文庫版を書店の棚で見かけてから、気になっていた作品。いつの間にか棚から中央の平台へ売り場が移っていて、売れ筋作品でしょうか。ようやく読めました。

 


ずいぶんと拗らせた人ばかりが登場する物語。
でも実際の世の中は、こうなっておりそう。だから最後まで読めば主人公が拗らせた経緯が明かされるかと楽しみにしていましたが、解決してハッピーエンドを迎えてしまいました。

主に、暴力的ないじめっ子の男子高校生が話す屁理屈、多様性を認めず「マジョリティ」を正しいことにして、共通認識がないことを要因に弄ります。猿山のボスやないんやから、腕力や恐喝に訴えたら哀しい人間のサガ。

主人公の田井中はそうした同級生からいじめられていて、これまでも「変わった子供」や「ユニークな人」と言われる度に傷ついており、自己顕示欲の強さが仇になって承認欲が高まり痛い人のレッテルを貼られています。
前半からハイセンシティブの特徴がかなり提示されていて、顕著な一面が数字や文字に色がついて見えること。すなわち「共感覚」を備えており、思考方法がマジョリティと変わります。その違いを黙っていられないので、「目立ちたがり」の印象を与えています。
本来的には「気づく人」に分類されると思うし、
そういう意味では、矛盾や齟齬に気づきやすいハイセンシティブパーソンにあたります。

作中ではこの部分を、美術の授業でデザイン構成の判断材料を知る目的で行っており、
ただ1人みんなと違う図を選んだ田井中の回答は、
ダンスや踊りまたは演舞のパフォーマーなら習う差異を利用した決定になっています。パフォーマーのみなさんは、「静を活かすための動」「動をダイナミックに見せるための静」これらのギャップを利用した印象的な技術を持っていなければ大舞台に立てません。音楽や声楽も同様では?
そこで問題になるのが、審査する側にどんな人が立つかということ。元演者のようなプロと素人では判断が異なります。という点に触れず、担任の二木は大多数の見解を支持したもので、生徒たちがエキサイトします。

彼は幼い頃にナースの母が集中力よりも偏執性を感じ発達障害や自閉症の診断を受けましたところ、
「婉曲した表現や比喩的表現を理解できる」ので、障害にあたらないと判断され病名がついていません。高次機能障害の診断になっていません。
これがかえって生きづらさの原因になり、田井中は「普通」を目指した特訓を小学生の時にしました。それを知ったクラス委員長の女子が協力を申し出て、人の輪の中に入れるように誕生日会へ誘います。誕生会の場には委員長の両親もおり、子供たちにちょっかいをかけた父親から田井中は不興を買います。そうして何度目かの「子供らしくなりなさい」を田井中は聞きました。
この父親、関西弁を使っていて(笑)おるよ、こういうおっちゃん。私も身近にいました。
そもそもがおっちゃんの中に「子供」のイメージが固定されていて、自分が楽しめる程度に加減の利く相手を「子供らしい」と認識するおっちゃんは、私を矯正しようとしましたから。どっちが「子供」やねん、「大人の対応」で乗り切れてない。「習うより慣れろ」とばかり私を扱ったおっちゃんは、居合わせた奥様やご近所さんや子供たちを一斉に「あ”ーー」と叫ばせ、理不尽さの怒りに耐える私の横では弟が懸命に慰めていました。場の空気を乱したおっちゃんは気まずそうに、「知らんかったんや、ごめんな」と謝っています。

どうしてかような違いが生じるかとなれば、
「集合的無意識」がマジョリティと違うからです。
いわゆる「群衆心理」とも呼ばれる潜在意識。
私の場合は違うことをなんとなく察しており、おそらくは幼い子ほど「集合的無意識」がまだ育っておらず主張一辺倒になり泣いたり怒ったり忙しく、親は難儀するところへ私が介入できるからです。介入して親子の橋渡しをするので、お母さん方には「目立つ」ことより「役立つ」方へ認識が固定されます。
そこを田井中は自己顕示欲を満たすため、自分のために使うので「変わっている」面ばかりが印象に残り、ナルシズムを指摘されます。

まず乳幼児は「伝わる」方へ好んで行くし懐くし、主張がすべて通せるものではないことを教える重要性はあります。その重要性の段階を踏む、ステップの高さなど大人と子供では認識の差があり、大人は意図せず「集合的無意識」があるものとして子供と対峙するので、特に乳幼児は拒絶を感じやすいのではありませんか。そこの齟齬を埋める努力が望ましいけれど、そうするためにはまず乳幼児を理解し受け入れる必要があります。学校では、こんなことを教えません。

実際、学生の頃でも誰かと一緒に神域の深い場所へ散策に行くと
私は神威や霊の存在、またマイナスイオンなどを感じ取り体感温度が下がりますけれど、それを述べたら
「そうかな?あんた、風邪ひきかけてるんちゃう」
かような返答がありました。私ならこれ以上は話題にしませんが、田井中なら同調や理解を望んで食い下がりませんか。
人は、自分の目で見えるものや、自分が感知すること以外は「存在しない」と潜在的に判断します。似た感覚の持ち主が集まれば、それが「場の集合的無意識」として「同一の存在感を察知する者の集合体」になり、感覚の違う者を否定することで自己肯定感を高め安心を得る状態。そうすると「似た者同士」が集うほど空気を読む必要が低くなり、情緒が安定しやすくなります。鈍感化しませんか?

こうしてマジョリティは正しい社会が構成され、
マイノリティを矯正する必要性を説き、
感覚的な判断が正解と認知されるようになりませんか。

偶然一緒になった通りすがりのような関係の人からは
私も「群衆心理」が理解しがたいので反感を買いますが、友人は素で相談していることを知っているので真面目に回答をくれます。親は田井中に近いので、相談できません。
だいたいに於いて、ナルシストは最愛の自分が出し抜かれないように「自己顕示欲」を感知するアンテナを立てており敏感に察し、協調よりも優先して叩きあい、批判合戦が起こるのでしょう。きっと、ギャップの原因なんて考えようともしませんから、擬態して表面的に揃えるのではありませんか、制服のように。
制服を纏えども内側の「自己顕示欲」が消えるはずはないのに。

作品においては、
クラスのいじめっ子男子と委員長の父親は共に
「様式美」について論じていて、これぞ茶番劇。
セオリー通りに動いたらおもしろおかしい笑いが起こり、予定調和があらかじめ設定されています。大前提にある予定調和から外れる子供を「らしくない」「ダメっ子」と断じていて、世代を超えたコンセンサスが発生しています。違う時代を生き、違う環境で暮らしたのに、なぜですか?
これが常識であれば、新しいものを生みだせるはずがないと感じませんか。マイナーチェンジ程度になり、革新は起こりません。

現に、田井中がおもしろいことの定義について、解釈違いを気づく描写が

「interestingじゃなくfunnyの方か」になっています。