前のブログを書いて以後、

“ひきこもり”と“犯罪”の因果関係を考えてみるのですが・・・

数日前に事務所解雇の報道があった俳優の木下ほうか氏。性加害者として告発を受けメインフィールドの映画界からも「観客から風習と思われたら心外」などの声があがり、反感を買って現役引退を公表なさっています。この方は引きこもりではないし、一般社会と交流を持ち仕事もあり多数の現場で活躍されていました。その方が加害を認めています。過失やら失敗やら事故やら、私は詳細を知りませんが。

このように、ひきこもりであろうがなかろうが不満を持つ人や罪を犯す人は存在するので、発言した園長がロジカルシンキングをしない人ではないかしらん。

 

私はロジカルシンキングしない人の中でもしない自覚のない人に子供を預けることはとてつもない不安があり、

避けてきたので子守り希望する方からは可愛げのない女に映るかもしれません。

園長の論は、宮崎勤事件報道の印象が根強いのかもしれず。この事件の原因は“ひきこもり”ではなく“陰湿さ”と“偏執性”です。すなわち、自己中な人。原因を間違ったら方向性も狂いますね。正確な解釈をしたり認知をすることは、それほど難しいのかしら。

 

 

 

さて、タイトルはドラマ化もされている東野圭吾作品。

書籍の無料試し読みができないので、映像版をどうぞ。

 


そして、バトンは渡された 

こちらの作品を読みながら、思い出した東野圭吾作品。どちらの作品も、血縁のない父娘関係が描かれています。

これが時代の流れというものやら世代の差かしらん、共に娘の幸せを願う父親像ながら親の描写がまったく違います(´・ω・`)/

みなさまは、どちらの描写に共感を覚えますか。

 

事の経緯は、どちらも継母の独断で行われました。

そして、バトンは渡された→合法的誘拐

カッコウの卵は誰のもの→火災現場で赤子だけ連れ去り

 

合法的誘拐の意味は、

実父から娘へのエアメールを隠蔽して不通にしたから。

このご時世、スカイプやラインもありながら連絡手段がエアメールひとつのドラマ。娘と音信不通になっても帰国し探し直接に会うことをしない実父像が、私にはおとぎ話に映ります。養育中の親からいかように説明を受けても、実父ならば時が経てば経つほど会って声を聞いて子供の真意を確かめたいと思わないものでしょうか。

いつの間にか再婚した実父は、娘の結婚式に継父から呼ばれ再会します。たやすく親権を手放したものです。

 

一方の『カッコウの卵は誰のもの』、

オリンピック候補だった父親は、同じくオリンピック出場を目指す娘のトレーナーを務める現在。その娘の遺伝子を解明したい研究所は、バックアップする大手企業の潤沢な資金を示し個人的なスポンサー活動を提案します。そうしてメディアを通し娘の姿を世間が大々的に知ったことから、また想定された遺伝がないことが判明したことから、血縁関係へ疑いの目を向ける人々が現れるミステリー。

当の父親は、妻の遺書から血縁がない真相に気づいていながらも変わらぬ愛情を注ぎ娘の夢を叶えようとします。継娘がオリンピック候補に選出される過程では継父に事件の容疑がかかるなど、ふたりでトレーニングしていた頃とは環境が様変わりし父子を翻弄します。

 

実父や継父はそれぞれ社会的な立場が違いますし、もちろん現在の生活環境も違います。

ただ、誘拐した継母の罪悪感はかなりの大きな差があります。

片や生きていられないほどの心身もう弱を起こし、

片や関係を維持するために子供を道連れて奔走します。

ちょっと小室氏の親子関係も彷彿とします。

「ご支援いただいてー」こう話す会見の映像はテレビで何度も見ました。

 

親って、どれが正解でしょう???

実際の世相と作品への傾倒の間にギャップを感じるのは私だけでしょうか。

ともに父子家庭をテーマにした作品であり、イクメンな継父像が描かれます。子供に興味がない、自分だけに興味を持つ親は論外な様子。

 

子供の代名詞が“バトン”になる現代、

“神輿”は死語の印象。

子供はリレー中継により育つみたいよ。“たらい回し”や“スライド(乗換え)”も死語なよう。父性愛のメカニズムは解明されたのかしら。

 

いつの頃からかハーレム状態の作品が増えました。

これも時代の流れかしらん、

マリリアードやルシファードのようにハーレムの中心人物が夢に携われないほど多忙を極める作品は読み応えありますけれど、

終ソンや鼓ケ淵や間の楔のような、対面して向かい合い両者の間でさまざまな溝を埋める作品にも再び脚光を浴びる日がきますように。