オンギロン

オンギロン

「音声の演技」だから「音技論」です。
「声の演技」と言うと「台本の音読」だと思い込んでいる人が多いので、ちょっと違う呼び方にしてみました。
「声優志望」、「声優になりたい」という方のために。

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出典をご明記いただければ引用は自由です。無断の転用や流用はお断りいたします。
(C)2011- Bandou Naoki

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-「台詞」は全て未完成 -

「声優」には「読解力」が不可欠です。
 が、どんなに難しい漢字が読めたり長文の意味が理解できたりしても、それだけで「声優」としての実力が認められたりはしません。なぜでしょう?
「声優の読解力」と「国語の授業の読解力」は全くの別物だからです。

「国語」の教科書に例文として載るような文章はすでに「文章作品」として完成しています。

 ですから日本語が読める人だったら誰でも、何も考えずに読み上げただけでそれなりに聞く事ができます。
 ところが、「台詞」は「文章作品」ではありません。
「音楽」で言ったら「歌詞」みたいなものですから、ただ読み上げただけでは成立しません。
「声優」が「生きた人間」の言葉に戻して

 視聴者が「役」という架空の人物の存在を信じた時

 初めて「台詞」は、「ドラマ」という作品の「部品」として機能し始めるのです。

「歌詞」を「歌」にするには「メロディ」が必要なように、「台詞」を「生きた人間」の言葉に戻すのにも必要不可欠なものがあります。

 それは「しゃべる理由」です。
 

-「声優」の「読解力」-

 

「ドラマ」の世界は「現実」に比べて時間制限が厳しいので、「登場人物」に無駄なおしゃべりをさせておく余裕がありません。ですから「ドラマ」の「作者」は、進行上最適な所に「人物」を登場させ、「ドラマ」の進行に最適な言葉をしゃべらせるよう毎回頭を悩ませています。
 という事は?
「ドラマ」に登場してくる全ての「役」の「台詞」には、

 その時そこで「しゃべる理由」が必ずある、という事です。

「しゃべる理由」は「台本」には書かれていません。
 登場人物1人1人の演じ方を一々書き込んでいたら「台本」が持てないくらいブ厚くなってしまいます。また、設定段階でキャラを固めすぎると出演者の持ち味を束縛してしまうかもしれません。
「一線に出てくる声優だったら」と信頼されていればこそ、そこはあえて丸投げされているのです。

「役」を与えられた「声優」は、その期待に応えるべく、各自が責任をもって自分の「役」「人物像」を練り上げています。この、

「理由」の書かれていない文面から「理由」を読み解く力 こそが、

「声優の読解力」なのです。

-「演技」は「行動」-

「しゃべる理由」を読み解くためには、
 しゃべったらどうなったか? という「結果」から逆算するのが定石です。

 全ての「台詞」が「ドラマ」を展開させるための意味を持っているとしたら、その「台詞」には必ず何かに対する「働きかけ」が含まれているはずです。
「働きかける」というのは「何かに対して行動(リアクション)する」という事ですから、「行動」を示す品詞、つまり「動詞」に直す事ができます。
 そうです、
「登場人物」が話す「台詞」は、全て「動詞」に置き替える事ができるのです。

 その「動詞」が示す「行動(アクション)」を激しく行った結果「台詞」が飛び出てしまった、と、

 そういう心の流れを自分の中に作ってください。

 その台詞の働きかけの効果はその作品のストーリー次第ですが、とにかくその「登場人物」の存在意義、つまり「しゃべる理由」は伝えられるはずです。

-「動詞シート」の使い方 -

 

「演技」は、「台詞」から的確に読み出せる「行動(動詞)」の数が多いほど「リアル」になっていくのですが、それはつまり「役の行動」を 短時間で数多く把握できる人の方が圧倒的に有利 という事です。

 

「行動(動詞)」を読み出せない人は「演技」ができないので「声優」にはなれません。

「養成所」はできる人を選ぶ場所ですから「授業」では教えてくれません。つまり、「目指す」のも難しい という事です。

 致命的な不利を少しでも補ってと思うんだったら、もう好きな「アニメ」だけを観ている時間なんかありません。入る前に、「人間の行動パターン」をガンガン仕入れておかなくてはなりません。

 そうした練習のために試作してみたのがこの「動詞シート」です。

 ……と言っても、

 現場で実際に使われそうな「動詞」が300個ほど列記してあるだけですから大した物ではありません。本来は数十役の「キャラクター」を列記した「キャラ・シート」と言うのと組み合わせて使うのですが、最初はまず「あなたに良く似た登場人物」という設定で始めてみましょう。

 まず、
★「簡単な台詞」を決めてください。
 例えば今回は「そんな事があるとは」という「台詞」にします。
 1個の「動詞(リアクション)」が影響する長さはそれくらいです。
 また、色々な感情を乗せなくてはならないのであまり主張やクセが無い「文章」の方が良いようです。

 次に、
★「動詞シート」から適当に「動詞(リアクション)」を選んでください。
 そして、
★ あなたの選んだ「リアクション」の結果、口から飛び出してしまった台詞として「そんな事があるとは」という台詞を言ってください。

「リアクション」によっては怒鳴ったり囁いたりして構いません。また、男女の違いや役柄によって語尾やしゃべり方を少し変えても構いません。実際のレッスンで使うとこんな感じになります。



 

 もしご自分で練習してみる場合は、ちょろっとしゃべってみただけで「やった」とか「済ませた」気にならないよう注意してください。それでは何の足しにもなりません。
 必ず「録音」して、その再生が「動詞」通りに行動しているように聞こえるかどうかを判断する、そこまでがセットです。慣れるまで、「評価」は必ず信頼できる他人にお願いしてください。


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- 第2の落とし穴、「声優語」幻想 -

「しゃべるだけで色々な事をやっているように感じさせられるなんて、声優さんてホントに凄いなあと……」

 時々こんな風に持ち上げられて照れ臭い思いをする事があります。似たような感想をアニメ雑誌のインタビュー記事で見かけた事もありますから、「声優=しゃべるだけ」という思い込みは専門誌の編集者のようなプロにまで浸透しているのでしょう。
 でも、
 だからと言っていちいち「実はしゃべっているだけではなく」なんて説明する「声優」はいません。視聴者の皆さんに「作品世界」に浸っていただくためには「どうやっているか」なんて送り手側の事情は不要だからです。肉料理を出すたびに屠殺方法を説明する料理人がいないのと同じです。
 では問題は?
 その「見えない部分」を自分勝手な「空想」で埋めて目指してしまう人たちの異常な多さです。

「声優の現場」が求めているのは「音声」を聞いただけでどうやっているかが把握できるような鋭い聴感覚の持ち主なのですが、それくらい耳の良い人だと「声優の大変さ」まで聞こえてしまうのであんまり「声優」を目指してはくれません。替わりに集まって来るのは「声優」のやっている事が聞き取れていない人たちばかり……

 彼らの多くは「のんびり屋さん」「せっかち(いらち)」です。
 一見「正反対」に見える2つのタイプですが、「テンポのズレで周囲とすれ違いやすい」という点では共通しています。どちらも周囲とのコミュニケーションが途切れやすく、言いたい事はあるけれど上手く伝えられないという状態に陥りやすいのです。

「プロ」は仕事に好き嫌いを持ち込みません。しかも上手い「声優」ほど台詞に不自然さを感じさせないので、どんな「役」を演ってもまるで「本人」が言いたい事を言いたいように言っているようにしか感じられません。言いたい事が伝えきれなくて悶々としている人たちが何の予備知識も無くその様子を見ると、「自分」が言いたい事を言って上手く伝わる世界にしか見えません。だから、

