ここに一枚の写真がある。

 母親と五人の子供たちが映っている。 右が母親で膝の上には末っ子の次男。真ん中で座っているのは三女で、その隣左端が次女。 その後ろが長男、そしてその隣中央に立っているのが長女、私の母親である。

 一見何でもない昭和の戦前の写真。悲しいことにこの後、母親は病で亡くなってしまう。残されたのは五人の子供達。 世は戦時下、あの恐ろしい夜が訪れることになる。

 

 中央に映っている私の母は上野黒門町の生まれ。ちゃきちゃきの江戸っ子である。昭和は始めから暗い時代であった。 母が生まれた年の二年前に、満州事変が勃発。 時代は急速に悪化の一途をたどっていった。 ついに、昭和十六年に大戦に突入。 無能な軍人と腰折れの政治家によって、日本は崩壊の道をたどっていく。戦略なき戦いの連続。 敗戦に次ぐ敗戦。何の望みもないまま、本土決戦が叫ばれた。

 その三年後、母が黒門小学校の六年生の大晦日、昭和19年の12月31日に、母の実家付近だけが空襲に見舞われた。 家は全焼。母一家は祖父(母の父親)の下の妹、母の叔母にあたる人を頼ることになった。 叔母は浜町(人形町)で置屋を営んでいた。 ここから明治座は目と鼻の先の場所だ。 ここで新年を迎えた。

 

 日増しに激しくなる空襲。ついにあの夜が訪れる。

 昭和二十年三月十日未明。下町の上空はB29に覆われた。 あたりかまわず焼夷弾が落とされた。 日常生活を送っていた平和な下町は、一面の火の海へと化していった。

子供たちを先に避難させるため、母たちは親と別々に逃げることとなった。

避難場所は明治座だ。 ところが、途中の運河にかかる橋が燃え落ち、明治座に避難することが出来なかった。

 次に、久松小学校へ。しかし、すでに中は超満員で、避難できず。 仕方なく街を彷徨った。時々何かに躓きながら・・・。よく見ると、それは焼け焦げた人間だった。 恐ろしさに足を速める。 と、目の前に防空壕に入る人々の群れがあった。 ところが、荷物を持っては入れないと言われる。 親たちと別れる時、これだけは何があっても手放すなと言われた荷物があったので、そこも断念。

 またしても、燃え上がる町の中を、彷徨った。母はたじいじな荷物を持ち、背中に一番下の弟を背負って、ふらふらになって逃げたのだ。

 迫りくる業火。遠く川向うは真っ赤になっている。やがて、こちらもそうなるだろう。 赤く燃える夜空に響くB29の爆音と、落ちてくる焼夷弾が冷たい空気を突き抜けて落ちてくる音。 そして、いたるところで炸裂する爆音。 さらに、それらの音の背後から響き渡る、人々のうめき声。この世は阿鼻叫喚に包まれていた。

 が、神は母たちを見放さなかった。偶然にも近所の紙問屋の女将さんが、母たちを目にして、防空壕に入れてくれたのだ。 この幸運によって母たちは一命をとりとめた。

 

 

                   (現在の明治座)

 あくる日、一面の焼け野原が広がっていた。至る所に、目を覆うような焼け焦げた人々が転がっていた。その向こうに流れる隅田川に浮かぶ黒々としたもの。焼死体が幾重にも重なって流れていたのだ。

 

 風の便りに明治座の全焼を聴く。親たちはそこで命果てたのか。 ゆく当てもなく子供達で彷徨っていた時、またしても幸運の神が母たちを救った。 避難場所に親の姿があったというのだ。急いで駆けつけてみると、傷ついた人々の中から親たちを認めた。

 

 あれから七十ハ年。母は今年九十歳。 幼い頃から聴いていたこの日の夜の出来事。  

 なぜ、こんなことが起きたのだろうか。 

 なぜ、母たちはこんな悲惨な体験をしなければならなかったのだろうか。 

 なぜ、戦争があったのか。 

 なぜ、罪のない庶民が犠牲にならなければならなかったのか・・・。 

 誰も答えてはくれない答えのない「なぜ」という問いは、今でも続く。 

 

 社会がデジタル化しようが、AI化しようが、リモートが普及しようが、どんなに時代が発達しようが、二度とあのような夜を起こしてはならない。

 何があっても、死守しなければならない平和。 幸い母たちは助かった。が、未だに苦しみ傷ついた人々も多い。 

 忘れ去られていく東京大空襲の日に、平和を羨望して、

               さらに、命を落とした人々の冥福うを祈って合掌。  

 

     (昨年2022年3月10日 東京都慰霊堂 墨田区)