どうでもいいって

思えるようになりたい

 

どうでもいいって

思えることが成長なんだろうか

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達磨大師は

 

梁の武帝に招かれ――

「貴僧はどんな教法をもって、衆生を済度されるのか」


「一字の教えももってきていません」

 


「朕は、即位以来、寺を建て、人を救い、写経もし、仏像もつくったが、いかなる功徳があるのだろうか」
「無功徳(むくどく)」
達磨は、さらにいい足した。
「それらのことは、みな形にあらわれた有為の善行ではあるが、真の功徳とはいえません」

 


「真の功徳とはどういうものか」
「廓然無聖(かくねんむしょう)」(からりとして何もなく、聖も賤もない)

 


武帝は声を荒げて

「朕に向かい合っている者は誰だ」といった。

達磨は
「不職(ふしき)」(知らない)
と答えただけであった。

 

達磨は金陵(南京)を去って揚子江を渡り、魏都・洛陽に行ってしまった。

 

       (『続高僧伝』水上勉訳より一部改変)

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私は

 

「いいこと」をする自分に

時々腹が立つ。

 

 

それが「いいこと」だと

思ってやっていることに

情けない思いがする。

 

 

本音を覗けば

ほめてもらいたいのだ。

それは恥ずかしいこと…

 

だって

”いいこと”だとわかって

やるならば

もう価値がない…

 

 

でも

「いつか誰かのためになりますように」

その願いも本当の気持ち…


 

 

 

「どちらでもよい」

 

 

 

ああ。

 

 

これが悟りか。

 

 

 

自分の褒められたい気持ちと

誰かを助けたい気持ちを

分け隔てなく持つことができたなら

 

こだわりを

捨てることができたなら

 

私のこころは自由になるのだ――

 

思いのままに。

 

 

 

そして

大事なものはひとつだけ

 

忘れずに

持っていよう…

 

それは、愛。