↑画像出典:THE FACT

先日、2/21(水)20:45~22:40、韓国tvNバラエティ番組「ユ・クイズON THE BLOCK」232回にパク・シニャンさんが出演されました。

「扉は開かれます」特集として、米国公認会計士からアナウンサーに転身したカン・ジヨンさん、現在は先月1/14にシニャンさんも出演されたJTBC「ニュースルーム」のアンカー。そして世界で0.1%しかいない女性一等航海士キム・スンジュさん、俳優兼画家のパク・シニャンさんの3人がゲスト。

この番組は・・・
>以下Mnetより部分引用
「ランニングマン」「撮るなら何する?」など、数々の人気バラエティ番組で司会を務める韓国の国民的MC ユ・ジェソク出演!売れっ子タレント チョ・セホと共に、あらゆる分野のスペシャリストに質問を投げかけ、トークを繰り広げる!
>引用ここまで

ユ・ジェソクさんMCのSBS「ランニングマン」に、映画「結界の男」つながりでオム・ジウォンさんと出演されたのは2013年。11年も前になりますね。

tvNは日本からは原則ライブで見ることはできませんが、放送直後にtvNのYouTubeチャンネル(tvN D ENT)に1本、番組公式チャンネルに3本動画がアップされました。リンクと関連レビュー記事をご紹介します。

1本目はtvN D ENTチャンネルで一番まとまっています。2~4本は番組公式チャンネル、ハイライトをそれぞれまとめた動画、部分的にラップしています。

過去出演映画やドラマの名シーンを振り返りつつ、現在は画家として活動されているシニャンさん、よい作品があれば演技活動に復帰するかもと含みを持たせた発言もあり。

動画(tvN D ENT 17分58分)はこちらから 
俳優で画家になって帰ってきたパク・シニャン自身の現場スタッフたちも一緒に泣いたという映画〈手紙〉のビハインドから俳優復帰かどうかまで!?



動画2本目(番組公式 17分10秒)はこちらから 


動画3本目(番組公式 7分13秒)はこちらから 


動画4本目(番組公式 9分57秒)はこちらから


尚、日本ではMnetでユ・クイズの日本語字幕付が毎週水曜22:00~(再放送は毎週金曜12:00~)に約1ヶ月半遅れで放送中。
今の放送予定のままであれば、5/8(水)22:00~となります。

最後に、番組のレビュー記事の1つをご紹介します。放送内容が網羅されていますので、動画の参考としてどうぞ~

>以下、オーマイニュースより引用(機械翻訳+調整)

[TVレビュー] tvNバラエティ番組「ユ・クイズON THE BLOCK」

「私らしく生きるために…」画家に戻ってきたパク・シニャンの告白

「私にあなたの罪が何かと聞かれたら、演技をとても頑張って、今は絵をとても熱心に描いていると言えるだろう。」 
「かっこいいためではなく人間らしくなるために、私が考える人間らしくなるために、他の方々もそうであるように最善を尽くしている」

俳優から画家に、常にその瞬間に最善を尽くして走ってきたパク・シニャンの人生の話が視聴者の共感を呼んだ。21日に放送されたtvN芸能番組「ユ・クイズON THE BLOCK」232回では、7年ぶりに芸能に出演したパク・シニャンが、画家としての第2の人生と、伝説に残った出演作のビハインドストーリーを伝えた。

パク・シニャンは「10年間、絵だけに没頭した」という近況を伝えた。 パク・シニャンは2019年<町の弁護士チョ・ドゥルホ2>を最後に演技活動を中断し突然画家に変身した。以前は絵を全く描いたことがなかったというパク・シニャンは、10年ぶりにいつのまにか自分の名前を掲げた展示会を開き、本も執筆するほど立派な画家として位置づけられた。

パク・シニャンは、絵を描き始めたきっかけがロシア留学時代に出会ったキリルという友人のためだと話した。当時、キリルの母親が亡くなった時、お金がなくて泣いている友人のために飛行機代を貸したのがパク・シニャンだったという。以後、今度はパク・シニャンが学費がなくて学校を辞めなければならない危機に直面すると、キリルが学生たちの署名を集めて嘆願書を渡し、互いに大きな力になってくれた。

キリルは現在、ロシアで有名な俳優になり、今もSNSを通じてパク・シニャンと時々連絡を取り合うという。 パク・シニャンは最初、キリルを懐かしがって彼の絵を描き始めた。ところが時間が経つほど「この懐かしさというのが正体が何か、私を支配的に包んでいるこのような懐かしさの情緒はどこから来るのか」という根本的な疑問が生じたと。 友達に会えば懐かしさは解決するのだろうか。 そうではないようだというのがパク・シニャンの結論だった。

