来月で親父が居なくなり3年(T^T)

遺された家族は未だに辛くて仕方無い(T^T)

愛すべき好々爺やった親父♥

行く所々のオバ様達のファンクラブが出来る程♥(笑)


昭和5年この世に生を受けた。

高麗橋で材木商を営んでいた大商人の御先祖様と曾祖父の元で「超ぼんぼん」として育った。

16歳の時に満州鉄道青年技術団として満州に終戦迄派遣された。

食べて行く為に人に迷惑掛ける事無く悪さをしてたそうな(笑)

近くに731部隊の駐屯地があったと聞いた(;°;ω;°;)

突如ロシア軍が参戦し満州に進行して来て、まだ子供の年齢だったのか酷い扱いは受けずに済んだ。

「終戦69年ドラマ特別企画遠い約束~星になったこどもたち」の中でロシア兵が「時計を持っていれば寄こせ」との下りがあった。

親父からも同じ事を聞いてた。

乾パンに入ってる「金平糖」だけをポケットに入れていたのを「ダワイダワイ(寄こせ)」と言われ、親父達は「パピロース‼パピロース‼(タバコ寄こせ)」とやり取があったそうな(笑)

出さない時は銃を向けられた事もあったそうな( ̄▽ ̄;)

満州の気温は氷点下‼

寒さを凌ぐ為にニンニクや唐辛子にウォッカを食べ呑んだそうな🧄🌶

ひもじい思いはしなかったと言ってたなぁ。

終戦直後に引き揚げ命令があったものの船が無く、暫く満州に留まるしかなく親父の面倒を見てくれてた中国人に気に入られていたので「此処に残って自分の子供になって欲しい」と言われたそうな。

満州鉄道の上層部はシベリアに抑留された方も多く、日本に帰れずシベリアでお亡くなりになった方も沢山居らっしゃる(T^T)

親父達も連れて行かれそうになったのを上層部の方が「こんな子供達を連れて行っても仕方無い‼俺達を連れて行け」と自ら抑留される申し出をしたそうな(T^T)

漢だね‼

ある日親父に旧陸軍軍人から呼び出しされ同僚達が「お前何かやったんか?」

「取り敢えず行くしか無いから行って来る」と、旧陸軍軍人の所に行くと祖父の知人だった。

「次の引き揚げ船に乗せてやるから準備しておけ」との事だった。

引き揚げ準備をして同僚達と先輩達と港迄行く途中で親父が高熱を出し「俺の事は置いていって来れ」「何を言うんや‼お前も一緒に日本に帰るんや‼」と同僚達と先輩達がガタイの大きな親父を支えながら港に向かって下さった‼

同僚達と先輩達のお陰で日本に還れたので私が居る。

同僚達と先輩達に感謝の想いで一杯です(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)

引き揚げ途中に橋があり「全員港に向かったから爆破しておこう」と爆破‼

何年か前に観たNHKのドキュメンタリーで「この橋を爆破した人達は引き揚げ途中に、迫って来るロシア軍を回避する為でしょう。余程慌てて爆破したのでしょう本来なら爆薬を此処に仕掛けるのですが、簡素に爆薬を仕掛けてますね」

この番組をたまたま観てた娘と「この橋親父達が爆破した橋やで」と大爆笑‼

録画しておけば良かった(^_^;)

親父達が引き揚げた後にまだ引き揚げて無かった同僚達が居て「橋爆破したんお前等やろ‼俺等大変やったんやぞ」と、かなり責められたそうな(笑)

命からがら引き揚げ船で日本に還ってから、曾祖父の商いを手伝ったり祖父の仕事を手伝ったり波乱万丈に過ごしたそうな。

クソババア(母)と知り合い結婚し、私が産まれて暫くして、曾祖父が亡くなり商いを祖父兄弟で受け継いだが没落...(lll-ω-)チーン‼

はい‼家屋敷全部取られ狭い団地暮らしを強いられた...(lll-ω-)チーン‼

私に何不自由無い暮らしをさせる為に良い会社に就職(๑•̀ㅂ•́)و✧ 


当時の青年技術団の方々が「機友会」を発足し、年に何回か集まり昔話に花が咲いた事、互いに責めあった事もあったそうな( ̄▽ ̄;)

親父を連れて還って来た方々に御礼と感謝の手紙を書いた。


御盆なので亡くなられた方々へ感謝の気持ちを込めしたためました

(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)

「機友会の皆様に感謝と哀悼と安らかな眠りを祈ります(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)」