魚沼の父
去年、2008年の7月14日、父が他界した。
その日の数日前、姉から、父が入院して意識が無いと聞かされて、
すぐに新幹線に飛び乗り、新潟の田舎町の病院にかけつけたのだが、
父は苦しそうな呼吸を続けるだけの状態だった。
家族で交代ごうたい病室に泊まりながら付き添ったが、
父の命を保障する、脈拍の数字は、徐々に低くなってゆき、
7月14日の夜、ついにその心臓は静かにその役割を終えた。
父は、雪深い新潟の田舎町で小さな土建業を営む家の長男に生まれた。
秀才肌だったらしく、地元の高校を出ると上京し、早稲田大学の法学部で、
司法試験合格を目指し、勉学に励んだという。
東京では、高校の同級生同士で結婚した母も、一緒に暮らしていたらしい。
明治生まれで、尋常小学校しか出ていないながら、力業で会社を興した祖父と、
本来、家業を継ぐはずだったという父の弟の間になんらかの確執があり、
父の弟が自殺をするという悲劇を経て、父は弁護士という目標を諦め、
20代の後半で、家業の土建業を継ぐ立場になった。
1964年姉が、そして1965年に僕が生まれ、
父も母も田舎での生活に慣れていった時期だったのか、
小さい頃の僕の思い出の中では、祖父、祖母、父、母、姉、僕の6人家族は、
いわゆる幸せな家庭だったような気がする。
しかし、茶の間に祖父が入ってくると、父が静かにそこから姿を消したり、
食事の最中に、あまり祖父と父の会話が無かったことは、
当時父の弟の事件を知らなかった小さい頃の自分にも、
この一見幸せそうな家庭の裏側に、なんらかの亀裂があることを容易に想像させた。
自分の本意ではなく、家業を継ぐことになったせいだろうか、
父は、家の仕事の話を僕にはまったくと言っていいほどしなかった。
そして、姉が仙台の大学に入学した翌年、1984年に高校を卒業した僕は、
家業のことに縛られることなく、東京の予備校に通うため、新潟の小さな田舎町を後にした。
1985年大学に入学し仲間も増え、1989年に会社に入りそれなりに忙しい仕事に振り回され、
それからは正月くらいしか家に帰らないような年が続いた。
そんな僕のいい加減な東京での暮らしを田舎に引き戻したのは、父の健康問題だった。
2007年の正月明け、札幌からの出張帰りの空港のロビーで、
姉から携帯に電話があり、父の肺にガンが見つかったことを知らされた。
それからは父の治療の件で、姉と僕と父と母と集まる機会が増えた。
父の希望で、2007年の春先には、姉の夫も交えて5人で水上温泉に行った。
そして、それが最後の家族の旅になった。
父の直接の死亡原因はガンではなく、肺気腫で機能の衰えた肺が肺炎を起こし、
脳梗塞を引き起こしたせいだった。人伝に聞いていた肺ガンの苦しみを知らずに、
父が静かに旅立っていったことが、せもてもの家族の慰めになった。
父の他界で、母親も気落ちしたのか、体の動きが悪くなり、その付き添いのため、
去年の夏から、週末の多くを、新潟の魚沼で過ごす日々が続いた。
冬場は、気温のせいか、母の動きも特に悪く、親戚の家へあずかってもらうことも考える程だったが、
春先から気温が上がってきて母の体調も、一人で過ごすことにも不安がない状態まで回復してきた。
平日東京、土日魚沼という暮らしをこの1年続けてきて、
体力的にはやや疲れを感じつつあるが、精神的には少し落ち着いてきたような気がする。
母の食事を作るため台所に立ち、近所の人が持ってきてくれる野菜を、
まな板の上で、どんな形に切るか考えつつ、手を無心に動かしていると、
東京での暮らしでは味わえない、不思議な集中した心境に辿り着いている自分を感じる。
ふと、田舎ののんびりした時間の中でも、死という形の無いものを考えてしまう。
かつて、祖父、祖母、父、母、姉、僕の6人で暮らしている家に、
母一人しかいないことが、そんな気持ちを抱かせるのかも知れない。
生活という要因から家を離れるように、いずれ人々は肉体的限界から現世を後にする。