 実際の仕事の内容や自分の適性を確かめもせず、闇雲に「なりたい!」に突っ走ってしまう人が多いのです。

「なりたい気持ち」だけ満々の彼らは事あるごとに「やる気」や「本気」を主張するのですが、実際の所「声優養成所」の授業にはほとんどついていけません。「声優の技術」は彼らがもっとも苦手とする「他人どうしのコミュニケーション」の延長線上にあるからです。
 当然上手く行きません。必ず行き詰まります。行き詰まった挙げ句にこんな事を言い始めます。

「声優の台詞がどこか違っている事は判っています。
 でもどこがどう違うのか判らないのでそこを教えてほしいんです」


「10」ある作業の内の「1」くらいまでしか聞こえていなかった人たちは、「2」以上に進もうとしません。その先は教えても敬遠し、何とかして自分の想定していた「1」の繰り返しで済ませようとします。
 例えば「絶対に失敗しない着回しコーデ」とか「300単語を覚えれば英語は話せる」みたいに、「自分」という最小限のアイテムを使い回して最大限魅力的に感じさせるコツがあるんじゃないかと考えてしまうのです。
 でも、
 残念ながら「声優」に「コツ」はありません。
「声優」が色々な事をやっているように感じられるのは、実際に色々な事をやっているからです。様々な条件の組み合わせに対して、各自がそれぞれのやり方で「体内」を変形させて対処しているから、「どこがどう」と判りやすく説明できるような「コツ」は無いんです。
 

 だいたい「コツ」と言うのは数々の経験則の上に浮かび上がってくる共通項の事なんですから、「コツ」だけ教わって「声優」扱いされようなんて虫のいい話は通りません。

 という事は、

 とりあえず学ばなくてはならないのは「コツ」ではなく「数」という事です。
 さて、その「数」とは、
 一体「何」の数の事なんでしょうか?

-「俳優」のシゴト -

「映画」の撮影現場や「撮影しているシーン」で監督さんが「アクション!」と叫ぶのを見た事はありませんか?
 なぜ「スタート!」じゃないんでしょう?
 撮影現場では「撮影」や「録音」がすでに「スタート」しているからです。
 様々なスタッフが作業をスタートしている先で「俳優」に作業を始めさせなくてはならないから、「俳優」に任された作業内容を直接怒鳴るのです。それが「アクション(行動)」
 という事は?
「演技 イコール 行動」という事です。

 そう考えてみると、確かに出演中の「俳優」は映っている間中「行動」し続けています。「テレビドラマ」だろうが「映画」だろうが「古典芸能」だろうが「アニメ」だろうが、この世の全ての「ドラマ」「登場人物どうしの行動の絡み合い」で成立しています。「俳優」の仕事は「行動(アクション)」だから「アクター&アクトレス」と呼ばれているんです。判りやすいですね。

 もちろん、ただ「行動」すれば良いというものではありません。行動と行動が何らかの形でつながっていないと「視聴者」は「ストーリー」を追いかける事ができません。ですから「登場人物の行動」には最低限のルールが決められています。
「登場人物(俳優)」は、
 必ず「劇中の何か」に「反応」して「行動」する事に決まっているのです。
 これは「絶対ルール」です。

 はて?
「反応」する「行動」とは何でしょう?
 それは「リアクション(reaction)」の事です。
 つまり「演技」とは、
「リアクションし続ける」という事なのです。

「声優も俳優」という言葉を聞いた事はありませんか?
 これは、「声優は台本の文章をただ読み上げているだけではなく俳優と同じように演技しているんだよ」という教えを手短にまとめた言葉なのですが、こう言われて良くなる「志望者」は滅多にいません。ほとんどの「声優志望者」は、しゃべっただけで演技した事になるコツを聴きに来ているだけだからです。
 そういう方たちにとってはまことに残念なお話なのですが、「声優」はやっぱり「俳優」ですから、「ドラマ」のために「リアクション」を提供するという仕事の流れは変わりありません。
「声優」も、「劇中の何かに反応して行動する」のが「絶対ルール」なのです。

-「お笑い」か? -

 最近「リアクション芸」というお笑い用語が浸透してきたせいか、「リアクション」と聞くと「お笑いかよ」と不満に思う人もいるようです。しかし「お笑いのリアクション」と「声優のリアクション」にそれほど大きな違いはありません。「お客さんを楽しませるために作戦を練って、その通りに肉体をこき使う」という点ではほぼ同じです。

 ただ、「お笑いのリアクション」はお客さんを笑わせるのが目的なので、「熱がる」とか「シビれる」のような、やられた様子が笑える「受動態(受け身)」のリアクションが中心になっています。
 対して「声優のリアクション」は?
「受け身」にはとどまりません。組み合わせまで入れるとバリエーションはほぼ無限に広がります。

 とりあえずどれくらいの数が必要なのか?
 具体的な例で見てみましょう。


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- 例2.全部「普通」-

 こんな光景を見ました。
 その作品は「モンスターズ・インク」みたいな世界観の海外アニメで、登場キャラクターのほとんどが「何らかの動物が変形した怪物」という設定でした。「怪物」と言っても人間と同等の知能で言葉もしゃべれるのですが、その数があまりにも膨大だったため、チョイ役のいくつかは当日出番の空いている人で割り振る事になっていたのです。

 私は本役の台詞量が多かったのでダブり役は1つだけで許してもらっていたのですが、それでも人手が足りなかった場合に備えて、若手2、3人が割り振りの打ち合わせをしているのを何となく聞いていました。すると、こんな会話が聞こえてきたのです。

A「……じゃあこの怪物5はよろしく」
B「判った」
A「コレおいしい役だと思うなー」
B「え、そう?」

「怪物5」とは、

 街角で突然現れて主人公の少年を驚かせるチョイ役です。恐ろしい姿の割には臆病で逆にビビって逃げてしまうという、確かに短い出番の割にはウケそうな役でした。

「B君」の本役は「警官P」という普通の人間で、何の特徴も無いしゃべり方が特徴みたいな「役」でした。誰が演っても同じと言っては身もフタもありませんが、そういう「役」をさらっと演じられるのも技の内。実際その後始まった「テスト」でも「B君」はさらっと普通に……、え?

 いえ、「B君」の演技は決して普通ではありませんでした。それがはっきりしたのはその後、例の「怪物5」が登場した時です。

「下手」です。「B君」は「普通」よりもずっと「下手」だったのです。

「テスト」後、真っ先に名前を呼ばれたのはやっぱり「B君」でした。「ダメ出し」の対象は「本役」ではなく「怪物5」です。「おいしい」という特徴があった分だけ、「怪物5」の方が「本役」よりも「下手さ加減」が目立ってしまったのです。

 

「あのー、怪物5はもうちょっと怪物らしくお願いできますか?」
「え? あ、はい」
「はい」と答えた割にはその後の「本番」も変わず、2回録り直しても改善が見られず、結局ディレクターが自らやって見せて、それをコピーする形で何とかその場は収まりました。

 

 それにしても、

 なぜ「B君」は「警官P」「怪物5」も全部同じように「B君の普通」でしゃべろうとしたのでしょう?

 また、 なぜ「テスト」で「違う」と言われて録り直しになってもしゃべり方を変えなかったのでしょう?
 

