ユダヤ資本陰謀説は左翼のプロパガンダ
ロスチャイルド家はユダヤ迫害のロシア帝国と敵対関係となり1854のクリミア戦争では英国とトルコを資金面で支援した 相次ぐ戦争やライバル会社の出現により19世紀後半には衰退し始める 20世紀初頭には衰退の一途となり実際の財力より名前の威光が先行した 左翼が台頭した頃には「民間資本による悪の支配」として左派プロパガンダの材料となった
第一次大戦後の税制変更期に莫大な相続税が課せられ分裂の危機となる
★ユダヤの解放と受難
1781オーストリア宗教寛容令発布 1796ナポレオンのゲット~解放 1878ベルリン条約
1894フランスの冤罪事件  
1902ロシア秘密警察がシオン議定書捏造 → 民衆のユダヤ排斥運動と虐殺を誘導
1917ロシア革命 シオン捏造本が世界的に流行 1928ソビエトはユダヤ民族区設置
1930以降 ヒトラーは社会党指導者の反ユダヤに感動し左派民族主義の正当性を大いに宣伝
ユダヤ系企業の財産は没収されユダヤ人の自由は制限される
左派権官メディアによる扇動は中東>イスラエル
陰謀説の嘘ユダヤ総人口1300万人(迫害の少ないアメリカ570万人 日本は数百人)
知能の低い「陰謀説の扇動者や信仰者」が日本に多いのは左傾化している証

★ヤコブ・ヘンリー・シフ (実業家/生まれはユダヤ教徒の家庭)
1865ドイツから無一文でアメリカに渡りクーン・ローブ商会に就職
1885銀行頭取に就任  民間経済の発展やロシアでのユダヤ解放に尽力した
1904日露戦争 高橋蔵相の求めに応じて戦時国債を購入 天皇から勲章を授かる

1920年代には社会主義勢力と左派メディアが国内不況に乗じて台頭し始めた
1927 国民革命軍が上海と南京を占領  革命軍の背後にいるソ連の策動が拡大
北京では張作霖の指令によるソ連大使館の捜索が行われ武器や宣伝ビラなどを押収
蒋介石は国民党内の共産勢力を排除し 革命軍の武装解除と検挙を強化し始めた
1928/4 蒋介石は国民党軍を改変し北伐再開  張作霖と張学良は追い詰められる
※後に蒋介石の赤軍打破が鮮明となり 華北左派勢力と関東軍は裏で連携を推進 
関東軍参謀は反共政策を強化した張作霖と国民党軍の連携合流を警戒し始めた

張学良の矛盾と変節は左翼民の特徴  「華北左派勢力と関東軍の連携」    
1928 奉天軍閥の張作霖  関東軍の爆破事件で爆死 (20年代後半の張は反ソ反共)
20歳のときに訪日した長男の張学良が父の財力と支配地域を受け継いだ 張学良らは北京の国民党政府に対して満州への政治・軍事の不干渉を認めさせ満州地域の独立状態を確保した また爆破事件前に悪化していた日本との関係を改め 奉天領事だった赤塚正助らと通じて50万元を日本の左翼政治家に献金した
1929 張学良の新体制は 張作霖の旧臣らを反逆罪として処刑し権力基盤を強化
その一方で日本と満鉄などの利権が一致する于沖漢張景恵ら現地有力者を見逃した この左派共同体主義の現地有力者らは後に日本と共同で満州国を建国し要職に就いた 
※張景恵は奉天軍閥の重臣 1932東北行政委員長 参議府議長 1935国務院総理大臣
関東軍の石原莞爾は 満州国の理念を在民に指導した于沖漢を建国の功労者と絶賛した
1930/5 間島の共産暴動 中国共産党の支援を受けた地元の左翼勢力が武装蜂起
1930張学良 華北進軍前の国民党軍に服従
張政権と国民党政府満鉄の回収と関東軍の撤退を公言  日本や東北左派勢力との関係は急速に悪化した    また日本から武器を持ち込んだ朝鮮労働党による武装策動が満州各地に広がり 国民党弱体化を狙う中国共産党も支援した1930/4
1931/7 日本政府は間島で鎮圧された朝鮮人を万宝山に入植させるが 地主の了解がない左派入植者は中国の警察に逮捕され入植工事の中止を求められた
1931/9 満州事変 
張学良は日本の侵攻を傍観し 軍事抵抗はしないとする彼の指令はよく守られた
事変後の張学良はアヘン中毒の治療をかねたヨーロッパ歴訪でゲーリングやムッソリーニと面会した
  (以下wiki) .....関東軍の本庄繁は張学良と親交があった。事変後、奉天に残された張学良の財産を2両の貨車に積み、北京に逃れていた張のもとに送り届けた。しかし、張は「この荷物は受け取れません。本庄さんと私は親友でしたが、今では敵同士になってしまいました。こんな風にしてもらうのは、侮辱されているようなものです」と受け取りを断った。しかし、関東軍参謀だった片倉衷によると、張の送り返した荷物は関東軍の元にも戻らず、行方は分からなくなってしまったという.....
※張学良は左派勢力に利用されただけなのか それとも事変前後の不可解な行動は満州アジア共同体(左派)の共謀建国を隠すための偽装演技だったのか? 謎は残る
事変当時の関東軍司令官が「完全な敵となった張学良」に貨車で財産を贈る行為は異常だが 張学良は左派勢力に寝返る可能性が高い逸材であり公認されたようだ
↓再び赤へと変節
1934 張学良はヨーロッパから帰国  同年11月に共産党の周恩来と面会し停戦合意
1935 蒋介石に対する軍事クーデターの疑いなどから現職を解任させられた張学良は同年の12月に蒋介石を拉致拘束し共産党との連携を強制させた (西安事件)
後の中華人民共和国では 張学良を「千古の功臣」などと呼び高く評価された


