3月17日に「トロンボーンとピアノのためのソナチネ」が初演された。いくぶん興奮状態の自分を落ち着かせる意味もあり、この件に関するこれまでのことを文章化しておきたいと思う。(長文注意)

 

日本トロンボーン協会主催の「トロンボーン・オブ・ザ・イヤー 2019 作曲賞」という名の、トロンボーン作品のコンクールは、2018年11月末に応募が締め切られ、入選作4作品が2019年3月17日の本選会において演奏審査され、最優秀の「作曲賞」及び聴衆の選出による「聴衆賞」が選ばれた。私の作品は「聴衆賞」をいただくことができた。

聴衆賞表彰

 

 

 

(演奏の映像はこちら https://www.youtube.com/watch?v=OlaVvl3T1wY

 

 

 

この「トロンボーンとピアノのためのソナチネ」を作曲した動機は幾つかあるのだが、その一つについては、以前の日記にも書いたように、地元の演奏会でトロンボーン奏者に出演していただいたことがきっかけになっている。選曲の段階で一般の人が喜びそうな候補曲がなかなか見つからなかったのである。「無いのなら私が作ってやろうか」とその時には思ったものである。が、その演奏会(2018年4月)に間に合うように新曲を書く余裕がなかったのでそのままになっていた。

 

 その後友人の作曲家のSNSの記事でこのコンクールがあることを知り、以前のその気持ちが頭をもたげ「それではこの機会に一般の人が喜びそうなトロンボーン曲を書いてみるか。」と取り組んでみることにした。
秋には、地元の演奏会がもう一つあり、何かと忙しい日が続き、11月末までの完成が危ういのではないかと思う時期もあったが、応募の意思を伝えた人もあったことで「ここで『できませんでした』と言うわけにはゆかない」と、あきらめずに取り組んだ結果完成させることが出来た。声を同時に使うような特殊奏法が応募要領で「禁止」とされているのに気付かず使っている部分があったのだが、そこは削除して応募に滑り込ませることが出来た。

 

ではどんな曲ができたのか?曲について自分自身でSNSにつぶやいた記事などからまとめてみると・・

 

3年前に福島で行われたチャリティーコンサートのために「チェロとピアノのためのノクターン〜浜通りへの夜想曲」を作曲したが、その時は、「避難生活で苦しんでいる人をなんとか慰めることができるように」という思いで作曲した。その後、復興が少しずつ進んでいる話を聞くにつれ、「これからは慰めるだけではなく、復興に向かって頑張る人々を元気づけることが必要だ」と思うようになり、次に作る曲は「聴く人を元気にするような曲」を書きたいと思うようになった。バイオリン作品などを構想していのだが、結果的にその「次の曲」はこのトロンボーン作品となって実現したのである。

 

 また、3年前のチェロ作品はフォーレの「エレジー」にどことなく似ていることもあり、「フォーレの影響のある音楽ですね」との感想をいただくこともあった。そのもっと前に作った「平井多美子の詩による二つの歌曲」の時にも、同様のことを言われたこともあり、そろそろフォーレの影響から脱出したい、とも思うようになった。ここ10数年大好きな作曲家となっている、E.W.コルンゴルトの作品の素晴らしさに「次に作る曲は、コルンゴルトの影響を受けた曲を作りたいものだ」と、心の奥で考えることもあった。

 