 それは「B君」が、

「声優」が「役」のために費やしている「読み上げる以上の努力」に全く気がついていなかったからです。

 

- 第1の落とし穴 …「普通」-
 

 彼の「台詞」には読み上げる以外の努力の痕跡が微塵も感じられませんでした。

 恐らく、「声優」という存在と遭遇した瞬間「声優本人」に目を奪われて、そこから今までずっと、「声優が駆使している技術」を知らない「視聴者目線」のままで来てしまったのでしょう。

 

 変えるように言われた時、

 もしかすると彼は自分では随分変えたつもりだったのかもしれません。が、その場にいた誰にも変えたようには聞こえませんでした。

 つまり彼は、

 自分の肉や皮膚が考えているよりもずっとブ厚くて、「一生懸命イメージした」くらいでは誰にも見えないし聞こえないという現実にも気がついていなかったのです。

 これは「声優志望者」としての問題ではありません。「社会人」としての問題です。
 

 だとしたら、
 どんなに厳しい「ダメ出し」を出しても時間の無駄です。
 当の本人に「台詞をしゃべる」以上のシゴトをするつもりが無いんですから、どこをどう叩いたって埃も出やしません。それが判ったからディレクターも適当な所で妥協するしかなかったのです。

「声優ってそんなんでもなれるんだー♪」と勘違いする人がいると厄介なので一応説明しておきます。

「B君」は正確には「声優」ではありません。

 これから落とされるかもしれない「預かり」です。そして多分もう落とされていると思います。
 理由は?
 もちろん「下手」だからです。
 

 真っ当な声優事務所だったら「演技が下手」な人間を所属させたりしません。「下手」が事務所の看板を直接傷つけるからです。

 ……え?
「なんで普通にしゃべっただけでは駄目なのか?」って?
 それはもちろん、

「声優」が普通にしゃべってはいないからです。
 

 今、

「いや普通じゃないですか。
 私たちが聞いて理解できる日本語で
 普通にしゃべっているじゃないですか」

 と思った方に申し上げます。

 もし本当に「声優の台詞」がそういう風にしか聞こえていないとしたら、

 あなたは「声優」という仕事でもっとも重要になる「耳」が弱すぎます。

-「ドラマ」の時間 -

 例えば「1年間の出来事」を「30分×1クール(12話)」で描こうと思ったら、少なくとも8倍以上のスピードでストーリーを進めなくてはなりません。もちろん「8倍速で早送り」というわけには行きませんから、方法としては「映画の予告編」のように最適なシーンを抜き出して組み合わせる事になります。

 つまり、
 全てのドラマ作品は、現実よりもはるかに「手短」にまとめられているのです。


 現実時間の数分の1という制限の中で手際よくストーリーを進めるためには?

「省略」できる所は可能な限り省略しなくてはなりません。

 例えば、「いつまで寝てんの、いい加減に起きなさい!」と言いたい所を「起床っ!」の4文字にまとめてしまうなど、最小限で説明できる単語が選び抜かれ、もっともふさわしい順番で配置されているのです。
 そんな風に研ぎ澄まされている「台詞」を「日常会話」と同じノリでしゃべってしまったらどうなるでしょう?

 意外に思われるかもしれませんが、「ささっと通りすぎてしまう」んです。

 なぜでしょう?

「研ぎ澄まされている」と言っても別に特別な単語が使われているわけではありません。言葉の選択と配置が絶妙なだけです。むしろ無駄なく整理されている分、「日常会話」のノリでサラサラしゃべってしまったら、聞いている人の脳内もサラサラと通過してしまうのです。短時間で通過してしまうから、何の印象も残らないのです。

 もし「声優」が日常会話と同じレベルで「台詞」をしゃべっていたら、あなたは登場人物の名前すら覚える事ができなかったでしょう。

-「台詞」というドラマ用の日本語 -

 毎年、数百人の入門者が「台本」に書かれた文字列をそのまま口から出しては消えています。
 彼らは自分が今まで、「声優」が調理した「調理済みの製品」しか味わっていないという現実に気がついていません。

「ああいう人がいてしゃべっている」という「視聴者」目線から離れられていないから、「自分」の口からも「調理済みの製品」があふれだしてくるような気になってしまったのです。

 

「声優」は、

「ああいう人」が「ああいう風」にしゃべっているのではありません。

 あなたが一度も会った事の無い「知らない人物」が、

 様々な技術で「変化」した結果、「ああいう風」に見えたり聞こえたりしているのです。

 

 それでは、「どんな状態」から「どれくらい変化」したのか?

 その「振り幅の情報」を身体に覚え込ませられない限り、どんなに一生懸命しゃべっても決して「ああいう風」にはなりません。

 だいたい、

「一生懸命」と言ってもほとんどの人は「頭の中」で「一生懸命のイメージ」がグルグル回っているだけです。「カラダ」が一生懸命になっていないから誰にも感じてもらえないのです。

 

「役」の役割を考えずに、ただ「自分」が売れるつもりで台詞の文章を読み上げるのは、「ドレスコードがあるパーティ会場に裸で飛び込むようなものです。どんなに「会費は払ったんだから」と主張したってつまみ出されるだけです。返金はありません。

 

 というワケで次回は、

「声優」のしゃべり方が普通じゃない事に気づいただけでプロになれると思った人が、すでに陥ってしまっている落とし穴について考えてみましょう。


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- 美味し過ぎる「断片」-

「自分」に自信が無い人は「誰かに認めてもらいたい」という「承認欲求」が強く、それが強くなりすぎると他人の意見や反論を毛嫌いするようになります。
 そうした人たちの心に、見えない仕事である「声優」はどう映るでしょう?

 ……しゃべっている……映像の向こう側……
 ……見えない……人気者……
 ……でも、自分と大して変わらない……


 美味し過ぎます

 ちらほら感じられる印象の断片があまりにも自分の理想にピッタリで美味しすぎるものだから、「声優」が何をどうしているのか? 具体的な事はまださっぱり判らない内から、まるでそこが自分のために用意された「約束の地」であるかのような錯覚に陥ってしまうのです。

 幼い子供はテレビで「ヒーロー物」を観ただけで主人公気分に完璧に没入する事が出来ます。
 経験的知識がまだ足りなくてフィクションの矛盾に気がつけないから、あと、ヒマだから、「自分の想像」だけで構築された世界観に浸りきる事が出来るのです。

 しかし、

 これは子供だけに限られた事ではありません。


 人生や社会についての知識が足りなかったり、特定の何かに集中しすぎて視野が狭くなっていたりすると、結構「大人」になってからでも同じ現象が起きてしまいます。例えば「声優」に対する「願望」が強い状態で想像を膨らませてしまったら……
 台本に書かれた文章を自分らしく読み上げるだけとか、「役名」や「台詞」などが変わると自動的に違う「役」に聞こえるとか、カッコ良い台詞をしゃべったらみんな自分の事をカッコ良いいと思ってくれるとか……
 現実離れした「トッピング錯誤」が簡単に生まれてしまいます。

 数が増えた「トッピング錯誤」は、互いに絡み合って成長し、となって「現実」を遮断し始めます。
「声優養成所」に通学するだけで、自分が自分以上に輝く魔法が身について、事務所に入れて、現場に送り込んでもらえて、素敵な映像を盾にして誰かが書いてくれた文章を読み上げて、称賛されて、ラジオやイベントに出演して……
 ……もちろん、
「声優」は現実の社会の一部ですから、

 そんな自分中心の夢想が易々と実現できるほど甘くはありません。

 実際に「養成所」でレッスンを受けたりオーディションに落ちたりすれば、大抵の人は「自分は声優という仕事について何にも知らなかった」という事実に気づきます。気がついてしまったからにはあきらめるか、猛然と努力するか?
 どちらにしても今までの考え方を大きく改めなくてはなりません。
 ところが、
 中には、
 どうしても最初の「美味しい印象」が捨てきれず、歩き続けていればいつかイメージ通りの「美味しいやり方」と出会えるのではないかと、ダラダラ「生徒」や「預かり」を繰り返してしまう人たちがいるのです。