国家資本を基軸にした左派共同体主義と民間資本を基軸とした自由資本主義の対立
満州国
日露戦争後にロシアの満州鉄道を国家資本として獲得し共同体国家の基盤とした
★1930年代の河豚計画(ユダヤ移民とユダヤ資金の獲得)は1941に中止となる 
...ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは日本にとって非常に有益だが、一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えた(フリー辞典)
1934鮎川 義介はアメリカ資本誘致計画を発表 (日産グループ実業家/政治家)
1937鮎川は関東軍の求めに応じて満州重工業開発を設立 (日本産業を満州国に移す)
同年に国産工業と(株)日立製作所を対等合併させた
(公家化した鮎川は満州国の軍・官・財界の実力者弐キ参スケの1人となった)
★満州国移民計画  国内から数十万人の開拓人民が極楽王土の満州に移民した
漫画のような開拓団を指導したのは移住責任者の加藤完治 業務は満州拓殖公社

★満州国への日本の投資計画  「1933満州国経済建設綱要
「我国経済の建設に当たりては、無統制なる資本主義経済の弊害に鑑み、之に所用の国家的統制を加え、資本の効果を活用」するとしており、当時、世界恐慌の影響を受けず重工業の生産高を増やしていたソ連型の計画経済を指向した...(フリー辞典)
戦略物資は満州国と満鉄が出資して設立した特殊法人に独占を認めた
1936 総額26億円を投資する「満州産業開発五カ年計画
鮎川義介は投資機会をアメリカなど外国に分配することを求めたが外国の影響を嫌う関東軍に拒絶される  特殊法人の独占は戦略産業から産業全般へと拡大した

★日本政府は満鉄を警備する軍を守備隊として進駐させた
昭和6/9  奉天市(中国東北軍の拠点)郊外の柳条湖付近で満鉄の線路が爆破された
自作自演の首謀者は作戦参謀の石原莞爾と関東軍司令部である 
※アメリカは満州権益の均等化と市場開放を企んでいた 石原莞爾の反米扇動の目的は左派共同体国家に反する満州への民間資本導入の阻止だった  
(満蒙解決方針)...対満外交は即チ対米外交ナリ 満州領有の目的を達するためには対米戦争の覚悟が必要である...
鉄道爆破後に中国東北軍の奉天城を攻撃 (9.20東京日日新聞 責任は支那にあり)
北京にいた張学良は国際連盟に提訴するため現地部隊に抵抗しないよう指示する
関東軍の暴走を見抜いた日本の中央司令部と内閣は「不拡大の方針を決定」したが朝鮮軍司令部は勝手に満州へと侵攻(日朝合同軍)した  
若槻内閣はやむおえない事態として満州出兵を事後承諾する...(9.23日日新聞)
(進軍失敗の場合は責任回避)

左派マスコミは満蒙の権益確保は日本富然の主張「新満蒙の建設」などと宣伝した
アジア共同体の建国は「誰かがやってくれるだろう」との期待と雰囲気があった

昭和6/11.19満州チチハル占領 昭和7/1.3錦州占領 南下後に北京郊外へ進軍
中国の植民地を死守したい欧州列強は満州事変拡大を傍観した
満州への自由資本導入を計画したアメリカは動揺 現地のコーラが高くなるからだ
「これは侵略戦争である(スチムソン国務長官)」
昭和7/3.1清朝皇帝を迎え満州建国を宣言 4.20満州に英国のリットン卿(調査団)

