どんな物事でも差し引きせずに

自分がナンバーワンになるための理想について

足りないものを探し続け欲求不満を起こしている。

 

これを理想主義と呼ぶのか、

環境または外部的要因によるストレスにあたるのか、

劣等感やネガティブシンキングを起こしているのか、

いずれも若干の齟齬を感じます。

ただの自分勝手とは別ですか?

 

差し引きしないために常に発展的な思考が起こり

ぶっ飛んだ発想に至る模様。

発展することしか念頭に置かないので、

泡沫のごとし発想をあたかも理論的な論理性があるように話します。

要は、差し引くことなくプラス化することだけに興味を持っている状態。

 

たとえば「お役に立ちたい」と表面的に語りつつ

相手が、わかりやすい文面や聞き取りやすい語調で話さないことに対して「ちゃんとして」なるお膳立てを要求します。

これは、「お役に立ちたい」や「お役に立てたい」や、どちらですか?

その文面はパソコン等のプログラムと同様に理解できる言語とフレーズを使ったものになり、

演算するための装置と何ら変わりなくなりませんか。

この場合、パソコン等は入力項目を漏らさず取り込むので誤算は起こりにくく、複数タスクを平行作業できる今のパソコンならば演算スピードも伴い飛躍に早いです。

そこまで準備してお膳立てを整えたら、人を使う意味ある(´・ω・`)?笑

 

また、

今に存在するものは過去にもずっと存在していた錯覚を起こすことにより、今は失われた物事についてのみマイナス感を抱いて、

過去と比較して今の損失を実感します。これはもう妄想の域ではないかなぁ。やはり差し引きしていません。

私が学生時代や子育て世代だった頃は、図書館がライトノベルなど扱っておらず。児童書にはキャラクターモノがほぼなく、文芸作品や文豪の作品を子供向けの文面にしたものを「児童書」と定義していました。まあ、若年層向けの書物がこれほど出版されていなかった時代。そしてファミレス業態は誕生したばかりで店舗数が少なく、ドリンクバーなどないも同然。果ては、大型遊具を具えた公営の無料公園は博覧会跡地のように記念的な一部地域に限られ、民間企業が運営する遊園地がレジャー施設になっていました。

それなもので、ひとつひとつに料金が発生し、家族サービスとは親の負担で行うものが一般的でした。だから長期休みに入れば遠方に住む親戚や祖父母を訪ねることがレジャーともなり、そうした大人と同居している子供は日常から解放されることがありません。よって家族サービスが流行したものです。

時代により、存在するものは変わる常識について、増えたメリットを差し引いて過去を見る必要を忘れている模様。

 

人はあらゆる物事について差し引きしつつ最適化して妥協点を探るので、他者とのコミュニケーションがはかれます。

自分の能力のみ差し引きして不足を外部で補うのであれば、

外付けデバイスのようなものになり、外付け部分のみを最新版や最新式のモノに取り替えれば、本体を刷新することなく使い続けられます。

いわゆる、本体は変わらぬまま存在を続けます。アプリなどでも同じ。本体は容量さえあれば大きなデータも取り込めます。取り込むだけなので、自らの思考は必要としません。

 

顕在意識においては「お役に立ちたい」活躍欲求を認めつつ

潜在意識においては「お役に立てたい」欲望に蝕まれて

社会にカオスの旋風を送っている人はいませんか?

 

最後に

正しい単語を使うなら

欲求不満=フラストレーション

圧迫/圧力/緊張=ストレス

原因が明確であれば、これらを分けて考えられます。

イジリを好んで行う人ほど分けて考えないので、表層にあるイメージを原因に取りだし根底に沈むことから目を逸らすので、結果的に自己保存を行います。こうした人ほど「ちゃんとしてる」自信を過剰に抱いて、社会全体が閉塞し疲弊していくのではありませんか。