「才能が無い」という現実を恐れる彼らは、決して自分自身の問題をふり返ろうとはしません。

 決定的なジャッジメントを先送りするためだけに、落とされても落とされても別の養成所に滑り込んだり、「あと1年続ければ」と留年し続けてしまうのです。
「自分の問題点」にちゃんと取り組まない彼らが目標に到達する事はありません。だから「ミラージュ・タイプ(MT)志望者」なのです。

- 日本語という名のブラック・ホール -



 これは「MT志望者」の錯誤の状態を表した図です。
 つまり、

 彼らはまず最初に「自分の過大評価」「声優の過小評価」という2つの大きな「判断ミス」をしているのです。「現在位置」「行き先」という2つの重要な「位置情報」が大きくズレているから、錯誤に翻弄されるばかりでいつまで頑張っても「目的地(声優)」にたどり着けないのです。
 私は、

 この2つの大きな「誤認」の間に

「同じ日本人が同じ日本語を話している」という「ブラック・ホール」みたいに強烈な引力を持った誤解があって、それが錯誤の数々を引きずり出しているのではないかと考えています。

 2つほど例を挙げてみましょう。

- 例1.「読解力」は必要ですか? -

「声優になりたい人」たちが集まる「掲示板」の書き込みには「定番」と呼んでも良いくらいたびたび書き込まれる「質問」があるのですが、中にはちょっと首をかしげてしまうようなものもあります。例えば、
「声優には読解力が必要でしょうか?」
 という質問は、その代表的なものです。

「台本(文章)」「ドラマ」に変換して大勢の人々に伝えたいという人間が、

「文章を読み取る力」の必要性を疑う……? それは、

「水泳で金メダルが欲しいんですけどやっぱり泳げた方が良いでしょうか?」

 と他人に訊いてしまうようなものです。
 

 何でそんな的外れな質問が出てきてしまうのか?
「声優」を「成功」という名の「1点」だけで見ていて、その1点にフォーカスがロックされてしまっているからです。「成功」の前後にある物は全部ぼやけていてよく見えないので「とりあえず人に聞いちゃえ」となってしまうワケです。
 ……いや、
 聞かずに飛び込んで「読解力の無さ」で消えてしまう人たちの多さを考えたら、誰かに聞くだけマシって事になっちゃうんでしょうか……?

 ちなみに、

「声優」の多くは「読書好き」です。
 プロフィールで「趣味/読書」なんて記載をあまり見かけないのは、

 本人の中では「趣味」なんて呼べないくらい「読書が当たり前」になっているからです。
 

「読書が好き」と言うのは「あらゆるタイプの文章の楽しみ方を知っている」という事です。

 自分が楽しみ方を知っているから、どんなタイプの作品(台本)を前にしても、それが音声化された時にお客さんがどう楽しむかをイメージする事ができるのです。
 

 言うまでもありませんが、

「文字」や「単語」の意味を知っているだけの状態を「読解力」とは呼びません。おもしろさを感じていない人がただ「文章」を読み上げているだけの状態を楽しんでくれる人もいません。

「文章から感情の流れを読み取って、それを的確に音声化する」のが「声優」の仕事なんですから、「読解力」が必要かどうか他人に聞かないと判らない人にはかなり難しい仕事です。

 

「心」のこもっていない「言葉」を話しただけで人の心を動かす事はできません。

 だからって、どんなに一生懸命しゃべっても駄目です。

 なぜなら、ここで言う「心」とは、「自分の気持ち」ではないからです。

 

「他人(役)」の気持ちに無関心な人に返ってくるのは、同じ量の無関心だけです。


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- なんで? -

★「小説」や「ドラマ」や「舞台」など、

  「アニメ」以外の日本語表現ジャンルにはあまり興味が無い。
★ 実際に「演技」している人間をナマで見た事はほとんどない。
★「声優になりたい」と思いつくまで「演技したい」と思った事は無い。


 ……これほどまでに「演技」に興味の無かった素人さんが、なんで急に「演技」を一生のシゴトと決めて、なんでいきなりポ~ンと「声優養成所」に飛び込んでしまうのか?

 ここ数年「上手く行かない人たち」数人との面談を重ねてきた結果、上手く行かない人たちはほぼ例外なく「声優」や「演技」という単語の意味を曲解しているという現実が見えてきました。原因は人それぞれですが、上手く行かない志望者のほとんどは共通して、「声優になりさえすれば自分の抱えている不満が万事解決する」かのような錯覚に陥っているのです。


「子供の落書き」は、子供が、頭の中で膨らませた夢を直接書き出しているだけなので、それを見ただけで同じように夢を膨らませられる人はいません。

 描いた人のイメージと、観た人の想像力の間に、共通する「接点」が無いからです。

「画家志望者」が徹底的に「デッサン」の練習をさせられるのはそのためです。現実に存在する物をリアルに描く能力が、他人も共感できる「夢」を描かせてくれるのです。

 

「演じる」ためには、

 現実に存在している人間の行動を事細かに音で再現できる能力が必須です。大勢の他人が実際に起こりうる事だとだまされてしまうような「細部のリアリティ」が山ほど必要だからです。

 それができた人の中からより「カッコいい」人が選ばれるます。最初から「自分がカッコ良く見えるように」という夢だけ追いかけて「声優」になれた人はいません。

 ところが、

「声優」という仕事は、実際に作業をしている様子を見る事ができません。

 すでに売れている「声優」と、現実の自分の違いが判りにくいから、夢を見たがっている人間にとっては、恰好の「夢工場」になってしまうのです。

 

- なぜできない? -

 最初の一歩が現実を向いていないため、いつまで経っても砂漠の「蜃気楼」のように目的地にたどり着けない「声優志望者」。それが「ミラージュ・タイプ(MT)志望者」です。

「MT志望者」は「空気を読む」のが苦手です。

 頭の中が膨らみすぎた自分の「夢」や「計画」で一杯だから、「状況判断」や「他人とのコミュニケーション」にあまり脳の力が回せないのです。普段の生活ですらそうなんですから、「ストーリー」を把握するなんて作業も本来はあまり得意ではありません。

 という事は?

「声優」を目指す以前「視聴者」としてB級という事です。

 

 彼らは「作品」を観る時、「自分の願望」を重ねながら観てしまうため、結構色々と見落としたり聞き落としたりしてしまいます。「凄い、好きだ」と言っている割には、かなり杜撰な状態でしか「鑑賞」できていない事が多いのです。

 例えば「選挙」に行った時、

「政治の事は判らないけれどこの人に任せておけば大丈夫かな」と考えて個人に投票してしまった事はありませんか?