昭和7/1.18 上海の日本人僧侶が中国人に襲われ死亡      
(満州事変の目を国際社会からそらすために一部の左翼軍人が画策したとされる)
第一次上海事変により日中戦争勃発 上海から中国軍を排除する
昭和7/5.5上海で停戦協定締結 5.15襲撃事件 犬飼内閣は崩壊
昭和7/10 国際連盟は満州の特殊権益は認めるが軍の撤退を勧告
斎藤内閣は勧告の処理に紛糾しマスコミ世論は政府の弱腰を一斉に批判した
昭和8/2国際連盟 満州の撤退決議案可決(44カ国/42カ国が撤退支持) 外相脱退宣言  1933/1(昭和8)ヒトラー首相就任 1933/3ルーズベルト大統領就任 
昭和9 日本政府はワシントン軍縮条約破棄を通告  
昭和10/2 高橋是清(議会)...朝鮮銀行の円発行を日銀券に統一したい
昭和10/6 
関東軍参謀は金融的に北支を支配し国民党政府を倒すよう板垣副長官に進言  
昭和10/11 国民党政府 統一通貨制度を発令(元)
昭和11/2.26事件  高橋蔵相暗殺 
昭和11/11日独防共協定 両国の共同体国家建設の野望と熱狂は連携後に増幅した
昭和12 華北の中華民国臨時政府 
日中合同の連銀券発行 アヘンの連銀券使用を指示  
昭和12/7北京近郊で夜間演習の日中両軍が戦闘状態(近衛内閣は8月に派兵決定)
11月/国際連盟承認の国民党政府を攻撃 南京陥落後の蒋介石は武漢に撤退
昭和13/1月 「今後の帝国政府は国民政府を相手にしない...(風見内閣書記官長)」
快進撃の大歓喜の最中に国家総動員法成立 国民の賃金を国が統制し倹約を奨励した
近衛内閣は汪兆銘(左翼政府)の支援などアジア共同体国家の構想を内外に表明
1938(昭13)ナチスオーストリア併合 1939ポーランド占領 アメリカ世論は中立
1940/5(昭15)ルーズベルト アメリカ太平洋艦隊のハワイ常駐決定
1940/9貿易制限の日本はハノイ周辺に進軍し援蒋ルートを遮断 3国軍事同盟締結
昭和16/7日本海軍は南方トラックに第四艦隊司令部を設置し拠点とした
(日本海軍/戦艦10/空母9/巡洋艦18 アメリカ太平洋艦隊/戦艦9/空母3/巡洋艦13)
軍事力では勝てる相手だったが卑劣な軍事作戦はアメリカ世論を大きく変え本気にさせた 外資の排除を誘導して民間経済を衰退させたのは低能な左派共同体であった 


●1942/2シンガポール攻略 イギリス司令官に降伏を迫るイエスかノーか」
新聞や宣伝フィルムで脚色された山下大将の強圧的なシーンはイギリスに対するものではなく手際の悪い台湾人通訳に苛立ったものであった...(フリー辞典)
★「メモリー・アット・オールド・フォード・ファクトリー」 
山下大将とパーシバル将軍の会見場に使われた部屋が当時の姿に復元されて保存されている
※フォード現地生産 イギリス1911  日本1925  オーストラリア1926  ドイツ1931
1936自動車製造法により国内資本50%以上の企業が保護されフォードは操業停止となる
ナチス政権下のドイツ工場は国有化された 

★シンガポール占領後の「華僑粛清」 裁判では6000人とされるが不明瞭な点が多い
当時の警備本部(篠崎護) ...この命令は辻政信が立案したと証言した
辻政信 (wiki)
1936/9.... 「満州帝国協和会の根本精神」なる声明がパンフレットとして、石原信奉者であった辻政信大尉(関東軍参謀)の筆により出された。法令により直接に規定する根拠がないのに協和会を共産党のように政府をも指導する機関と規定し、さらに関東軍司令官を“哲人”と書き、大問題となった..
......終戦後の辻は当初自決を覚悟したが、やがて「アジアの中で民族の再建を図るために、むしろ生きてアジアに俸する」決意をする。そして僧侶に変装し、さらに自殺偽装をして中国への亡命に成功した...
帰国後に国会議員となった辻は北ベトナムのホーチミンに会うことを望んだ
1961参議院に休暇を申請し日本を出発したが再び失踪した  1968に死亡宣告

★1942占領後の市長は 内務官僚の大達茂雄 多くの官民が送られ軍政が敷かれた
(大達市長は1943/7に東京都長官に就任 1944内務大臣として入閣)
公金依存の左派権官は内外に溢れていた 受け皿を増やすための戦いでもあった
※その他一例 東京地裁判事「武藤富男30歳」 満州国へ赴任後の年棒は6500円
大審院長(最高裁長官)の俸給と同じであり 現地の民間搾取による官公労優遇が図られた