若いころある漫画に感動して、熱い気持ちで参考文献も考察もせず、書評という名の便所の落書きを、ある同人誌に検定なしで掲載してしまい…

きちんと文学をやっていた友人に、同じく公開文章でコテンパンに諭されたことがありました。

 

私はその後…

文章を人に見られるのが怖くなり…

2か月ほど自主謹慎しました。

一切の文章を公開しなかったのです。

 
 
その友人がメーリングリスト(懐かしい)で本を勧めていたのをみて、新たな衝動に襲われ、今度はきちんと検討して、恐る恐る
書評を公開してみました。
 
かの友人から
「いいんじゃない」
との言葉をいただいた時には体中の冷や汗がひゅーっと乾いたような気がしました。
 
 
そう。
 
人に見られる場所で
何かを書くこと
それは覚悟をもって
それに見合った注意を払って
書くべきものだと
私は思っています。
 
もちろんそうでなくとも
一向にかまわないのですが…
 
わたしはそうだということです。
 
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私は祖母の幸運を紹介しました。

それには明確な意図がありました。

 

これを読んで悲しい思いをする人がいることも承知していました。

 

悲しみを新たにさせてしまったことに申し訳なさもあります。
が、今回の記事は一定の読者にそのように届くことも仕方ないと覚悟して書いています。
ご了承ください…とは言いません。

私はその石の礫を受けます。

涙を背負います。

それでもなお書きたいことが伝わることを願います。

 

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生き方は教科書には書いてありません。


医師は死に方の教育は受けていません。
 

良い死に方について医師を当てにするのは初めから違います。
死に方は自分で準備しなければならないものです。

 

そして、参考文献を探し求めなければならないのです。

文献といっても本とは限りません。

伝えられてきた民族の知恵は、大切な教科書です。

 


かつてはこの国では人々は世代間で教育をしあってきたようなものですが
今この国では…先人に教えてもらうということを忘れてしまったかのようです。

 

 

人は自然の一部。

 

「時々自然に帰る」とか「自然に触れる」という生き方は、本当は「不自然」なのです。

それが「不自然」であるということを思い出しましょう。

生き方が変わらなければ、死に方は変わらない。

我いまだ生を知らず。いずくんぞよく死を知らんや。

 

そこで、せめて「知らないものを恐れない」ために「認知症」がプレゼントされたのではないかと思うのです。

それを「幸運」と私は呼ぶのです。

 

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運に頼らず、自ら求め、知り、恐れないこと。

生きる態度を手に入れるには、覚悟がいります。

 

しかし、覚悟をできる人ばかりとは限りません。

覚悟なく、忘れえず、死を思えば恐ればかりが膨れ上がるでしょう。

それを救うのが本当の宗教心なのでしょう。

 

お金で救済を売るようなものは、宗教ではありません。

(これも繰り返し書きました)

(ただし、寺社の修繕や日々のガソリン代に充ててもらうための寄付をするのは、宗教とは関係ない「推し活」だと思います)

 

素朴な宗教心は先人から伝えられているはず。

それを自覚して実践を積むこと。

そうすれば、「良い生き方」を自然と踏むでしょう。

そして背中で次世代にそれらを伝えていくことによって、「よい死に方」をさせてもらえるでしょう。