 ではこのトロンボーン作品に、コルンゴルト作品からの影響はあったのかどうか?Facebookに自分で書いたことを拾い出しながらまとめてみよう。
(11月30日の記事)
「書き終えたばかりの作品について、グダグダとあれこれ考えている。これまでに作った自作と今回の作品を比べてみて、進歩したかなぁ?
マンドリンオーケストラのための「Notturno」を聞いたことがある人は、この作品の「休符を挟む連打によるため息交じりのようなフレーズ」を聞いて「前にも聞いたことがある感じだな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と感ずるかもしれない。ユーホニアムのソナチネ一番を聞いたことのある人は、低いところから湧き上がってくるように第一主題が再現するところで、「前にも聞いたことがあるな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と感ずるかもしれない。金管六重奏曲を聞いたことがある人は、緩徐楽章の中間部でミュートを使う部分で、「前にも聞いたことがあるな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と感ずるかもしれない。ユーホニアムのソナチネ2番を聞いたことのある人なら、十六分音符で疾走しようとするフレーズを聞いて「前にも聞いたことがあるな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と感ずるかもしれない。平井多美子の詩による「たんぽぽ」を知っている人なら、半音ずらしの和声連結により不思議感に誘われる部分で「前にも聞いたことがある感じだな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と思うかもしれない。チェロとピアノのための「浜通りのための夜想曲」を知っている方は、長3度関係による連結を連続使用する部分で「前にも聞いたことがあるな、やはり鶴原勇夫の作品だな」と思うかな?
・・・とにかく、今までにやったことがあるようなことをまたやっているということであって、こういうのを「個性がある」と言うのか「進歩がない」と言うのか、・・・聞く人によって判断が分かれるだろう。
「たんぽぽ」でも「浜通りの夜想曲」でも「(お好きな)フォーレの影響がありますね」と言われたけれど、今回の曲は、もしかしてそうは言われないかもしれない。コルンゴルトの作品をよく知っている人なら「コルンゴルトの影響を受けていますね」と言うかもしれない。しかしその可能性は少ないだろう、コルンゴルトをよく聞いている人などめったにいないので。しかし、今回の作品で「何か今までの鶴原作品にはない新しい感じがする」と感じてくれた人がいたら、「コルンゴルトの影響を受けたからかもしれませんよ」と答えることにしよう。そういうのって「新境地?」それとも・・・自問自答もこの辺で。
(同:コメント欄から)
「コルンゴルトの音楽を知らなかったら、こんな風には書かなかっただろうな」と自分で思える箇所がいくつかある。これ、コルンゴルトの影響を受けたといえる。影響を受けたからと言って真似をしたのかと言われると返答に窮する。例えば、「現代音楽だろうと何だろうと、気に入って口ずさめる音楽が良い音楽だ」と勝手に思い込んでいる私は、口ずさめる範囲(およそ10度以内の音程)で一つのフレーズを書く傾向があった。今回の曲の主題は「10度の壁」を破っている。3楽章には1オクターブと7度の幅を持つフレーズも登場する。これなど、「コルンゴルトを知らなかったら書かなかったかもしれない」と自分で思うところだ。(器楽作品は声楽作品よりも広い音域が使えることを知らなかったわけではないが)コルンゴルトの音楽の自由闊達さに惹かれた私は、やはりその影響を受けている。
(引用は以上)
初演前から家内はパソコンによる演奏でこの曲を聴いていたが「2楽章がコルンゴルトそっくり」と言う。本選会を聴きに来てくれた「コルンゴルトとその時代」の著者早崎隆志氏は「始まりの4つの音がコルンゴルトのシンフォニエッタと同じですね、4度上がりの音型は彼も好きだったようですね」と、知識のあるところを見せ、私の曲がコルンゴルト作品に似ている部分の一つを言い当てている。この他にも何箇所か、自分で「ここはコルンゴルトのあの作品に似ているな」と思う箇所があるのだが、音で表現しないと伝えるのが難しいので、この場ではこれ以上書くのはやめにしよう。

 

さて、本選の演奏を聴いてくれた人からの感想から幾つかを拾ってみよう。

 

すごく演奏者が気持ちよさそうに演奏できる曲でレパートリーに重宝されそうです。」
聴いていて元気が出るし、清々しい曲ですね。」
聴かせて頂きました。演奏者も聴く人も楽しめる音楽です。感服致しました。」
娘が楽しかった❣️って言うのよ(^.^)(音楽のこと)無知なのに…そんな彼女も、音を楽しめたらしくて、先生の言う通り、まさに、演奏しない人でも、楽しめる曲を作ったということですよね」
拝聴しました。いや〜いいですねぇ😌トロンボーン(トロンボーン)の音色、奏法、魅力が余す事なく引き出されてる曲だと感じました。
第一楽章は何か天馬が駆け抜けているようなイメージ。
第二楽章は個人的に好きな感じのゆったり曲、旋律が素晴らしいです。
第三楽章はユニークな雰囲気ですが、最後は第一楽章の主題が少し覗き締めくくってましたね。
さすがです!」
「明るくて元気で伸びやかで心が解放されるメロディだと思いました。このところの仕事の疲れが癒されました」
 
・・・・というわけで、「聴く人を元気にする曲を書きたい」との私の思いは、ある程度達成されているようだ。
 
こんなことをまとめている間に、今読んでいる「ゆかいな仏教」という本のある部分が目に止まった。曰く「慈悲の「慈maitri」は「mitra友」から派生した「友愛」の意味をもつ語で、他者に利益や安楽を与えること(与楽)と説明される。一方、「悲karuna」は他者の苦に同乗し、これを抜済しようとする(抜苦)心の働きを表す。」と。
なるほど・・・とすると、私が3年前に作った「苦しんでいる人を慰めたい」チェロのノクターンは、この説明文でいう(抜苦)にあたり、今回作った「人々に元気を与えたい」トロンボーンのソナチネは、(与楽)に当たるということになるな・・・私の作曲姿勢の背後にはこの(抜苦と与楽の)慈悲の心があったということだな(仏様みたい)。自分は仏教徒であると自覚はしていたが、こんな形でそのことを再自覚するとは・・・いやはや愉快愉快。