「絵より哲学の問題」という気がしたパク・シニャンは、その時から哲学を勉強し始め、晩学徒になって大学院まで進学した。「私は何か、何を描けばいいのか」という疑問の答えを探すために努力しながら、パク・シニャンはますます絵と哲学の世界に陥るようになった。

パク・シニャンは友人のキリルの顔、リンゴ、ロバなどを素材に約10年間作業してきた絵の一部を公開した。パク・シニャンは長年にわたって同じ素材で絵を描き直した場合が多かった。絵の実力が発展し、初期には事物の原型をありのまま描いていたことを越え、次第に自分だけの見解を込めて新しく表現し解釈することで進化するパク・シニャンの絵の世界を確認することができた。

韓国に帰化した元老カトリック司祭であるトゥボン司教との縁も打ち明けた。 普段、トゥボン司教を尊敬していたパク・シニャンは、彼と親交ができ一緒に全州に行ってきて多くの話を交わすようになり、司教は別れる途中でパク・シニャンにリンゴ2個をプレゼントした。どうしても食べられなかったパク・シニャンは、時間が経って少しずつ腐っていくリンゴを見ながら「彼の記憶をさらに延長したくてリンゴの絵を描くようになったのがいつのまにか20個を越えた」と説明した。

また、パク・シニャンはロバの絵を紹介しながら「私に前世があったらロバだったと思う」と打ち明け「荷物を限りなく負う、荷物がなければ訪ねて行ってでも荷物を負うスタイル」と表現した。 パク・シニャンはロバを描きながら「荷物は果たして荷物なのか、脱ぎ捨てるべき荷物ではなく、荷物の中から何か意味を見つけることができるのではないか?」という哲学的な悩みを込めたと説明した。

画家としては10年目だが、俳優としてはいつの間にか28年目を迎えたパク・シニャンは、東国大86年入学で先輩のチェ・ミンシク(81年入学)、ハン・ソッキュ(82年入学)とともに、演劇映画科「伝説の3人組」と呼ばれたある時代の名優だった。先輩たちと同じく、パク・シニャンも大学生活の間、一生懸命演技の練習に邁進したという。
 
パク・シニャンは演技に対する情熱のため、ロシアの伝統的な国立演劇大学であるシェフキン大学に留学したりもした。パク・シニャンが留学した1990年代初めは、当時旧ソ連が解体された混沌の時代だった。パク・シニャンは「崩壊するソ連の中で芸術家たちは何を考えるのか」という疑問が生じ、留学を決心することになったと明らかにした。

演技に対する渇望で大変で空腹の時期を黙々と耐え抜いたパク・シニャンは、韓国に帰ってきてから1996年に主演デビュー作である映画「ユリ」を通じて俳優としての自分の存在感をアピールし始める。
 
パク・シニャンは1990年代後半に入ってメロ映画<手紙><約束>を相次いで大ヒットさせ、忠武路の「ロマンチスト専門俳優」として急浮上した。特に、故チェ・ジンシルと夫婦で呼吸を合わせた「手紙」で、病気で亡くなる前に妻にあらかじめ残しておいたビデオレターシーンは断然圧巻だった。なんと10分余りに達する長いシーンを彼は驚くべきことにNGなしにワンテイクで消化した。
 
パク・シニャンは「2回を撮って脱力した。後で見たら、セリフをこれだけ抜いてしまった。ご覧の方々が大丈夫だと判断しそのまま映画に入った。」というビハインドストーリーを伝えた。スタッフさえパク・シニャンの演技を見て感情がこみ上げて目頭を赤くし、実際に涙を飲み込む音が映画のシーンにそのまま挿入されたりもした。
 
また、〈約束〉では女医(チョン・ドヨン)を愛した暴力団の役を演じ、もう一つの名演技を披露した。 聖堂での最後の告解シーンに出てきた「私に、あなたの罪は何と聞くならば、この女性に出会って愛し、一人残して去ってしまうことが一番大きな罪でしょう」という名台詞は、以後数多くの放送でパロディ素材になった。映画のOSTとして使われたジェシカの「Good bye」もそのシーンで使われ、当時多くの愛を受けた。

パク・シニャンの代表作として、2004年に放送されたドラマ『パリの恋人』が見逃せない。平凡な女と財閥2世の恋物語を扱った「パリの恋人」は、陳腐なストーリーにもかかわらず、当時新人だったキム・ウンスク作家ならではロマンチックな名台詞、パク・シニャン、キム・ジョンウン、イ・ドンゴンなど俳優たちの熱演を前面に出し、最高視聴率57.6%を記録する大ヒットを記録した。
 
