日記を書いているときにふと思いました。感覚的な話でわかりにくいかもしれませんが、お読みいただければ嬉しいです。
自分が身につけた知識の多くは、鎧兜に喩えることができるのではないか?。職業を遂行するために必要な知識は武士の鎧や兜のようなものではないか?。その知識は戦場に向かうときには武器だが、戦場に出なければ単なる飾り。いっぽう、自分が生きている限りさまざまな場面で活用できる知識も、少なからずあるとも思います。「鎧兜のような知識」と対比すれば、「血肉のような知識」と言えると思います。鎧兜のような知識は、スポーツ選手が競技用に身につけた筋肉のようであり、血肉のような知識は、その人の基礎体力を形づくる筋肉に喩えることができそうです。2つの違いは、特定目的に合わせて特殊に発達したのか、それとも汎用の目的に活用できるバランスを保って発達したものなのかの違いのように思います。
私たちは、職業を通じて、社会の分業体系の一部をにないます。ある職業に就くためには、職業に応じた専門的な知識や技能、執務態度などを身につける必要があります。資格という形でそれが求められる職業も少なくありません。また、その知識や技能、執務態度などを身につける訓練期間が長ければ長いほど高度な職業だと見なされているようです。
筆者は会社員として20年ほど、コンサルタントとして35年ほど働きました。そのうち45年ほどは人事系の仕事に従事しました。その時々の人事上の課題に対応するために、人事分野の古典的な知識から最新の知識まで、幅広く継続的に知識習得をしてきました。つまり、その時々に必要な知識を特定の分野で身につけ続けることを続けてきました。コンサルタントを職業とする限り、クライアント企業さんの抱える問題を解決するスキルを高めることが、自分が社会で役立つことでもあったわけです。
昨年、筆者は、コンサルタントの仕事を店じまいました。つまり、人事に関する知識を役立てる機会は、すっかりなくなりました。このため、人事に関する知識を獲得する努力も、する気がなくなりました。鎧兜を脱ぎ、戦いに出かけることもなくなったわけです。
店じまいをしてからやりたくなったことは、過去に学びかけては挫折した知識の学び直しです。お隣の国であり、漢字文化圏の言葉であるハングルを学びたい、日本人の生き方に大きな影響を与えた儒学や仏教の思想を学びたい、ずっと取り組んできているヨガをもう少し深く学びたいといったことです。こちらの知識は何かの役に立つものではなさそうです。単なる自己満足だともおもいます。ただ、それを学ぶことが、自分の栄養となり、自分自身の血肉を形づくるような気持ちがします。
たぶん、鎧兜を脱いだときに血肉になる知識を求めているのだろうと思っています。