母は三日ほど前まで自転車に乗って買い物に行っていた。
その日も自身で病院に行き検診の結果を聞いたそうだ。
喘息の持病があるもののいつも元気に振舞っていたので、一人暮らしが快適という言葉に
すっかり油断していた。本人さえも・・・
東京にいる兄嫁がかけた何度かの電話、やっと取った受話器。
異変に気づき兄からの電話。すぐに大阪に行って欲しい。
すぐに私も母に電話、どうしたの?すぐに行くよ!!
帰ってきた言葉は、明日でいいよ。
けど胸騒ぎ、1時間ほどで到着、大阪に住むおばが駆けつけてくれていた。
救急車で搬送してもらい緊急入院。
それでもそんなに深刻な状態になっていたとは思わなかった。
11月8日深夜のことだった。
翌朝1枚のレントゲン写真を見せられ、肺炎による喘息の発作とレベル4の心肥大
いつ急変があってもおかしくない。肺の正常な部分が少ししかない状態で
心不全や脳梗塞も懸念されるとのことだった。
とにかく肺炎を叩くため強い抗生剤とホルモン剤の投与が始まった。
途切れない点滴と多数の飲み薬。
それでも生きることに前向きだった。
24日には甥の結婚式がミラコスタであり、その頃は見た目多少回復したかに見えたので
母の付き添いは代わってもらい上京することも出来た。
異変が起きたのは30日のことだった。久しぶりに見た母は発熱、顔色も悪く
すっかり気力も失せてしまっていた。
ホルモン剤の投与に限界がきて停止、それによるうつ状態ではないかという看護師長の個人的な話。
主治医の見解説明を翌日聞く。
状態としては血圧が下がってきていること、尿が極端にでにくくなっていること。
それによる下肢の浮腫がひどいこと。
その治療としては利尿剤を使うと血圧が下がる可能性があるため昇圧剤を点滴投与しながら
量を見ながら投与するというものだった。
12月7日から個室に移れた。周りを気にすることなく泊まり込みの付き添いも出来る。
姉、母の妹、兄嫁、そして私の4人のローテーション、こんな時は女子力発揮だ。
血圧はある程度安定し尿も若干ふえた。
意識レベルはしっかりしているものの、いつも不安はつきまとう。
会わせてあげたい人、会いたいであろう人に順に連絡し、思いつく人たちに会ってもらった。
痛みはがだんだん強くなってきたみたいで、決して痛いとは言わないけれど
眠れなく、辛そうだった。
楽にしてあげたい、皆そう思った。
けれど治療の一環だと思っていた昇圧剤は一度付けると外せない、それは殺人行為だと言われた。
結局本人や家族が望んでいない延命治療をしてしまったようだ。
モルヒネはがん患者にしか使用は許可されていないという。
10日辛い選択ではあったが、せめて眠ることで痛みが少しでも和らげることが出来るなら
ということで、今まで投与されていた睡眠剤と鎮痛剤の点滴の投与をすこし早めてもらうことになった。
多分眠りについたらもう目覚めることはないだろうけど、痛みの苦しみからは解放される。
植物人間になる可能性もあるとも言われたけれど、ただただ楽にしてあげようと皆で決めた。
本人も何度ももういいからと、サインを出していたけど見て見ぬふりをしていたけれど・・・
その夜の付き添いは私だった。母は眠ろうとするが痛みで目覚めるようだ。
私に出来ることは唇を濡らしてあげることと背中や足を軽くさすってあげることと、手を握って
あげることくらい。少しベットから離れると目を開けて人をさがす。
居るよ!を言うと帰って寝なさい!と言う。やっぱりお母ちゃんやなあって思う。
朝が来た。
交代の時間。朝になって少し眠る時間が増えてきた。
一睡も出来なかったが全然眠気もこないので、思い切って神戸に一時帰宅
翌日家を出ようとした時に早く来なさいとのこと
どんなふうに運転したのか覚えていない。
病室のドアを開けた、間に合わなかった・・・
2012年12月12日水曜日12時02分母永眠 享年91歳
1ヶ月の入院で子供たちにさほどの親孝行もさせず
らしさ満載の見事な最期だった。
いつまでもあると思うな・・・本当にそう思う。
その日も自身で病院に行き検診の結果を聞いたそうだ。
喘息の持病があるもののいつも元気に振舞っていたので、一人暮らしが快適という言葉に
すっかり油断していた。本人さえも・・・
東京にいる兄嫁がかけた何度かの電話、やっと取った受話器。
異変に気づき兄からの電話。すぐに大阪に行って欲しい。
すぐに私も母に電話、どうしたの?すぐに行くよ!!
