どんな人が周りにいるか、これはかなりでかい。
自然と刺激を受けたり、ぐずぐずになったりする。
まわりにいる人が今の自分の写し鏡らしいが、それ以上な気がしている。
間違いない。それ以上。
ただ自分の思うようには進まず、果報は寝て待ての寝て期はある。
さまざまに辛かったが、続けたのは褒めよう。
ひとりで寂しかったのが発端だが、仲間へ声をかけ、
自分の満足を超えても、活性のために声をかけ続けたのは褒めよう。
今日はやらなきゃいけないことをせずに、ここに書きにきた。
やらなきゃいけないことは、せずともよいことだったのかもしれない。
した方がいいことは確かにあるが、きちきちきちーっとしなくともよかった。
自律はしたいが、中身ではなく枠ばかりが立っている。
今日は無印良品にいって、買い物をしてきた。
金曜日で暖かくなり、人でも増えたのか。
きりきり、歩く速さ、スーツ姿、ここにいたのに、いちいち驚くのだ。
社会がノートだとしたら、余白で生きているよう。
10代の時、ノートの余白にらくがきをよくしていた。
授業はろくに聞かずに、ぼーっとしてたのだ。
それでも生きてこれた。
また余白に落書きをしてひとり過ごす、高校時代のスケールアップ版がいまだ。
これがいいかどうかなどわからないが
ただ思い出している、わたしってこんな風に時間を過ごしていたと。
そして休み時間になれば、友達が入れ代わり立ち代わりやってきて
ペンケースの中身をみながら、ちらりほらりとおしゃべりをした。
なぜそうして生きてはいけないのか、それはダメな生き方なのか。
そうかもしれない可能性はゼロではないが、
ダメと意味づけたなにかはわたしではなかった。
だから一回おもいっきり緩めて、そのように過ごしたらどうなるかやってみることにした。