特に気難しくて高慢だが、恋人の前で限りなく純情派になる魅力的なハン・ギジュキャラクターを確立したパク・シニャンの演技は「ハニーちゃん、行こう」、「あの男が私の恋人だとなぜ言えない」など数多くの名台詞、名場面を作り出した。
 
しかし、いざパク・シニャンには演技するのが難しい瞬間だったと。初めて「ハニーちゃん、行こう」という台詞を初めて見た時、「ぎこちなかった。これは何だろう? 照れ臭くてどうするのかと思った。これをした時、人々が果たして私を正気で見るのではないかと心配した。恥ずかしかった」という心境を率直に告白し、笑いを誘った。
 
また、パク・シニャンは<パリの恋人>を振り返り、「他の作品ほど難しかった。序盤、フランス撮影の時から腰に問題が生じ、韓国に戻って手術をしながら撮影を進めた。松葉杖をついて鎮痛剤を飲みながら最後まで撮影した。」という裏話を打ち明けた。パク・シニャンは「できるだけいつどんな時に私の姿が見えても最善を尽くして真心を尽くそうと思う。それが見ている方々に伝われば、私は幸せだと。それが絵であれ演技であれ」という自分だけの哲学を明らかにした。
 
一方、パク・シニャンはメロドラマだけでなく、映画<犯罪の再構成>、ドラマ<銭の戦争>など多様なジャンル物にも挑戦を止めなかった。 パク・シニャンのもう一つの代表作に挙げられる「サイン」は、当時は国内で馴染みのなかった法医学を素材にしたうえに、キム・ウニ担当作家もまだ新人だった時期であり、編成が難航した。 パク・シニャンの合流のおかげで編成が確定し、興行にも成功し、後日、韓国型ジャンル物の新起源を開拓した記念碑的な作品として認められるに至る。
 
パク・シニャンは法医学者のキャラクターをリアルに演じるために、実際の法医学者たちの勤務を参観し、数多くの実際の遺体の解剖を見守りながら準備した。凄惨な遺体とその事情に接し、A4で160枚分量に達する日誌を直接作成しながら、配役に没頭したというエピソードは有名だ。 そのようにパク・シニャンは「現場で事件を見守りながら『死』を真剣に覗き見ることができた」と回想した。
 
パク・シニャンは「演技をする時に一番気になるのはその方々がその仕事をどんな気持ちでするかということだ。 同じ職業でも皆同じではなく、ディテールが違う。それを表現できてこそ、その人とその話が信じられるのだから」として、自分だけの演技哲学を明らかにした。その後もパク・シニャンは芸術を専攻するための奨学会を設立し、後学養成にも心血を注いでいるという近況を伝えた。
 
演技者生活を中断した間、パク·シニャンは甲状腺亢進症で闘病生活をしたと明らかにした。1日に30分も立っていられない時もあったと。 最初は精神力で乗り越えられると思っていたパク・シニャンは、いつのまにか数年の闘病期間が流れ「体が本当に有限で粗末だという気がした」という悟りを得たと打ち明けた。幸いにも今は体がかなり回復した状態だと。
 
パク・シニャンは病気の中でも絵を手放せなかった理由について「演技をしながらは自分の話をする機会がなかった。もしかしたら私の考えと感じを話すことができないまま生きてきたのだ。ところが、絵を描く画家や作家は、無条件に自分の話をしなければならなのだ。それで自分らしく考えてみようと決心した」と明らかにした。パク・シニャンに絵とは「素敵に生きるためのものではなく、人間らしく私らしく生きるための手段」という答えが返ってきた。
 
それなら「俳優パク・シニャン」を再び見られる機会はもうこれ以上ないのだろうか。似たような質問を受ける度にどのように答えるか悩んだというパク・シニャンは、「今は絵を描いて十分に表現しているが、演技をして欲しいという考えはあまりない」と率直に告白した。
 
だが、もし今後ファンが望んで良い作品があれば「いつでも積極的に検討できるようだ」として余地を残した。 また、パク・シニャンは「美術を素材にする映画やドラマがあれば面白そうだと思う」という具体的な願いも伝えた。
 
最後にパク・シニャンは「最近は三言以上の真剣な話を人々があまり交わさない。忙しくて疲れて余裕がないから。ところが、どうやってすべての話が二言で終わるのか」と最近の世相を振り返った。 続けて「私がしたい話はもう少し本質的な話だ。「希望に対する確信」、「人に対する期待」のような話を交わしたいという考えがある」という内心を打ち明け、今後「私の絵と演技を通じて誰かが聞いてくれるような慰めと慰労を受けてほしい」として話を終えた。

>引用ここまで