厦門で一番大きな市場に行く。

 

厦門は海に囲まれているので、とにかく魚介類の種類が豊富で、

この上なく新鮮だ。

エビはピンピンと跳ね、魚の眼は澄み、体はキラキラと光っている。

電動バイクが耳をつんざくようなクラクションを

鳴らした後で、音もなくスーッと脇を通り過ぎていく。

 

塊の肉を出刃包丁でぶった切る音や、大きな話し声、

クラクションといった喧騒が、さっきまで生きていたものたち、

これからすぐ死にゆくものたちのエネルギーと交わって、

生命のシンフォニーを奏でている。

 

店主たちは、たいがい、店番をしながら手もとのスマホをいじくる派と、

商品の下ごしらえをする派のどちらかに分かれている。

 

周りの人々とおしゃべりをしながらも、

慣れた手つきで作業がどんどん進められている。

 

野菜売りはアスパラの下の方の外皮を剥き、栗屋は渋皮までむく。

 

ニンニク売りは、指サックをつけた指先でどんどんニンニクを薄くスライスし、

すぐ料理に使えるようにする。

 

魚屋はエビの皮をむいたり、魚を処理したり。

 

逃げようとするカエルを袋に押し込めたり。

 

鶏肉屋は砂肝についている脂肪を削ぎ落としたり。

注文があれば、店先のケージに入っている鶏やアヒルを絞め、

そのまま熱湯でグラグラ煮て羽をむしる店もある。

 

 

とにかく感心したのが、熟練した手仕事のスピードと丁寧さ。

 

下ごしらえがここまできちんとされていたら、料理も楽だ。

うちの近くにあったら、毎日通ってしまうかも。

 

久しぶりの中国。

中国人といえば、バイタリティ溢るる、生活力旺盛な民族の代表だ。

 

まず、北京の国内線の検査場で前に並んでいた男性が背負っていたリュックから、

諸々の物とともに小型炊飯器が出てきたのに目を見張る。

 

同行している父曰く、「米も背負っていたし、炊飯器は赤ん坊におかゆを作るためと説明していた」らしい。

 

離乳食のパックなど、眼中にないのである。

 

 

さて、今回訪れた厦門(アモイ)でも、生活力は遺憾なく発揮されているのを

目の当たりにした。

 

厦門の旧市街の市場付近を歩いたが、街路は完全にマイワールド。

 

魚を歩道に直に置いて、鱗や内臓を取る下ごしらえをする女性たち。

 

自分の店の前だと思われるが、机と椅子を置いて悠々と食事を取る人々。

 

横道にミシン一式を置いて、修繕業を営む職人。

 

店先で棍棒を両手に持ち、太鼓を叩くように豚肉の塊をミンチにする料理人。

 

道で食器洗いをする女たち。

 

中でもインパクトがあったのは、歩道と車道にエビやら魚やらを並べて、

乾物を作っていた光景。

 

街頭が、我が家の台所にも、食卓にも、リビングにも、

我が店の厨房にもなっている。

 

うちの近所に住むおばさんは、あるスーパーに並ぶお惣菜が

むき出しになっているのが「不潔そうだから嫌だ」と言って、

そこでは買わない。

 

こんな風景見たら、おばさんはきっと卒倒するだろう。

 

えげつなかったり、うちわ贔屓が強かったり、

何かと個性が強烈でダイレクトな人々だけど。

 

道を聞いたりすると、親切にとことん教えてくれたり、

正しい方角に行くかを確認してくれたりするのであります。

 

 

 

 

生皮をなめす、という体験をした。

 

虫は苦手、動物の死骸も怖くて触れない。

そんな私が、猟師のリュウタロー君が

ネイティブドラムを作る工房にお邪魔することになった。

 

最初は見学の予定だったのだが、獲物の収穫具合などの成り行きによって、

気がついたら一人一頭分の生皮を手渡されていた。

もうやるしかない。「私」を消そう。

 

そう肚を決めて皮を手にし、海の塩水でなめすべく、皆で波打ち際に向かう。

 

肉が皮から剥がれやすくなるよう、押し洗いのようにマッサージをする。

血と肉と毛が付いている皮は、冷凍保存されていたため、

まだシャーベット状なのだが、

夏の日差しと海水でみるみるうちに解凍されていく。

 

まだ解凍しきれていないシャーベト部分が、

肩凝りで固まった筋肉のような感触だ。

「凝っているところはありませんかあ?」

と心の中でつぶやきながら、ゆっくりと硬い部分をほぐしていく。

 

生ぬるくなっていく毛皮を揉んでいるうちに、

「死骸の一部」がいつしか「生き物」のように感じられてきた。

 

海水にしばらく浸された皮を引き上げると、

カニたちが肉に喰らいついている。

 