それが、曖昧なようでいてとても強固で確実な事実であることに、恐怖に近い感情を憶える時がある。
触れてはいけない軟体動物の表皮の粘液に触れた時のような、
心の何処にも収めることの出来ない感情が、自分の皮膚を伝わってゆくような気持ちになる。
あまりに繊細で、様々な観念を抱きつつ、
僕から見ると、現実とはあまりいい折り合いをつけてはいないように思えた父の魂は、
今、悠久の時間の中で平穏に包まれているのだろうか。
父の葬式とその後の整理を終え、新幹線の駅に向かうタクシーの窓から、
雨上がりで低い雲が残る、魚沼の山あいの夕暮れに、きれいな虹がかかるのが見えた。
ベタな思いだが、父の心が無事天にたどり着いて欲しい、素直にそう思った。
吉祥寺の友人
吉祥寺を訪ねたのは、何年ぶりだろう。
今から20数年前、18歳の春、予備校に通うため、
新潟の田舎町から、東京に出てきた。
僕の住んだところが東西線の落合だったので、
吉祥寺は東京に出てきた僕が最初に遊んだ街となった。
予備校で仲良くなった仲間達は、井の頭線の住人が多く、
よく吉祥寺の井の頭線の改札で待ち合わせをして、
買い物をしたり、飲みにいったりしたものだ。
そんな予備校生活だったこともあり、
第一志望の大学には入れず、僕の浪人時代は幕を閉じた。
そんな、心から入りたかった大学では無かったが、
その大学で、今思えば多くの、ある意味変わった友人ができた。
久しぶりにこの街を訪れたのは、その友人の一人が、
吉祥寺に住まいを構えていて、
彼と久しぶりに酒を飲む約束をしたからだった。
友人との待ち合わせより少し早く着いたので、
久しぶりに街をぶらぶら歩いてみた。
駅前通りから一本入ると、狭い飲み屋街が昔のまま残っており、
その細い路地の一角に昔良く服を買った店がまだ営業していた。
懐かしい気分で、店に入ると、セントジェームスのボーダーや、
へインズのTシャツなど、昔からのアイテムが並んでいた。
予備校生のくせに、当時からよく酒を飲んだ。
特に、浜田山の少々アル中気味の友人とは、
お互い音楽が好きだったこともあり、
バーボンやウォッカを浴びるように飲んだ。
なぜか、気に入った店にズブロッカを凍らせてキープしていた。
そんなバーも、看板が変わったりしていたが、
昔と同じ場所で営業していたのがうれしかった。
待ち合わせの時間が近づいたので、吉祥寺公園口に向かう。
ペパーミントカフェ、洋服屋のジャダ、焼き鳥のいせや等、
昔からの店の間に、今時のこじゃれたデザインの看板が、
予約しもらっていた店は、公園に隣接した、
一軒家風の居酒屋だった。
しばらくして、共通の社会人からの友人も合流し、
公園の緑を見ながらの日本酒と、
あまり大きな声では言えない昔の馬鹿話で、
気分良く酔いが回ってきた。
吉祥寺の友人が、なじみの店で飲もうと言い出した。
僕ともう一人の友人は二人の家が代々木、千駄ヶ谷と近く、
タクシー一台で帰れるので、付き合うことにした。
かつて吉祥寺には近鉄百貨店があり、その裏の飲み屋街は、
いわゆる花街だった。キャバクラ、クラブ、風俗、ライブハウス等、
昔はどことなく”いかがわしい”空気をかもし出していたエリアだ。
久しぶりに足を踏み入れたが、今の渋谷も新宿もそうだが、
かつての”いかがわしさ”は消えうせ、人の良さそうな客引きから、
何度か声をかけられるだけだった。
最初にクラブに行ったが、店員の子のバースデイで満席で、
別のカラオケスナックでウェイティングとなった。
クラブに空席が出て、店を移ると、
あまり港区ではお目にかからない普通な女の子達が、
席についてお酒を作ってくれた。
微妙な女の子と微妙なお酒、
そんな風に3人の吉祥寺の夜は更けて行った。
帰りのタクシーの中で、僕と、遅れて来た友人は、
お互いに感じた、二つのことを、確認しあった。
一つは、
吉祥寺で飲むことが、ちょっとした地方出張のような錯覚に思えたこと、
もう一つは、
吉祥寺の友人が、すっかり”おやじ”になってしまったこと、だった。
まあ、3人とも1965年生まれ、
