この事件、

先生方が教室内で告げている内容を

どう思いますか?

 

先生がして欲しいことばかりを喋っていませんか?

要求する大人たちと、応じられずショックを受ける子供たちと、

これを異常事態と感じるかどうか。

 

いろいろおかしな点はあって、

先生たちは相手を嘲って楽しい感覚があり、

要求が通らなければ相手を非難して、

幼児ができるような方法を考える工夫すら放棄しています。

その結果、恫喝したり嘲弄して子供の精神面を破壊していきます。

 

たぶん、子供が泣いたら先生が勝った感覚を持ち、快感を得るのだろうし、

それを『底意地が悪い』とは考えないのでしょうけれども。

そうなれば自己嫌悪する機会はなく、要求を通せる自分の強さに惚れ惚れするのでしょう。

こうして天晴れなほどの『自惚れ』が起こります。優しさや節度が存在しますか?

目の前にいる敵生体を排除することに夢中の精神構造は、どうなっているのでしょうね。アドレナリンが出すぎてる?セロトニンの再受動が機能障害を起こしてる?そこへ、みんなを巻き込もうとしてないかい。そして他人から“癒し”を得る奪い合いが起こりませんか。

 

これは、この保育士たちだけの問題ではなく、

私が園児や児童の頃から、学校でもよく見かける風景でした。

幼心にも、非常に気持ち悪さを感じて、園や学校が嫌いになる一因でもありました。

 

先生方の指導によれば

『みんな仲良く』と告げつつ、先生自らの行いは底意地の悪さを見せており、

言動と行動が一致せず、信頼関係など築きようがありません。

信頼関係がないところへ『素直さ』まで要求して、従順と素直の区別もついてない大人が、さらに『尊敬』まで要求してきます。

 

結論として

『いいね!』を望む慟哭に見えておりました。

 

こういう大人および先生に『教育者としての自覚』はあるやら、また許認可を与える人々に『見る目』はあるやら。

できると信じるのは勝手ですが、現実や事実を目に留めているやら、

意味のわからないことばかり。

 

実際、このタイプの先生のひとりが塾で再就職の講師になっており、

私は嘲弄のターゲットには入っていませんでしたが、

気持ち悪いので接触しないように避けていたら、

講師が塾長に「スルーされてる」って泣きついた模様。

塾長から私へ直接「天使の気持ちはわかるけどw」と前置きをした上で、

「彼もいろいろあって大変だから、もうちょっとだけ優しくしてあげてくれない?」なる相談を持ちかけられました。

 

だって、この講師とどうやって会話したらいいやら私にはわからないし、

この講師の授業よりも講師が嘲弄する男子たちの説明の方がわかりやすくて、男子たちが落ち込むと私が困るもの。

二度手間なんです。男子たちの心を健やかにしてから、説明してもらわなきゃならなくて。

どれほどの他人に迷惑が及んでいるか、講師に自覚があったやら知りませんけれども、少なくとも塾長は影響を気づいていたし。内部事情として塾生が倍以上に増えた時期でもあり、猫の手も借りたいほど講師不足だったと思います。

私って、塾生ながら『猫の手』くらいのポジションだったのかしら。授業料を払う上に精神的苦痛まで味あわねば学びを得られない環境は、意味がわかりません

 

このように塾では少なくとも塾長の理解が深く、私の特性を伸ばす方向に男子たちへ説明もしてあり、

園児の頃も園長は同様の人柄で、運動場へ行かず本を読む私に微笑みかけてくれました。

たぶん、担任など先生たちからは集団行動に応じない私へ不満の相談は受けていたはずです。親が担任から言われて、従うよう文句を言ってもおりました。

 

幼子へ“できない理由”を話すように要求したところで、

大人すらわからない自分の事情を子供が説明できるはずはありません。

また、子供のわかる範囲で説明したところでイメージの齟齬を埋める手段を子供は持っておらず、大人が創意工夫して理解に務める努力を放棄したら、未来永劫にわたり溝を広げます。

未成年や児童が大人の事情を与する(くみする)、意味のわからないイマジネーションを喪った大人社会の世情。

 

本ばかり読む私へ「悪い子」の一般評定がついた昭和時代。

指示通り、指導に従わない、みんなと仲良く遊ぼうとしない子と言われた時代が昭和。

講師や担任といった一般労働者が長の指導や説明に従ったやら知らんけど、子供を苛めて楽しい大人がいたことは疑いようのない事実。

そうしたら、リンク先で紹介される事件の当事者な保育士たちは『新人類』に該当しますか?旧態依然にあたりますか?

 

今さら、平成や令和になってから『朝の読書習慣』を設けてみても、

ポヒュリズムに傾倒する人を変えようがないとも感じます。読み方を説明できる担任がどれほど存在するかも不明ですし、学校ばかりの問題にはできないも感じます。

集団行動する者が素晴らしい人格であり、指導者の言いなりであることが『素直さ』の評価基準になり、いつ個性が必要とされるやら皆目見当もつきません。

 

このようなストレス社会を描いた作品がこちら

 

 

児童相談所スタッフのひとりと交流のあった学生たちが、交流のきっかけから当時の感想を通して、現在の心境を語ります。

さてふたつの死亡事件はなぜ起き、どうすれば未然に防げたのでしょうか。いったい、この地域では何が人々を苦しめたのでしょうか。