空では、トンビが海に捨てられる肉片目当てに旋回している。

 

海と空と風と動物たちの生命の循環を感じながら、ひたすら作業に没頭する。

 

手元の毛皮には黒い点々が見え隠れする。

1週間ほど冷凍保存しても、マダニたちは死なないそうだ。

ノミのようにジャンプしてこちらに移ってこない分、まだ救いようがある。

 

しばらくしてずっしりと水を吸って重くなった皮を作業台へと運ぶ。

私のシカはオス鹿だそうで、サイズもでかいし、脂がたっぷり付いているために、両手でやっとこさ運べるくらいに重い。

 

皮を作業台に広げ、肉と脂肪、筋膜を皮を傷つけないように丁寧に剥がしていく。

左手で肉や筋膜を引っ張りつつ、

できた裂け目にナイフやハサミで細い筋を入れて筋繊維を少しずつ切っていく。

リュウ君曰く「もう、そこは愛で」やっていくしかない、根気のいる作業だ。

 

鶏肉の白い薄皮を剥ぐ感じと重なるので、途中からは料理気分になってきた。

まあ、鶏肉はあっという間で終わるし、

マダニの攻撃を交わす必要もないのだけれど。

 

お昼過ぎに始め、気づいたら、あっという間に8時間が過ぎ、

晩御飯にしよう、ということになった。

 

一番驚いたのが、お昼を食べそびれていたのに、

全くお腹が空かなかったということ。

 

幼少の頃から、遅刻しても朝ごはんをしっかり食べる派だったし、

寝食を忘れて何かに熱中するタイプでもない。

明らかに、シカの皮には命が宿っていて、

皮に向き合うことで、生命力のエネルギーをもらっていたのだ。

 

なんたって、このシカは、リュウ君が真剣勝負で仕留めたシカの皮だ。

リュウ君は、鉄砲を使わず、罠にかかった獲物を

ヤリで仕留めるという伝統的な狩猟方法を実践している。

 

罠にかかった動物と向き合い、時間を過ごしていると、

最初は警戒し、怯えている動物も、

こちらが微動だにせず風景の一部と化すと、

油断したり、リラックスしてくる。

その頃合いを見計らって、動物の苦しみや痛みを最小限にするべく、

ヤリで一発で仕留める。

 

鉄砲で仕留められた動物は、ストレスや恐怖のせいか、

どす黒い血が全身に回り、肉も臭くなるそうだ。

 

シカと見つめ合っていると、自分がシカを見つめているのか、

シカになった自分が自分を見つめているのか、

わからなくなることがあるのだという。

死を観念したシカの目は、キラキラと不思議な光を放ち、

それは美しいものだそうだ。

 

リュウ君は、「死は存在しない」と言い切る。

 

死と生は一体。

そのことを理屈ではなく、身をもって毎日向き合って体感しているからこそ、

そう言い切れるのだ。

 

晩御飯には、リュウ君が冷凍保存してくれていたシカのハツを頂いた。

シカは草食なのに、全身、赤身の肉だという。

小柄なメスでも2メートルは軽々という驚異のジャンプ力を持つ。

そんなシカの体を動かしている要である、心臓を食べるのだ。

 

初めて口にするシカのハツは、今まで食べたどんな肉とも違っていた。

味が、ということではなく。

なんというか、死んでいる感じがしなくて、生き物を口にしているようだったのだ。

「すごく元気になりますよ」と言われたが、元気どころでなく、

一緒に行った友人はその夜、明け方までなかなか寝付けなかったほど

パワーをもらったという。

 

私たちが何かを食べる時は、食べ物自体だけでなく、

その食べ物の持つエネルギーを体内に取りこんでいる。

カロリーが高くてもエネルギーの低い食べ物もあるし、その逆もある。

 

私たちは普段、死んでいるものを食べ、生きている。

つまり、死を体の中で生のエネルギーに変換している。

生→死→生の中にエネルギーの変換がある。

 

エネルギーを変換する、ということならば、それは食べ物からでなくとも良いのだ。

死を取り込み、生に変えるということは、食べることだけではない。

ここに生命の循環のサイクルがあり、その意味で生と死は表裏一体だ。

 

皮なめしでお腹が空かなかったのは、

気分が悪くなって食欲を失ったというのではなく、

お腹がずっと満たされている感じだったのだ。

 

生きることと死ぬこと。

人工的な世界で暮らしていて、死のことを見ない、見えない場合、

頭の中の概念の世界だけにいると、生死の体験が薄くなる。

 

今という瞬間をどれだけ感じているかが鍵だ。

 

「死は存在しない。生きる世界が変わるだけだ」

ードゥワミッシュ族の格言