちかひしたまふ。是ここ於に、左大臣ひだりのおほまへつきみ蘇我赤兄臣そがのあかえのおみ等ら、手てに香鑪かうろを執とりて、隨したがひ次つぎ而て起たちて、】

〔大友皇子おおとものみこは手に香鑪こうろをとり、まず立ち上って、「六人は心を同じくして、天皇の詔みことのりを承ります。もし違背することがあれば、必ず天罰を受けるでしょう。」云々とお誓いになった。そこで左大臣ひだりのおとど蘇我赤兄そがのあかえらも手に香爐こうろを取り、〕

11泣血誓盟曰。「臣等五人。隨於殿下奉天皇詔。若有違者。四天王打。天神地祇亦復誅罸。卅三天證知此事。

【泣血なきて誓盟ちかひて曰いへらく「臣等やつがれども五人いつたり殿下きみ於が天皇すめらみことが詔みことのりを奉うけたまはる隨まにまに、若もしや違たがへて有あら者ば四天王してんわう打うたむ、天神あまつかみ地祇くにつかみ亦復また誅罰つみなはむ。三十三天さむじふさむてん証あきらけく此この事ことを知しりたまひて、】

〔順序に従って立ち上り涙を流しつつ、「臣おみら五人は殿下と共に、天皇の詔みことのりを承ります。もしそれに違うことがあれば、四天王が我々を打ち、天地の神々もまた罰を与えるでしょう。三十三天仏の守護神たちも、このことをはっきり御承知おきください。〕

12子孫當絶。家門必亡。云々。」丁巳。近江宮。從大藏省第三倉出。壬戌。五臣奉大友皇子盟天皇前。

【子孫あなすゑ当まさに絶たへて家門いへ必かならず亡ほろぶべし、云々しかしか」とちかへり。丁巳ひのとみ〔二十四日〕、近江宮ちかつあふみのみやに災やくるわざはひあり、大蔵省おほくらのつかさの第三つぎてのみつの倉くら従より出いづ。壬戌みづのえいぬ〔二十九日〕、五臣いつたり大友皇子おほとものみこを奉いただきまつり(ゐまつり)て、天皇すめらみことが前みまへに盟ちかひまつる。】

〔子孫もまさに絶え、家門も必ず滅びるでしよう。」云々と誓いあった。二十四日、近江宮おうみのみやに火災があった。大蔵省おおくらしょうの第三倉から出火したものである。二十九日、五人の臣は大友皇子おおとものみこを奉じて、天皇の前に誓った。〕

13▼是日。賜新羅王絹五十匹。■五十匹。綿一千斤。韋一百枚。十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。癸酉。殯于新宮。于時童謠曰。

【是この日ひ、新羅王しらきわう(しらきのこにきし)に、絹きぬ五十匹いそむら絁ふときぬ五十匹いそむら綿わた一千斤ちはかり韋おしかは(をしかは)一百枚ももひらを賜たまふ。十二月しはす癸亥みづのとゐを朔つきたちとして乙丑きのとうし〔三日〕。天皇すめらみこと近江宮ちかつあふみのみや于に崩ほうず(かむあがりしたまふ)。癸酉みづのととり〔十一日〕、新宮にひみや于に殯もがりしまつる。時とき于に、童謡わざうたありて曰いはく。】

〔この日、新羅王しらぎおうに、絹五十匹、絁ふとぎぬ五十匹、綿一千斤、なめし皮一百枚を賜わった。十二月三日、天皇は近江宮おうみのくにで崩御された。十一日、新宮で殯もがりした。この時、次のような童謡わざうたがあった。〕

14美曳之弩能。曳之弩能阿喩。阿喩擧曾播。施麻倍母曳岐。

【美曳之弩能みえ乙しの甲の乙、曳之弩能阿喩え乙しの甲の乙あゆ、阿喩挙曽播あゆこ乙そ乙は、施麻倍母曳岐しまへ乙もえ乙き、】

〔吉野みえしぬの鮎こそは、島の辺りにいるのもよかろうが、〕

15愛倶流之衛。奈疑能母縢。制利能母縢。阿例播倶流之衞。〈其一〉

【甲愛倶流之衛え甲くるしゑ、奈疑能母騰なぎ乙の乙もと乙、制利能母騰せりの乙もと乙、阿例播倶流之衛あれはくるしゑ。〈其一そのひとうた〉】

〔私はああ苦しい、水葱なぎの下、芹せりの下にいて、ああ苦しい。〈その一〉〕

16於彌能古能。野陛能比母騰倶。比騰陛多爾。伊麻■藤柯禰波。美古能比母騰矩。〈其二〉

【野陛能比母騰倶や甲へ甲の乙ひ甲もと乙く、比騰陛多爾ひ甲と乙へ甲だに、伊麻拕藤柯泥波いまだと乙かねば、美古能比母騰矩みこ甲の乙ひ甲もと乙く。〈其二そのふたうた〉】

〔臣下おみのこの私が、自分の紐を一重すらも解かないのに、御子は御自分の紐をすっかりお解きになっている。〈その二〉〕

17阿箇悟馬能。以喩企波々箇屡。麻矩儒播羅。奈爾能都底擧騰。多■尼之曳鶏武。〈其三〉

【阿箇悟馬能あかご甲まの乙、以喩企波々箇屢いゆき甲はばかる、麻矩儒播羅まくずはら、奈爾能都底挙騰なにの乙つてこ乙と乙、多拕尼之曳鶏武ただにしえ乙け甲む。〈其三〉】

〔赤駒あかごまが行きなやむ葛くずの原、そのようにまだるこい伝言などなされずに、直接におっしゃればよいのに。〈その三〉(天智天皇てんちてんのう崩御後の、皇位継承の争いを諷ふうしたものか。一は吉野よしのに入った大海人皇子おおあまのみこの苦しみ。二は吉野方よしのがたの戦争準備の成ったこと。三は近江方おうみがたと吉野方よしのがたの直接の交渉を勧めるものか。)〕

18己卯。新羅進調使沙金萬物等罷歸。是歳。讚岐國山田郡人家有鶏子四足者。又大炊省有八鼎鳴。或一鼎鳴。或二或三倶鳴。或八倶鳴。

【己卯〔十七日〕、新羅しらきの進調みつきたてまつる使つかひ沙飡さきん金万物きむもんもつ等ら罷まかり帰かへる。是この歳とし、讃岐国さぬきのくにの山田郡やまだのこほりの人ひとの家いへに雞子とりのこ有ありて四よつの足あら者ば、又また大炊おほひのつかさに八やつの鼎かなへ有ありて鳴なる。或あるは一ひとつの鼎かなへ鳴なる、或あるは二ふたつ或あるは三みつ倶ともに鳴なる、或あるは八やつ倶ともに鳴なる。】

〔十七日、新羅しらぎの調を奉る使者の沙サン金万物ささんこんまんもつらが帰途についた。この年、讃岐国さぬきのくにの山田郡やまだのこおりの人の家に、四本足のひよこが生まれた。また、宮中の大炊察おおいりょうに、八つの鼎かなえ儀式用の釜があり、それがひとりでに鳴った。ある時は一つ鳴り、ある時は二つ、ある時は三つ一緒に鳴った。またある時は八つ共一緒に鳴った。〈宮中の不吉の兆しを思わせる。〉〕