牛乳 ミルク | なんでも雑記

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牛乳アレルギーの人は乳糖不耐症である率が高いそうです。

牛乳は『アレルギー疾患ハンドブック』によれば食物アレルギーの原因の第二位

この乳糖不耐症は欧米人(いわゆる白人)には少なく日本人をはじめとした有色人種に多いといいます。

母乳を飲む必要がなくなった大人にとっては乳の成分である乳糖を消化する必要がないわけです。(これは人間でも動物でも同じ)。だから乳糖不耐症というのは大人にとっては当たり前の話なんですね。

ただでさえ授乳期をすぎても乳を飲むことはおかしいのに人間の場合は違う動物の乳を飲んでいるわけですよ。

http://www.artclub-sakura.com/health/milk

ミルクは哺乳動物が自分の子供を育てるために、その動物が自ら生産できる唯一の食料なのです。

メソポタミアで、「賢い人」という意味のホモ=サピエンスという私達の祖先が羊か山羊を、肉を獲得するために家畜化して、やがてミルクを利用し始めたといわれています。

牛の家畜化は約8,500年位前に中東(トルコなど) が始まりで、既に羊・山羊・豚などは家畜化されていたようです。

約6,500年位前には牛に犂(すき)を引かせる農耕方法が誕生して肉や牛乳・皮などを生産していた家畜の牛が労働力として農業の生産力を向上させるのに役立つようになりました。

ローマ字のアルファベットの大文字のAを逆さにすると、牛の顔の形に似ていますね。
「A」は牛の頭部の象形文字から取ったといわれています。また、ギリシャ文字のα(アルファ)は牛を意味するセム語のアレフ(Alef)に、由来しているといわれ当時、人間と牛の間で切り離せない関係が構築されていたとみられます。

しかし、気温の高い中近東やインドなどの地域では、ミルクは腐りやすく、最初は神への捧げものになり、そして、王族や貴族の限られた貴重な飲料だったといわれています。

ただ、アラブ系の遊牧民の場合は羊を殺さずに栄養価の高い羊のミルクだけ利用することを、長い遊牧生活から自然に発見したといわれています。乳脂肪のクリームはバターに、残った脱脂乳は自然に乳酸はっ酵させたヨーグルトに、そしてチーズの原型になった固い保存食の「ジャミード」などに活用しました。ミルク文化は、西アジアの広大な草原で遊牧民によって生まれ現在でも続いています。

その後、牧畜の発展とともに、ヨーロッパ、アフリカ南部、インドへとミルクの利用は次第に広がっていったのです。


仏教は、約2,400年程前にインドで釈迦が始めた宗教といわれています。
釈迦が太子であった頃、山奥で1週間に1食という絶食の厳しい修行に励んでいました。衰弱した体で下山して、尼連禅河(にれぜんが)で身を清めた後に、たまたま難陀婆羅(なんたばら)という長者の娘が一杯の牛乳を太子に捧げたそうです。

すると、牛乳を一口飲まれた太子は、これほど美味なものがこの世にあったのかと驚かれ、そこで悟りをひらかれたという話があります。

このため、仏教の教典には「牛より乳を出し乳より酪(ヨーグルト)を出し、酪より生酥(せいそ・そは濃縮乳)を出し、生酥より熟酥(じゅくそ)を出し、熟酥より醍醐(チーズかバターオイルのようなもの)を出す」とあって、醍醐が最高の美味とも書かれています。

醍醐という言葉は仏教用語で「仏の最上の経法」というそうでミルク文化と仏教が、深い関係にあったことがうかがい知れます。


日本人が搾乳や牛乳について知ることになったきっかけは、百済からもたられた医学書や経典と共に日本にやってきた牛乳の薬効や、乳牛の飼育方法が書かれた書物からでした大化の改新の頃に皇室に牛乳が献上され、その豊富な栄養素から「牛乳は人の体をよくする薬」として喜ばれ、献上した者に「和薬使主(やまとくすしのおみ)」という、医者として牛乳を管理する者という意味の称号を与えたほどでした。日本で牛乳が飲まれるきっかけとなったのですが、庶民の口に入るようになるにはまだまだ先のことでした。薬用として大事にされた牛乳は毎日2300mlもの量が皇室に納められました。酪農が広まると、「蘇」という牛乳を1/10に煮詰めたものが税として納められるようになり、貴族の間にも健康維持や病気の時の健康の回復に薬としてもてはやされました。平安時代も末期を迎える頃には「蘇」を税として納める制度もすたれていきます。

江戸時代に入ると八代将軍徳川吉宗は外国人獣医から牛乳やバターが馬の治療に良いとすすめられ、牛3頭をインドから輸入しました。千葉の牧場で飼育させ、これが現代の酪農へとつながっていきます。牛乳から作った蘇を将軍や大名の善に供え、滋養強壮剤としてたいそう珍重されたのです。江戸時代末期、外国人を見た前田留吉という人物が、外国人の大きな体は牛乳を飲んでいるからだと考え、牛の飼育と搾乳を手がけて販売するようになり、これが日本で初めての牛乳の販売となるのです。

文明開化と牛乳
皇室で毎日2回、牛乳が飲まれていると新聞で報道された明治4年。日本中にも牛乳の存在が広まり、牛乳を飲むことが広まっていきました。文明開化のまっただ中で、なにをするにも欧米の真似をしていた日本人、大名や旗本の屋敷跡で牛を飼って牛乳を売ることは、時代の流れとともに収入の無くなってしまった武士には恰好の事業となりました。牛乳屋を経営していたのは公爵や子爵で、大きな缶に牛乳を入れて牛乳配達員が各家庭を回って量り売りをしました。時代とともに、缶から瀬戸物びん、ガラスびんへと容器も変わっていきます。

1869年には初めて日本人がアイスクリームを製造販売するなどして、牛乳はどんどん日本人の生活の中へと入ってくるのです。