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4月17日がきた

 

あの事故から早いものでもう9年目になる。

 

退院して、色々整理がついて書けるようになってから、この日にはその時の出来事はもちろん、感じたこと思っていることをブログに書いてきた。

 

毎年この季節は桜がきれいだが、三寒四温による季節の揺り戻しや、1日の気温差が大きく、春の嵐も何度もやってきて、調子の悪い日が多い。

そのことも毎度のように書いていたようだ

 

昨日の強風、夜半から明け方までの激しい雨の後また初夏のような陽気となり、

それでまた雪をまとったであろう穂高をバックに下界は桜は散り際になっている。 

 

これまでの8年、日々を過ごすうちに確実に良くなっていることを感じることもあるが、変化のないこと、むしろ前よりできなくなっているのではないかと感じることもある。

良い変化を感じているときは明るい未来が見え、そうでないときには抜け出すことのできない暗いトンネルの中か、上がることのできないどん底にいるかのように感じる。

だから、これまでの時間はなかなかハードなものもあったが、そこでつぶれてしまわないようにするため、自分というものは何か?生と死というのは何か?

ということを考えることがきっかけで、身近な木や草や虫などの自らのためだけでなく周りのものと調和された自然の営みから、人間が生きるということはどういうことかを考えてきた。

そして、ただ土の上に寝転んで、

人間の、自分の意識というのは草木や虫に比べて全く不自由なものではないかと感じた。

意思を持つ人間は、自由と幸せを感じることが生きる喜びであって、それを阻害するのも人間の持つ利己的な意思ということが解ったのだ。


これは大発見だった。できるできないではなくて、したいという思い込みが叶わないのだった。

それによってこの怪我で、以前できていたことで、できなくなってしまったものが多くあることへの気づきができたからだ。

そしてできないことを知ることはできることを知ることだった。

 

確かに車の運転はできない、左手の障害もある。それは失ってしまうということではなかった。

歩くことができる。それによって移動できることの価値の大きさを知った。

自分の運動能力の限界点が以前ほど高くないことは、それを知り限界点ぎりぎりに近づけることの可能性が高く喜びを得られる無限の広がりを知った。


前進を喜び、停滞や後退を嘆く感情に振り回されず今できることに全力を注げることを心の底から喜べるようになったのだ。

それから月日が過ぎ、大切な家族や友人と過ごしていく時間を通じることで、事故を起こして障害を持った人間だから、こうしなければいけない、またこれをしてはという自分の思い込みから自由になってこられた

 

さて、8年が経ち何をしているかというと。

性懲りもなく野山を這い回り岩に向かっている。

 

コロナ禍の前に出会い、コロナ禍の間はできることに取り組み力をつけ、ようやく弱点のラインを登ることができたこの岩。

次は別のラインを登りたい。

 

 

 

そして、地主さんに立ち入りの許可をもらった岩の調査と掃除。

取付きまでも道が悪く急な斜面のなかなかの登山で、積もった落ち葉は雪よりも不安定なので、ピッケルが欲しいくらいだ。

そこから終了点にできる木立に横を巻き登る。

落ち葉の堆積した急登はルートファインディングも含めかなり難しい。予想は外れて、懸垂したり、なんとかたどり着きロープをフィックスし下ったものの、届いていないため登り返し延長用ロープを結んでようやくフィックスが完了した。

予想以上の壁の大きさは嬉しい誤算だった。

 

 

 

 

もう二度と事故は起こせないし、せっかくいただいた許可を取り消すようなことはもちろん望まない。

自分のできること、できないことを把握し、安全に作業を完了できた。充実した疲労感だ。

目覚めた日に向かって作業が少しでも進めばなお嬉しい。

 

 

趣味の話 続き

せっかく近くの桜は見頃になったのだけど、すっきりしない天気が続きますな~

暑くなったり寒くなったりで衣替えも迷ってしまいます。

天気のせいと、仕事と所用があって、帰らずにいたけど、来週あたりには田舎に行って岩登りだ!