程度の差こそあれ、間違いなく”おやじ”である。
京都の舞妓
京都駅につくと梅雨の重たい雲が、
盆地の空一面をフタをするように覆っていた。
今回の目的は、友人に誘われるがまま、
『都の賑い』という公演を見ることだった。
このイベントは、京都の五花街(上七軒、祗園甲部、祗園東、
先斗町、宮川町)の芸舞妓たちが一堂に会し、芸を披露する
ものだという。
京都会館へ向かう。
エントランスに入ると、お土産ものを販売するブースが並び、
その横ではひいきのお客たちと話をしている
芸妓、舞妓たちのの艶やかな着物姿が目を引いた。
ゆっくりとステージの幕があがった。
先斗町、祇園甲部、宮川町、祇園東、上七軒、
それぞれの花街の舞妓がそれぞれの演目を、三味線、
小鼓、笛、太鼓などの和楽器の音色の中で、時に密やかに、
時に艶やかに、また時に力強く、披露する。
最後は五花街合同で、”京を慕いて”をそれぞれの流儀で、
一同に披露し、2時間の舞台はその幕を閉じた。
この会にはもう一つの趣向がある。
それは、普段は一見では中々接することのできない舞妓さんが、
夕刻から、数十名単位で、5箇所の由緒ある料亭にわかれたお客さんのお座敷に来てくれるというものだ。
その宴席が18時からだったので、
僕らが予約した中村楼という八坂神社そばの料亭まで、
ぶらぶら歩くことにした。
平安神宮を背に、しばらく歩くと、知恩院の大きな敷地が
左手に続き、その横に、この街の歴史を眺め続けてきたような
巨木が、梅雨の湿った空気の中で微かに息をしているように
たたずんでいた。
八坂神社の敷地に入る。
シーズンから外れているせいか、あいにくの小雨のせいか、
土曜日の夕刻だというのに人影もまばらで、湧き水の音でも聞こえてきそうな静けさだけが境内を包んでいた。
室町末期の文献に二軒茶屋という名前で登場するこの店は、
京都でももっとも古い料理屋の一つという。
少し、その歴史からくる威圧感に門の前で躊躇したが、
宴席の時間も近づいたので、友人と二人、
思い切って門をくぐり、玄関の男の人に声をかけると、
すんなり2階の広間に通された。
広間には、20名の列が左右に並び、
僕ら以外のお客さんは既に席について
会の始まりを待っていた。
料亭の女将から、この店の歴史にまつわる簡単な話があり、
その後、うめ葉、琴美という二人の舞妓が紹介された。
それぞれの簡単な舞が披露され、二人は上座から、
お客さんの相手を始めた。
初対面の客40人という微妙な状況ながら、
舞妓たちがついた席を中心に、酒の酔いとともに、
広間は徐々に盛り上がりを見せてきた。
そうこうしている内に、まず一人うめ葉という子が、
僕らの席についてお酌をはじめてくれた。
普段、稀に連れて行かれる銀座のクラブでもなく、
ましてや、港区のキャバやガールズバーとも、勝手が違う状況に、気の利いたことも言えず、『どこから来はりました?』とか、
上滑りの会話だけで、彼女は隣のお客に移っていった。
もう一人の琴美という子が目の前にやってきた。
さっきの反省から、なるべく会話を持ちかける努力をして、
今回は年齢を尋ねてみると、16歳という返事が返ってきた。
完璧な平成世代ということに、妙にビビってしまい、
今回も、これという盛り上がりも無く会話は流れ、
彼女も上座のほうへ戻っていき、2時間の会は幕を閉じた。
当たり前のことに、会が終わってから気づいたのだが、
彼女たちはこのような一見の客を相手にするよう子ではなく、
ひいきの旦那さん達の宴の為に、芸を磨いている特別な存在なのだろう。
今回のようなイベントは、悲しいかなそのコミュニティーに、
資本的にか、あるいはネットワーク的にか、参加することができない人たちの為の、
ささやかな入門イベントのようなものなのだ。
さて、これからの人生の中で、”京都のお座敷遊び”という
ハードルの高い体験をできるのだろうか?
最近、停滞気味の人生に、ささやかな目標ができた。
続きは次回。






