 雑な鑑賞で何となく感動した「MT志望者」の脳内でも同じような事が起こります。自分の曖昧な感動の理由を、存在が判りやすい「声優」に集約してしまうのです。
 そういう人たちの脳裏には「エンギというシゴト」がこんな風に見えています。


[図1]


 なんせ「声優ありき」!
「声優」とはそれだけでほとんどでき上がっている存在。
「役名」や「台詞」などが変わると、それだけで様々な「役」が聞こえてくる。「役」の魅力も大部分は「声優」本人の魅力で……
 

「MT志望者」が「声優」という単語を口にする時、それが「演技のプロ」という意味で使われている事は滅多にありません。彼らにとって「声優」という単語は「ありのままの自分」を指しているのです。

 彼らが「声優」はその存在だけで光り輝いていると思い込んでしまうのは、その方が自分にとって都合が良いからです。それだったら「自分」もどこかで「声優の免許証」をもらって潜り込みさえすれば、同じように光り輝けるかもしれないからです。

 だから、自分が「演じる」事になった時も、彼らは同じようにやろうとします。


[図2]


「MT志望者」が「演技」だとj思い込んでいるこのやり方にはもっとも肝心な「役」がいません。「役」そっちのけで「認めてほしい自分」ダダ漏れになっているだけなのですが、彼ら自身は「こうするものだ」とすっかり信じ込んでしまっているので、これが恥ずかしい失敗であるとは感じません。「ダメ出し」されたら困惑するくらいです。ただ、

 彼ら自身、

 これではイメージ通りの「カッコ良さ」にはならない点は感じています。

 

 ちょっと考えてみれば判る事です。日常生活ですら「自己主張」が上手くできなくて困っていた人間が、急に「プロ」として存在を主張するなんてできるはずがありません。だから彼らは「マネ」してしまうんです。

「役」を演じている声優さんのマネをしていればとりあえず悪い評価は出ないんじゃないか?

 マネを繰り返していればその内にホンモノに近づけるんじゃないか?

 そう思い込んでお気に入りの声優さんのマネしかしない。

 これが前述した「コピー君」の生まれる原理です。

 

 この辺りは「MT志望者」でなくとも誤解している人が多いので注意してください。

「声優」のマネをしても「声優」に近づく事はできません。

 なぜならば、
「模する」にも才能や基礎技術が必要だからです。

「プロ」がある作品のある役のあるシーンのためだけに作り上げた「しゃべり方」には汎用性がありません。だから勉強のために「生徒」に与えられた課題には使えません。
 また、「志望者」のほとんどは「自分の身体をイメージ通りに動かす」事に慣れていません。だから似せようとしても自分が思い描いた通りにはならず、「自分のクセ」の方が強い変な人格になってしまうのです。それは「棒」無しで「棒高跳び」のマネをするようなものですから、練習にも余興にもなりません。
 

 とにかく、

 プロの現場で求められるのは「役」と心中するために自分の気持ちなんかゴミ箱に捨てられるような「ドライな感覚」です。そこいら辺の感覚が判らない人間は、今座っている「視聴者」の席を安易に立つべきではありません。

 

-「演技」する気は無い -

 

「MT志望者」にとって、「声優」とは「仕事」でも「商売」でもありません。満たされない自分の不安や不満を、「他人」から賞賛してもらう事で補完するための「手段」なんです。演じたいのは「本当は素敵な自分」だけであって、「他人(役)」を演じるつもりなんて実は最初っから無いんです。

 そこに「他力本願」的な甘えが加わるとこうなります。

[図3]


「声優の台詞」「役の言葉」に聞こえるのは「ふり」をしているからではありません。「本当にやっている」からです。最終的に見える表面の姿形が変えられないだけで、中味は全部「役」に明け渡しているのです。
 その状態を上の3つの図に似せて表すとこんな風になります。


[図4]


 え? 「声優」はどこかって?
 見えてるじゃないですか。ほら、ソコですよソコ。

 え?

「自分」はどこで出せばいいのかって?

 

 ……いや、だから、

 それを望んでいる人はどこにも、1人もいないんですってば。


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- 群盲象を評す -

「群盲象を評す」という例えがあります。

 

 

 最近はあまり使われなくなりましたが、それでもたまに「声優になりたい」人たちが集まる掲示板を見ると必ずこの例えが頭に浮かんできます。それくらい見当違いな憶測があふれているんです。
「プロの声優」になりたい人たちの集まる場所がなんで「誤解の泥沼」と化してしまうのか?
 それは「声優」が実際に働いているトコロを見た人が誰もいないからです。

- 見えない「実演家」-

 歌ったり踊ったりしゃべったり、自分の身体を使って何か表現する事を「実演」と言います。それを仕事にしている人は「実演家」です。「実演家」には「落語」のように単独で成立するタイプと、「ダンス」のように音楽などの他のジャンルと融合して成立する「融合型」があります。
「声優」は映像上の人物と融合する「融合型実演家」なのですが、他の実演家には無い特殊な流れがあります。

「声優」は映像作品の部品である「登場人物」と融合した上で、その人物を「ドラマ」に融合させていかなくてはなりません。ですからその「実演」は映像の制作途上で行われ、最終的には完全に「映像作品」の一部として取り込まれてしまいます。
 つまり、その「作品」が発表された時には「声優の実演」はもう終わってしまっているのです。

 これは「声優ファン」にとってちょっと辛いトコロでしょう。
 ある「声優さん」がどんなに大好きでも、その「声優さん」が実際に演じている姿を直接鑑賞する事はできないのです。もっとお近づきになりたくても、融合後の「映像作品」を繰り返し観るとか、「作品以外」のメディアに登場する本人を観察するとか、そんな「間接的な鑑賞」しか方法が無いんですから。
 ちなみに、
 その辺の事情は「売る側」も同じです。

「実演」という最大のパフォーマンスが終わってしまっている以上、「人気声優」の商品価値を最大限に活用しようと思ったら「間接的な鑑賞」の機会を増やす以外にほとんど方法が無いんです。

-「アフター声優」-

 例えば、9時から5時までの仕事を終えて帰りにちょっと一杯とかデートなぁんてお楽しみの時間の事を「アフター・ファイブ」と言ったりします。また「スキー旅行」では、スキ一を終えた後のホテルでの食事やミニパーティー、いわゆる「アフター・スキー」も目的の1つです。

 ラジオや雑誌やイベントなど、本人名義で様々なメディアに登場している「声優」は「役」を演じてはいません。「役」の人気による波及効果を期待したメディア側の要望で、いわゆる「中の人」として「ゲスト出演」している状態です。イベントなどで行われる「生アフレコ」も、演じられているのは正確には「役」ではなく、「出演中の声優」なんです。
 もちろんそうした「派生業務」も「声優」の大切な仕事に違いありませんが、厳密に言うと「演技」ではありません。

 このような、
 確かに「声優」ではあるけれど本来的な意味での「演技」はせず、「間接的な鑑賞」にゲスト出演している状態の「声優」を、仮に「アフター声優」と呼ぶ事にします。
 最近何かと花形職業扱いされている「声優」ですが、実際に人気が高まっているのは「声優」ではありません。「アフター声優」です。「アフター業務」に関わる機会の無い「普通の声優」の暮らしは今も昔も変わらず、実に倹(つま)しいものです。

 誤解しないでいただきたいのですが、私は「アフター声優がいかん」と言っているのではありません。
 私だってどっちかと言えばワーワーキャーキャー騒がれたい方だからこそこういう仕事を選んだワケですし、「演じた役」が元で「アフター需要」が発生するという事は「声優」としての人気や実力が広く認められての事なんですからむしろうらやましいくらいです。
 問題なのは、
 自分が知っている「アフター声優」という表面だけを「声優の全部」だと思い込んで目指している人たちの「狭さ」なんです。

-「声優」ではない -

「アニラジ」「トーク」で「アフター声優」の「素」に近い「おしゃべり」を聞くと、普通の若者の世間話と大差無い感じがします。そんな自分たちと大差無いおしゃべりをする人たちから「アニメ」や「吹き替え」の素晴らしい「演技」が生まれるなんて……、え?
 ……という事は?
 何かちょっとした「声優のコツ」みたいなものさえ身に付ければ「自分」もすぅっと「あちら側」に行けるんじゃね? その「コツ」を売っているのが「声優養成所」って所なんじゃね?