 

ということで、家にいるときはトレーニングの合間に趣味の時間です。

 

前のブログで書いていた彫金。

あれから、大幅に手を加えてこうなった。

 

 
 

 
 

 
羽を持つ二本足の物を作りたかったので、やっぱり大きい羽が大事だと思ったのです。

銀素材はもともと安くない上、値段が高騰してしまったので、前に作った物を融かして再利用。
 
フラックスやロウで不純物は増えてしまうのでしわがあったりムラができてしまうが、羽だけでも1ミリ近く、ボディーはそれ以上の厚みがあるのです。
ただ、アパートでは、銀の融解は危ないし、アンビルの上で叩いて伸ばす作業もできないのが難点だが。
 
そして、とっても観たかった映画を観に行った。


それからはレコードを引っ張り出してレゲエブームが到来。
 

次はレゲエの神様の映画もあるから当然一緒に聴く。

ボブ・マーリーの扇動的な激しい歌も好きだが、ジミーの優しい声から伝わる強いメッセージに深い愛を感じて大好きだな。

ボブ・ディランが史上最高のプロテスト・ソングといったVIETNAM、ライブではその時代の紛争地を叫ぶように歌っている。
somebody stop that war in
 

そこから、ローリングストーンズやパンクに広がり、やっぱりコメントがあるマーシーの作った曲に思いが広がる。

 



ジミーのSTRUGGLE MANという曲を聴いた時に何となく感じていた。あらためて聴くとマーシーの闘う男という曲は、ジミーの心をまさにカバーしたかのように感じた。

 

やっぱり、キヨシローも聴く

こうしてターンテーブルが回り続ける日もある。
 
 

 

 

春分の日

日が長くなったことを実感し、暖かい春の太陽のありがたさを心より感じるころである。

近所の森の中を歩けば、見えなくなっていた虫が見え始め、木の芽も膨らみ、大好きな季節だ。

ただ年々この季節の天候の不安定さも度を越して激しくなっている。

ありがたい太陽も、春を過ぎれば暴力的な暑さに変わり、もはや恐ろしく感じるほどになってしまう。

 

天気で自律神経に影響があるのか今年も例によってこの時期はよくない。

日誌やブログに書いたものを読み返してみても、春分の日の前からは調子が良くないという言葉が多い。


退院した次の2017年の春には怪我をして負った障害とそれによってできなくなったことへの気づきが得られる前で、

外的内的理由双方からの影響で、できることが増える希望が失われ、どん底まで落ち込むこともしばしばだった。

それにこの時間があったからコロナやら、ちょっとした病やらをやり過ごし、平穏な今があるのだ。

 

もちろんよかったことももちろん沢山あった。

やっぱりこの時期は暖かくなって岩登りに行くことができるようになったり、岩場で仕事を開始したりしていた。

最高の瞬間と感じた岩登りは去年のことだった。コロナの前から取り組んでいたボルダーを登れたあの瞬間は、コロナという障害もあったが、体一つでのやり取り、自分の自然というものを感じながらその取り組む時間そのものがうれしいもので、登れたうれしさもあったが、寂しさも同時にあったものだった。

あの感じをまた味わいたいものだ。

 

今年の春分の日も春の嵐の真っ只中、一日の気温差が大きく、日によっての差も激しい。

体も腰をはじめあちこち痛いし、調子が良くない時に、わざわざ出掛ける気がしない。

あちこちの体の痛みで眠りも浅く、寝起きには体が動かせなくなってしまって、荒れた天気に、外にわざわざ出ようと思えなくなっていないが、

どっこいだ。

 

この頃家でのトレーニングの成果は上がっている。毎日少しずつ強くなっている実感と目標に近づく手ごたえがあるのだ。

この8年の中では一番だ。

まあ、それであちこち体が痛いと言っているのだからアホだけど、

今できることに取り組んで、進んでも戻っても、常に今の一番を感じられたら幸せだ。

 

田舎はまだ真冬のような日が続いてるようなので、用事が終わって暖かくなったら、田舎に行って自然の中で岩登りをしよう。

 

さて、去年はWBCだった。今年はドジャースの開幕戦。愉しみだ〜