帰ってきた言葉は、明日でいいよ。
けど胸騒ぎ、1時間ほどで到着、大阪に住むおばが駆けつけてくれていた。
救急車で搬送してもらい緊急入院。
それでもそんなに深刻な状態になっていたとは思わなかった。
11月8日深夜のことだった。
翌朝1枚のレントゲン写真を見せられ、肺炎による喘息の発作とレベル4の心肥大
いつ急変があってもおかしくない。肺の正常な部分が少ししかない状態で
心不全や脳梗塞も懸念されるとのことだった。
とにかく肺炎を叩くため強い抗生剤とホルモン剤の投与が始まった。
途切れない点滴と多数の飲み薬。
それでも生きることに前向きだった。
24日には甥の結婚式がミラコスタであり、その頃は見た目多少回復したかに見えたので
母の付き添いは代わってもらい上京することも出来た。
異変が起きたのは30日のことだった。久しぶりに見た母は発熱、顔色も悪く
すっかり気力も失せてしまっていた。
ホルモン剤の投与に限界がきて停止、それによるうつ状態ではないかという看護師長の個人的な話。
主治医の見解説明を翌日聞く。
状態としては血圧が下がってきていること、尿が極端にでにくくなっていること。
それによる下肢の浮腫がひどいこと。
その治療としては利尿剤を使うと血圧が下がる可能性があるため昇圧剤を点滴投与しながら
量を見ながら投与するというものだった。
12月7日から個室に移れた。周りを気にすることなく泊まり込みの付き添いも出来る。
姉、母の妹、兄嫁、そして私の4人のローテーション、こんな時は女子力発揮だ。
血圧はある程度安定し尿も若干ふえた。
意識レベルはしっかりしているものの、いつも不安はつきまとう。
会わせてあげたい人、会いたいであろう人に順に連絡し、思いつく人たちに会ってもらった。
痛みはがだんだん強くなってきたみたいで、決して痛いとは言わないけれど
眠れなく、辛そうだった。
楽にしてあげたい、皆そう思った。
けれど治療の一環だと思っていた昇圧剤は一度付けると外せない、それは殺人行為だと言われた。
結局本人や家族が望んでいない延命治療をしてしまったようだ。
モルヒネはがん患者にしか使用は許可されていないという。
10日辛い選択ではあったが、せめて眠ることで痛みが少しでも和らげることが出来るなら
ということで、今まで投与されていた睡眠剤と鎮痛剤の点滴の投与をすこし早めてもらうことになった。
多分眠りについたらもう目覚めることはないだろうけど、痛みの苦しみからは解放される。
植物人間になる可能性もあるとも言われたけれど、ただただ楽にしてあげようと皆で決めた。
本人も何度ももういいからと、サインを出していたけど見て見ぬふりをしていたけれど・・・
その夜の付き添いは私だった。母は眠ろうとするが痛みで目覚めるようだ。
私に出来ることは唇を濡らしてあげることと背中や足を軽くさすってあげることと、手を握って
あげることくらい。少しベットから離れると目を開けて人をさがす。
居るよ!を言うと帰って寝なさい!と言う。やっぱりお母ちゃんやなあって思う。
朝が来た。
交代の時間。朝になって少し眠る時間が増えてきた。
一睡も出来なかったが全然眠気もこないので、思い切って神戸に一時帰宅
翌日家を出ようとした時に早く来なさいとのこと
どんなふうに運転したのか覚えていない。
病室のドアを開けた、間に合わなかった・・・
2012年12月12日水曜日12時02分母永眠 享年91歳
1ヶ月の入院で子供たちにさほどの親孝行もさせず
らしさ満載の見事な最期だった。
いつまでもあると思うな・・・本当にそう思う。