2004年

山ちゃんと「パリパリポリパリ」を結成してから
毎日のようにネタ合わせをしてました。

当時はM-1グランプリは4年目を迎えたころ。年々参加者が増えるM-1はまさにブーム。
それから確か2、3年後にエンタの神様、レッドカーペットブームがやってきます。

僕たち若手は東京吉本の総本山、ルミネtheよしもとのレギュラーの座を狙い、

凌ぎを削りまくってました。
来るべきお笑いブームに乗るために。

毎日毎日ネタ合わせをしてました。

大袈裟に聞こえるかもしれませんが、
本当に毎日してました。

バイト先を同じところにし
バイト前にネタあわせ。
バイト明けにネタあわせ。
バイト仲間みんなに新作の漫才も観てもらってあーだこーだ言ってもらってました。

山ちゃんには自分の近所に住んでもらい、(大阪から上京してきたからね)

近所の公園でネタあわせ。
深夜もネタあわせ。

声がデカすぎてお巡りさんがきたり
ベンチに座っていたカップルに声をかけられ、そのままネタを見せたり。

とにかく毎日ネタあわせをしてました。

生活の全てをネタあわせしやすいような環境に整えました。

休みらしい休みがあったか覚えてません。

当時私は、振付師 ラッキィ池田さんのアシスタントを務めてました。

先生は夜中にダンススタジオに篭り、朝まで振付を考えられます。

朝5時ごろに終えると少しだけ仮眠をとり、そのまま別の仕事に出かけられてました。

当時先生は45歳?ぐらいかな。めちゃくちゃ元気でした。

肉を控え野菜を多めにするなど食生活も気をつけてらっしゃいました。

すべてはエンタメのため。

僕はそれが芸能生活というものなのだと思ってました。


2007年ぐらい。
ダイノジさんのところに私は入ります。

夜中、朝までイベントの稽古。
朝までオールナイトでイベント。
くたくたになったあとも
ダイノジさんはそのまま地方営業など行かれてました。

当時のダイノジさんさ35歳ぐらい?

めちゃくちゃ元気でした。

休みなんかなかったんじゃないでしょうか。

芸能、てのは費やした時間だけしか見返りがないもんなのだと思ってました。

僕たちBANBANBANもネタあわせを続け、

喧嘩もし、

紆余曲折しながら、
結成3年でようやく
若手のランキングを勝ち抜き、

ルミネtheよしもとのレギュラーの座までたどり着きます。

ただ、レギュラーの座を勝ち取った次の月から若手育成システムが変わり、

ルミネの本公演にBANBANBANで出ることは未だありません。

それからも形を変えながら我々は我々なりにエンターテイメントと向き合ってきました。

フリーザになり
アニソンDJになり
お掃除を始め
歌を始め、、、、

未だ未だ渦中です。

報われてない努力は努力ではないです。

まだ全然努力が足りてない、てことなので

今日も頑張ります。


どれだけエンタメに一日を使ってるかな。

何を観て
何を発信したかな。

頑張ります。

いつか報われるその日まで。

未だ渦中。
未だ未満。
未だ売れず。






悔しいなぁ。

足りんなぁ。