 ……こういうノリで「養成所」に入ってきた人たちは、本当に「声優になりたい」ワケではありません。1つやっただけで5倍働いたように見える仕事を求めているただの怠け者です。

「アフター声優」というきらめく水面のすぐ下にはその数十倍の人数の「普通の声優」がよどんでいます。「普通」と言ったってみんな修行を積んだ常人以上の「演技力」を持った人たちばかりです。その中でも群を抜いて器用であるとか声に「華」のある人が「主役」や「レギュラー」を勝ち取って、「アフター声優」として浮かび上がる事ができるのです。


 表面しか見ていない「アフター声優志望者」には、そもそも「演技とはどうする事か?」が判っていません。全て「養成所」が与えてくれると勘違いしているから自力では何一つ用意せず、予習も復習もしません。そんな水に入った事も無いような状態できらめく水面目指して飛び込んでしまうから、そのまま真っ直ぐ底の暗がりまで沈んで帰らぬ人となってしまうのです。

「普通の声優」にすらなれません。

 そういう人たちの前で、普段「声優」が現場で行っている作業を実際にやって見せると、まるで「アブナイ人」でも見るような目付きでドン引きされてしまいます。「ホントにそうやってるんですか?」と真剣に聞いてくる人もいました。
 でも、録画再生して結果を比べてみればどう見たって明らかに「アブナイ人」の方が「正解」なワケで、それが判ると今度はひどく落ち込んでしまいます。多分「軽作業」という言葉を信じてアルバイトに行ってみたら鬼のように厳しい「重労働」だった、てな感じなのでしょう。

 1つやって5倍に見えるどころではありません。「声優」は1つを表すために5倍の「捨て努力」が必要になる場合もある、とても燃費の悪い仕事なのです。

 それではここで問題です。
「声優」を、「地味なクセにちょっとしたコツでタレント扱いされている敷居の低い芸能人」としか見ていない「アフター声優志望者」の目には、「演技という技術」がどのように見えているのでしょう……?


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-「コピー君」の見落とし -

 

「養成所」の1年目くらいだとどんな「役」でも自分のお気に入りの「声優」の真似しかしない人がいます。
 ここでは仮に「コピー君」と呼びます。


「コピー君」は「演技」とはどうする事なのかがまだ全然判っていません。だからとりあえず自分の敬愛する「声優さん」の姿や声を思い浮かべてしゃべれば「近づけるんじゃないか」と考えてしまいます。しかし、この「コピー作戦」には間抜けな3つの「見落とし」があるので決して上手く行きません。

 

- 第1の見落とし -

 

「オンエア番組」や「上映作品」への出演が許されるのはトップクラスの人だけです。
「視聴者」の耳に届いているのは、時間を掛けたトレーニングや勉強をこなして100倍の競争を生き残り、様々なチョイ役や修羅場をくぐり抜けて力量を認められた、ハイエンド「センス」「反射神経」から生まれた言葉だけです。
 その点、「コピー君」はまだ「志望」しかしていません。

 

 修行開始1年目でやるトレーニングのほとんどは「声優」になるためのものではなく、「素人臭さ」の原因になる余計なクセ弱点を潰して、「ノーマルな志望者」を作るための下準備です。

 下準備ができていない状態で「トップクラス」の真似をしても「役」を演じる事にはなりません。余計なクセや弱点の方が目立って、「役」でも「自分」でも「声優」でもないおかしな人物になってしまうだけです。
 

- 第2の見落とし -

 

「コピー君」たちが真似るのは大抵、
「ある声優がある作品のある役のあるシーンでしゃべっていた印象」です。
「そこ」に感動した「コピー君」にとっては「それ」が「最高の演技」なので、「それ」さえ押さえておけばどんな「役」にでも通用するような気になってしまうのでしょう。
 しかし、
 残念ながら「その演技」は「コピー君」に与えられた「役」のために作られたものではありません。その「声優」が「その作品のその役」というピンポイントに合わせて組み立てた「オーダーメイド」ですから、「コピー君」が期待しているような「汎用性」は無いんです。他の人が「他のシーンの他の役」に当てはめようとしても、「合ってない感じ」が鼻につくだけです。

 

「声優」は「人間関係のバランス感覚」が問われる仕事ですから、こういう具合に一点突破で何とかしようと考えてしまう人には向いていません。「一点突破」と言うと何だかカッコ良く聞こえますが、要するに360度必要な備えをたった1度で済ませようとする怠け者の作戦です。

 うまい事怠ける方法ばかり考えて「技」の揃っていない素人がどんなにジャンプしてもトップには届きません。無理を続ければ本来の自分の持ち味まで潰してしまう事になります。

 

- 第3の見落とし -

 

 そうやって「自分」の可能性を潰してまでして似せる事に成功したとしても、それで「コピー君」の「声優」としての価値が高まる事はありません。なぜなら、これから「コピー君」が行こうとしている場所にはコピー元の「本人」が実在しているからです。
 普通の世間で「声優の○○に似ている」と言われたらほめられた事になるのかもしれませんが、それほど変わらない値段「オリジナル」が流通しているトコロに「パチモン」を並べたって魅力を感じてくれる人はいません。本人と所属事務所の反感を買うだけです。

 

 これらの見落としが絡み合って生まれた「思い込み」は解きほぐすのがとても厄介なので、大抵の講師は指導をあきらめて落としてしまいます。ですからプロの現場には1人もいません。

 ちょっと考えれば判る事です。

 どこの世界に誰か他の「声優」の真似をしている「声優」がいますか?

 

- 思い浮かべ錯誤 -

 

 

「演技」とは、上の図の赤い線のような「他人どうしの関わり合い」を再構成して「ドラマ」を生み出す仕事ですから、たった1人のしゃべり方を真似してどうにかなる仕事ではありません。何十人もの人格が懐に入っていて、いつでも取り出せる状態が「前提(下敷き)」になります。
 ところが、
 そんな時でも「MT志望者」は「自分の考え事」を膨らませる事だけで対処しようとしてしまいます。

「自分の考え事」「自分の全身」と化してしまっている彼らは、一生懸命「思い浮かべ」さえすればそれが「全身」を使っている事になって、自分のカラダや言葉にも何か変化が表れるハズだと考えてしまうのです。

 例えば「養成所」の卒業公演直前の楽屋で自分の「役」の「名前」を繰り返しつぶやいている研究生がそうです。「役」に「優しさ」を要求されて「優しく」という文字を思い浮かべている入門者がそうです。

 この

「強く思い浮かべれば何かが表に表れて他人に伝わる」

 という勘違いを、私は「思い浮かべ錯誤」と呼んでいます。

 

 彼らが思い浮かベている「役名」や「優しく」は、どちらも単なる「文字情報」に過ぎません。それは具体的な「行動(変化)」ではなく、その様子に付けられた「名札(ラベル)」に過ぎないのですから、どんなに繰り返し思い浮かベても「生きた人物」を生み出す役には立ちません。

 何をどんなに強く思い浮かべても、

 演じられるのは「一生懸命何かを思い浮かべている人」だけです。

 

- 不気味な微笑み -

 

 自分のお気に入りの「声優」の真似しかしない「コピー君」は、「声優」を思い浮かべただけですっかり声優気分に浸って「演技」しているつもりでいるのですが、実際には素晴らしい演技に感動させられた「視聴者としての記憶」思い出しながらしゃべっているだけです。

 そこに「声優になって人々にもてはやされている自分」というイメージが重なってしまえばもう怖いものはありません。「いい気分」が全身に広がって自然と笑みがこぼれてしまいます。

 どんな「役」のどんな台詞でも顔面のどこかに微妙な微笑みを浮かべてしゃべる入門者がいるのはそういうワケです。

 

