出先で見た光景。

高齢の男性が安売りの品に手を伸ばしたら、目の前で別方向から伸びた手が商品を掴み買われてしまったことを

「とられた」って一緒にいた人に、苦笑いしながら話していました。

日常的にあることで、バーゲン会場ではもっと熾烈を極めます。ワゴンの前で掴もうとした品が他の人の手に渡るなど、漫画にも描かれるほど誰もが知る風景。

このときに何を思うやら。ふと、違和感を持ちました。

 

「一足遅かった」や「間に合わなかった」のように自分の行動に主体を置いて原因を考えるか

「取られた」または「盗られた」のように他者の動向に着目するか

解釈によって人柄すら変わります。後者は夢と現実の見境がついておらず、商品の所有権が自分にないにもかかわらず被害意識を感じていて。この時点では、その商品の所有者はお店であって、まだ個人の誰のものでもないから奪われたことにはなりません。だから「奪われた感覚」は錯覚であり、すでに自分のものになったかのような拡大解釈でも起きていますか?プライドが高いか気が早くて、私には「非常に攻撃的」な思考と映ります。

 

こういうものが、ネガティブシンキング?

自分を否定したり消極的であったりしていません。積極的に他者を不当に貶めてないかい(笑)(笑)

もしこれが「群衆心理」であるなら、近隣諸国は恐怖を感じそうよ。お隣の国や地域がこうであったら、みなさんはどう思いますか。

ちょっと冷静に考えてみて。

 

先の高齢男性のような思想は

おそらく無意識に「他人のせい」を感じていて、意識的に状況を判断する合理性が働いてなさそう。無意識だから悪意を持って他者を責めるつもりはないのだろうし、無意識だからこそ直ることもありません。早々に脳内から快感物質が放出になり、気分だけは盛り上がるのでしょう。それは、乳幼児を連れてマーケットへ行った親が「レジを通るまで開けてはならない」と口を酸っぱくしながら言うことと同じく、乳幼児はお気に入りのお菓子を手に持った瞬間、自分のものになったと勘違いするから。目に入った瞬間でないだけ、乳幼児の方が優秀かい?

多くの親御さんは経験あるでしょう、自分の買い物をするため商品を見ている間に、横では子供が食べようと、または待ちわびパッケージの上から噛りはじめて格闘する姿に慌てた経験が(笑)これで「躾がなってない」と言われても困ります、親は教えてる途中やから、子供は嬉しさのあまり教えが頭からぶっ飛ぶもので。

 

何を「あたたかく見守る」社会であれば、平和を感じられるのでしょうね。ギスギスと世知辛くさせているのは、どなたかしらん。これも後世になるほど、思考ぐせが伝播して拡大生産が起こるのかしら。

 

年初に発売された「86―エイティシックス―」13巻には、

10年前の革命により誕生したギアーデ連邦共和国が苛烈な戦禍に押されはじめ、不安定になった国内情勢を憂いる大統領エルンストのつぶやきがあります。

避難民どもなんて物乞いのくせに、こいつらが農場や工場から逃げ出したせいで生活が苦しくなっているのに、身の程知らずの不平や不満を喚きたてるから目障りだ。電磁加速砲型の砲撃も膨大な戦死者も、こうなる前に〈レギオン〉を倒せなかった軍が、政府が、軍を牛耳る貴族どもが、戦闘用の家畜のくせに戦闘属領兵が無能だ。精鋭部隊の英雄なのに機動打撃郡が怠惰だ。役立たずのエイティシックスども。

エルンストは嘆息する。焔の息を吐くように。

それなら他人を責めるばかりで何もしていない自分自身こそ、まったく無駄な役立たずじゃないか。

いったい、誰が問題を生むのやら。誰が解決を目指すのやら。

 

最後に

私は子供に、1才になるやならぬやの幼子に「レジでお金を払うまではお店のものだから、大切に扱わねばならない」こう教えました。レジを通り抜けたら自分のものになり、どこで食べるかは別件であって、親子で改めて相談するもの。気が逸る乳幼児は、自分のものになったと思うなり、さっそく行動を起こすので(笑)

乳幼児の行動に是非を唱えても社会規範があることを知らない子供には感情だけが伝わり、「受け入れ拒否」と映ることは多い印象。親は決して子供自身を拒否するつもりがなく「今はやめて」のつもりであっても、情操すら未熟な幼子に詳細が伝わらないんだと思います。そこで、誰かが怒るとか不快感を示すことを教えても、子供側は社会規範を覚える機会がありません。

「ヨシ」「ダメ」をずっと言い続けることがしんどい私には、子供が身の程を考えて選択できたら、はた迷惑を考えられるようになれば、結果的に気が休まるのは親や家族など身近な人でしょう。