 こういう「心」ごと「自分の夢」に溺れている人に対して、「役の気持ちを考えて」なんて古びたダメ出しをしても効き目はありません。

 その場でクビにしてあげるとか、目の前で実際に「激しい演技」をやって見せて幼稚なプライドを完膚無きまでに叩き潰してあげるとか、とにかく脳に「現実の強烈な刺激」を与えて「自分の考え事」という固い殻を割ってあげないと、何時まで経っても勉強を始めようとしません。


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- 物は言いよう? -

 

「初めての演技実習」に取り組む受講生のMさんに「練習してきた?」と尋ねてみたら即座に、

「しっかりイメージトレーニングしてきました」という返事が返ってきました。

 しかし、

 実際に実習を始めてみるとハシにも棒にもかからないひどい有り様です。後で聞いてみたら、案の定Mさんは「できた自分の姿」を繰り返し思い浮かべていただけで、具体的な準備や練習はほとんどしていなかったのです。


「イメージトレーニング」とは、実際の練習や試合の体験から「成功体験の記憶」だけをピックアップして流れを組み立て、その流れを繰り返しイメージする事で肉体反応が上手くいくように自分を導いていく練習法です。ですから、

「初めてやる事」や「成功した事が無い事」は「イメージトレーニング」する事ができません。

 具体的な「練習」や「成功体験」無し「成功した自分の姿」だけ思い浮かべるのは「イメージトレーニング」ではありません。ただの「空想」です。

 

「MT志望者」はこういう「言い換え」をよくやります。


 こうした「言い換え」は、油断しているとちょっとした失敗をごまかすための「嘘」や「言い訳」と見分けがつきません。しかし人によっては「言い換え」の奥に、当人の破滅につながりかねないほどディープな問題を抱えている場合があるので注意が必要です。

 

 それを示す判りやすい兆候があります。
「MT志望者」はほぼ例外なく「体調管理」がなっていません。
 食事や栄養に気を使っていない事がひと目で判るほど肌が荒れている人が多く、睡眠時間が不規則なせいか集中力のバラツキも目立ちます。
 恐らくこれは「MT志望者」の「意識」「自分の考え事」に集中しすぎているためではないかと思われます。

 

「自分という存在」が頭の中で完結している彼らにとっては「自分の考え事」がほぼ「全身」です。そうすると「自分の体調」も「外の出来事」という扱いになって「他人事」みたいになってしまうのです。
 当然、多少見栄えが悪くなるくらいの事は気になりません。だから不摂生に気をつけるという事もしません。場合によっては「声優」を目指せなくなるような問題ですら無視してしまう事すらあるのです。

 

-「計画」し過ぎる -

 

 ある男性Wさんが受講を希望してきました。
 最初彼は自分に「問題」がある事を話さなかったのですが、「発音」に妙なクセがある上に何でもない個所でどもるので「異状」がある事はすぐに判りました。
 Wさんは「舌小帯短縮症」だったのです。

 

 数年前、彼は「舌小帯短縮症」を抱えたままで「養成所」に入りました。当然上には進めず落とされます。が、あきらめずに他の養成所に通ってまた落とされ、結局「手術」を受けます。で、「切ったんだからもう問題は無い」と考えると、「リハビリ」や「矯正トレーニング」無しに別の養成所に入って、その時点で声優志望者生活9年目を迎えます。
 しかしいっこうに思うような展開にならないのに「来年で10年」と思ったら急に焦りを感じ始めて「シャベルテック」の受講を申し込んだのだそうです。

 

「声優養成所」と言う場所は「才能ある人」を発見して掘り出す「採掘場」に過ぎませんから、「しゃべるのが下手な人」をフォローする用意はありません。上手くしゃべれない人は落とすだけです。
 確かに手術すれば「舌小帯短縮症」は改善できるかもしれませんが、それまでの十数年間短い「舌小帯」に引っ張られて動けなかった「筋肉」は「普通にしゃべる」事に慣れていません。どこをどう考えたって何らかの処置リハビリを済ませてから「養成所」に申込書を提出すべき流れでした。
 ところが、
 なぜだか彼はどこかの時点で「声優養成所という所が自分の問題を全部フォローしてくれる」と決めつけてしまったのです。それどころか、自分の障害について考える事自体を一切止めてしまいました。
 実際、これだけの経緯をWさんから聞き出すのに2回のレッスンを費やさなくてはならなかったのですが、それと言うのも彼が話の細部を独断で省いてしまうから、問題の全体像が中々掴めなかったのです。

 

 話が終わりに近づいた時、彼はこう言い放ちました。
「○月までにちゃんとしゃべれるようになって、来年は事務所に所属したいと考えています。声優になれるまで絶対にあきらめません」
 ……まるで「自分の計画が実現できなかったらそれはあなたの能力が低いのだ」と言わんばかりの断定的な言葉でした。

 

-「声優」ちがい -

 

「声優にさえなれば自分を認めてもらえる」
「自分を認めてもらうためには声優になるしかない」
「自分がこんなに声優になりたいんだからなれるはずだ」

 

 ……「なりたい」という「願望」の強さを「努力」や「真摯さ」に置き換えて、自分が「声優」になれる可能性を過剰に膨らませてしまう。

 現実の「声優」がやっている事を何一つ知らないのに勝手に空想して決めつけ、「声優」という単語に的外れな夢を託してしまう。

 自分の才能の無さを棚に上げて、具体的な正しい努力をほとんどしない。
 ……これが典型的な「MT志望者」の「声優」への「あこがれ方」です。

 そのやり方で発生してしまう現実との齟齬や矛盾の辻褄を合わせるために、彼らは様々なシーンで言葉の意味をすり替え、「言い換え」なくてはならないのです。

 

 彼らが「なりたいなりたい」と吹聴しているのは現実に存在してる「職業」としての「声優」ではありません。恵まれない(と自分が感じている)境遇から目を背けるための「イコン」として、

「声優」という言葉を利用しているだけなのです。

 人々が「声優」という肩書きにひれ伏して自分の存在を認めてくれさえすれば、

 本当は「役」「作品」どうだっていいんです。

 

 しかし、そもそもこの世に存在していない空想上の「シゴト」を目標にして、「多分こうしているのであろう」という素人の勝手な予測をぶつけているだけなんですから、どんなに頑張ったって誰も評価してはくれません。で、

 何時まで経っても期待通りの評価が得られないから焦る。

 焦っているから時間の掛かりそうな修行は避けて一発で片づきそうなコツばかり探す。

 短期間で優しく自動的に自分を「声優」という場所に連れていってくれる教室を探す。

 問題があっても何とか「隠して」駆け抜けてしまおうとする。
 ……これが「MT志望者」の考える「努力」です。

 

 Wさんも、自分を「単なるできの悪い生徒」と決め込んでしまう事で「プロは無理」という現実から強引に目を背けていました。本当の問題から目を背けて、努力している自分の姿を思い浮かべていただけだから、9年も掛けて何の成果も得られなかったのです。
 しかし、

「隠した」という事実は明らかに彼が自分の問題に気づいていた事を示しています。

 本来「正直者」である彼は自分の「嘘」に耐えきれず、矛盾やプレッシャーがもっと深刻な別の問題を引き起こしてしまいました。
「人前でしゃべる」と考えただけで緊張して紅潮し、難しくも何ともない普通の言葉までどもってしまう、いわゆる「あがり症」です。

 私は恐らくそれが「吃音」の原因だったのではないかと想像しているのですが、残念ながら今となっては確かめるすべもありません。


「一旦休止して何らかの形でカウンセリングを受けた方が良い」
 私がそうアドバイスすると急に彼は高揚して「それはやめろという事ですね?」と繰り返し始めました。「聞く耳を持たない」という感じでこちらの話を受け付けなくなってしまったのです。
 結局、それが最後のレッスンになってしまいました。

 

「視聴者」が何かを思い浮かべるために、我が身を呈してどれくらい具体的な情報を提供できるか? それが「声優」という職人に要求される「基本スペック」です。

 ところが、

「自分の考え事」の世界の住人である「MT志望者」は「自分が思い浮かべ」るという事に対して病的なまでに過剰に期待し過ぎる傾向があるのです。

 

 普段の生活で未来を夢見るくらいなら何の罪もありませんが、働く現場にいる「声優」がそれでは困ります。なぜなら「声優」は「視聴者」に何かを「思い浮かべさせる」側にいる現実的な職人だからです。

「他人の夢」のために、本来の意味での「全身」を提供するのが「声優」の仕事です。

 

 この点にさえ気がついていれば、別に「養成所」になんか行かなくたって1秒で「声優」になれます。気がつかない人は、3年通っても10年通ってもダメです。


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- 自分も「自分」の外にある -

【図4 薄い他人たちの図】


【図1】と【図4】の違いは一目瞭然、「他人が薄い」という点です。「薄い」と言うのは「自分」以外の存在がはっきり見えていないという事です。
 これは「自己中心的」とはちょっと違います。いわゆる「自己チュー」の人たちには周囲の人間が見えています。見えている人間関係の中心に立ちたがるから「自己中心的」と言われるのです。
 対して「MT志望者」は?
 周囲の人々に対する関心は薄く、あえて積極的に関わろうとはしません。なぜなら彼らは「世界」そのものだからです。

「MT志望者」はその精神エネルギーの多くを「自分の考え事」で消費しています。
 一見「無表情」に見えてもその奥では、
「声優」になりさえすれば今までとは変わる、そうしたらああしようこうしよう、そうすればこう思われるに違いない、それならばこうした方が良いだろうか…… と、
「未完の理想図」の編集作業で脳がフル回転している場合が多いのです。
 
 当然、「MT志望者」は「自分の外」の物事、特に他人の事にはあまり気が回りません。
 新しい物事や人物に遭遇しても「自分の好み」に合わない限り深入りはせず、足りない情報は「憶測」や「期待」で何となく埋めてしまいます。彼らが「先入観」や「理想」のような「思い込み」に囚われやすいのはそのためです。
 この「思い込み」は「自分の考え」というカプセルの中で煮詰められて硬くなっていますから、たとえそれが後で間違いだったと判っても中々修正する事ができません。

-「声優」と「俳優」の違い -

「声優」には普通の「俳優」や「タレント」と決定的に違う点があります。
 それは、現場に呼ばれて行った時には
 必ず「誰かが演じ終わっている」という点です。

 これは「日本語吹き替え」に限った話ではありません。
 例えばアニメの「登場人物」は、主要スタッフが何度も会議を開いてその「存在感」「しゃべり方」を決定し、最終的にはアニメーターが自分でしゃべってみながら映像化しているのです。音声収録の段階ではもう「役」の個性もしゃべり方もほとんど決まっているので、そこから外れた「演技」にOKが出る事はあまりありません。

「声優」は、「実演家」としては例外的に、
 毎回何らかの形で「自分らしさ」を引っ込めなくてはならないジャンルなんです。

 すでに自分の演技ノウハウが確立している俳優さんの中に「声の仕事」を嫌う方がいらっしゃるのはこのためです。また、個性的なしゃべくりが売りのお笑い芸人さんが「声の仕事」だとトーンダウンしてしまうのもこのためです。

「すでに誰かが決めた架空の人物像」を実体化するためには?
 まだ存在していない人物をモノマネできる「特殊なセンス」が必要になります。
 この「センス」に恵まれていない人は何年努力しても結果が出せません。「養成所」では1年目の夏休み前に自ら去ってしまう人が結構いるそうですが、被害を最小限に食い止めたければそれが最も妥当な判断と言えるでしょう。

 ところが、
「これこそ自分を生かして他人に認めてもらえる仕事だ」とガチで勘違いして始めた「MT志望者」は、そう簡単に気持ちのアクセルをゆるめる事ができません。折角意気揚々と飛び出したってのにまたあの「居場所の無い世界」に戻るなんて、想像しただけでも恥ずかしさで気が狂いそうです。だから彼らは必死になって「努力」します。彼らなりに死に物狂いで「努力」はしているのですが……

「声優養成所」の1年生を教えた経験のある人たちに様子を聞いてみると、「いかに彼らが声優をナメているか」という話が必ず出てきます。私も最初はそう感じていました。
 しかし、数年間幾つかの教室で教える内に、決してナメているワケではないんだけれど、どうしてもナメているようにしか見えない人たちが多い事に気がついたのです。
 その違いは彼らがナメている対象の違いにありました。
 彼らがナメているのは「声優」ではありません。「演技」をナメているんです。

「今時まさか」と思われるかもしれませんが、入門者の多くは「役」と「声優本人」を混同しています。「役」と「声優本人」の間に厳然と横たわっている「演技」という超絶技巧を無視して、「声優本人」しか見ていないのです。
「それなら自分にもできる」と勘違いして迷い込んできてしまったんですから、当然彼らは「演技」をしようとしません。努力や一生懸命を口にする割には、「声優」という表面だけをマネしてジタバタするだけだから、百戦錬磨の講師陣からするとナメているようにしか見えないのです。

 以下はちょっと長くなりますが、そうした「ズレた努力」の具体的な例を幾つか上げておきたいと思います。

- トッピング錯誤 -

「でき上がっている映像上の、誰かが演じ終えた人物像を演じ直す」……と、
 誰もが知っている「声優」の特徴を今さらのように上げたのは、誰もが知っている特徴だからと言って、みんながみんな同じ解釈をしているとは限らないからです。

 ちょっと冷静に考えてください。「演じ直す」、ですよ。
 この一番肝心な部分に「自分に甘い能天気な人」変な期待を挿入してしまうと……
「何しろ映像はある。
 感情も表情も演技の大部分は誰かが済ませてくれているんだから、
 声優はその上に乗っかってしゃべるだけ♪」
 ……という、なんとも他力本願な話になってしまうのです。
 こんな、「ソフトクリームにイチゴジャムをかけたらイチゴソフト」みたいな安直な「トッピング」感覚で教室に来られたって何にも教えようがありません。

「演じ直す」、という事は、
 完全に並走して同じレベルで演技できなくてはならないという事です。
 
 基本的には、台詞の「前」から「役」と同じ行動をたどって「感情」をシンクロし始め、あらかじめ組み立てておいた「リアクション」の力で台詞を押し出すのです。
 シーンの頭からいきなり台詞、という場合には、そのシーンの直前の行動を予想してシミュレーションしたりもします。
 ちなみに、「発音」はしゃべろうと考えてからしゃべり始めると必ず遅れますから、その人それぞれの遅れ方に合わせて早出したりしています。そういう細かい操作は沢山あります。

 ハリウッドのトップ俳優を吹き替えるには、ハリウッドのトップ俳優並の「演技センス」が必要です。向こうの演技プランが理解できなければ演じ直す事もできないからです。
 さらに、よりゼロに近い所からサプライズを提供しなくてはならない「アニメ」では柔軟な「発想力」が要求されたりもします。
 これらの技術やセンスを備えて、あらゆる作品を魅力的に輝かせる事ができた時、初めて演じた本人が輝いて見えるのです。
 
「他人が作った物の上にしゃべりだけトッピング」みたいな安直で「B級」な思い込みに囚われている人が輝いて見える事はありません。

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