昨日は、記者の方から無料で作文指導を受けられる、良心的な作文ゼミを受講したあと、新聞記者を目指している子とメシを食べに行った。


年末は某テレビ局の合宿選考まで残った彼女は、色々と

学んできたとのこと。お互い新聞(活字メディア)志望だが、

映像を撮ることの難しさと活字が持つ可能性とかについて話した。


合宿では、1分半~2分半ほどのムービーを、チームと個人で

それぞれ作成したそうだ。報道志望の彼女は、商店街で個々人

向けてインタビューを試みた。


映像として画面を通じて情報が伝達される場合、文字とは異なり、人の外見的な情報のほとんどが、見る人に伝えられる。そのため、「撮られている」と思ったとき、人は緊張する。撮影モードのオンとオフのようになり、オンの状態では、その人の素の姿を撮ることができないことが多い。それに、撮影を許可してくれない人自体がほとんどだという。


撮影を終えたあとにふと出てくるコメントがある。それは本音であり、本当にとりたいコメントであったりするそうだ。もちろん、撮っているかどうかは、事前に本人の承諾を得ておかないといけない。活字にする場合は、インタビュー全般の内容を記事にしてよいか、事後に再度確認ができる。だから、映像で本音を引き出すのも、許可を得るのも難しいということを体感したらしい。


同時に、映像が持つ力の大きさを実感したとも言っていた。活字との大きな違いのひとつは、音楽が入ること。映像に音楽が加わることで、より撮影者(編集者)の意図が映像に組み込まれることになる。


例えば、僕がこの件に関して実感したのは、映画『靖国』を観たとき。日本軍が満州で誇らしげに刀を振り回している場面に、悲痛で鈍重なクラシック音楽が流れていた。戦時中に、同じ映像を明るい行進曲と共に流せば、プロパガンダへすりかえることも可能だと感じた。


彼女は、映像の何よりの弊害は、自由に編集ができることであると言っていた。例えば、商店街のムービー作成では、2分前後の映像のために、2時間分のフィルムを使った。そこから、時系列に関係なく、必要な映像をピックアップして、一つのムービーにしていく。そうした編集作業は、どの映像をどのように取り出してくるかで、作り手の主観をもろに出すことになる。


僕自身は、書くことが好きだ。書き手は大体、読むことが好きだと思う。なぜなら、読むことは大概、映像を見るより考えることが必要だ。書くためには、読むより一層深く考えることが求められるだろう。つまり、僕は考えることが好きだ。


その点、映像ではどうしても、活字で書いたり読んだりするのに比べると、深く考えようとする際、曖昧さが残ってしまうように思う。伝えようとする志は、活字の人も映像の人も同じだと、実際に働いている方に聞いたこともある。そういう意味では、やはり映像と活字は敵対するものではなく、どちらも活用して世の中の時事を捉えていく姿勢が、大事なのかもしれない。


最後に、よく「伝えたいから」メディアを志望するという声も聞くが、昼に参加した作文ゼミの先生の見解は異なるものだった。「書きたい、現場に行きたい、といった類は欲望としてあるかもしれないけれど、「伝えたい」というのは曖昧で、欲望として成立するのか疑問だ」。


そう言われてみると、順番としては、まず現場に行ったり、何かを体験したりする。それが自分に素晴らしい体験であったり、社会に共通した問題を抱えたものである場合などに、多くの人に分かち合うという意味で、伝えたいという欲求が生まれてくる。ある意味での(僕はカント的な意味に近いと思っている)「自己満足」だと思う。まず自分が満足できなくて、他の人に意味があると言えるだろうか。そうした意味で、先生の言葉は正しいようにも思われた。このように考えたのは初めてだった。


今日の夜から、関東へ1週間、シューカツ合宿。エントリーシートも続々と発表されている。本番に向けて、できるだけ備えをして憂いをなくしたいところ。


偉そうなことばかり書いているようなのですが、公に考えを開いてみることで、内に閉じこもるよりも意見がもらえたりもするのかも、と思って書いております。それこそ、書きたい自己満足を充実させて、結果的に人にも価値のあるものであれば、僕にとってブログは意味を持つと思います。だから、なるべく読んで下さっている人がいれば、シェアして有意義な情報になるように書いていきたい。そのために、忌憚なき意見をいただければ幸いです。


「記者になりたい!」気持ち新たに突き進みます。








★★★☆☆☆☆☆☆☆


前半はいい。後半は終了。
スケールの大きいサイコスリラーとSFの合同傑作。。
などと評することもできなくはないジャンルだが、

結論:驚愕したニコラス・ケイジのオーバーな演技が

    少し嗤えてしまう、CGだけ美しいB級残念映画。

ある日、歴史上の惨事が予め記録されている手紙を、
息子ケイレブが、MITの大学教授である父・ジョンの元に
持ち帰ってくる。その手紙は、50年前に小学校でタイム・
カプセルを埋めたときに、奇妙な少女が書いたものだった。

息子に聞こえ、脳内に直接語りかけられる謎の囁き声、
あからさまな伏線として設置される黒く小さな翡翠の石、
自宅の背後から迫るミステリックな男の怪しい影。

このように前半は、謎に満ちたストーリーが展開される。
これはSFか、はたまサイコかミステリーと言えばよいのか、
或いはホラーの要素を絡ませているのか、偶然論か必然

論と、 壮大な人生哲学にも言及した作品であるのか、、、
高まる期待、早打つ鼓動。

だが、後半のあるところから、これらの謎が一つの存在によって
すべて片付けられてしまうことで、興ざめする。B級の典型かも
しれない。意外な展開をさらに意外な展開でかぶせたつもりなの
かもしれないが、映画が終わったときの観客の反応を眺めると、
試薬の結果は明らかだった。「結局あれかよ、意外もなにも…」

凄惨な重大事件の現場を伝えるCG技術は優れている。

飛行機が 墜落するシーン、地下鉄の脱線事故する一連の

映像、これらは一級だ。

だが、私にとっては、逆に一つの情動を思い知らされた。
全く心に響くカットがなかったのだ。

映画とは、映像という静止画の連続体であり、ヴィジュアルな
情報を観客に提供するものだ。情報とは、「情」に「報」てこそ。

物語は、映像の技術やどれだけ見た目の上でオーバーな
動き

表現されているかで評価されない。ニコラス・ケイジが、彼が

映画のなかで驚くシーンは本気モードだが、ストーリーに自然さ

がないから失笑を誘ってしまう。アメリカの映画館では、あまりに

真剣な彼の演技に、クスクス笑う声が止まらなかったとか。

PS3がWiiに負けたのも、結局はそういうことだろう。
最後の生活実用テクノロジーと言われる携帯電話が普及して

から しばらく経ち、「物質的豊かさの時代」から「心の豊かさの

時代」 へ移ってきたと言われる。人がカタルシスを得るのは、

見た目に 刺激的だからではないことに、この映画を観て、

気づくことが できるように思われる。その意味では、感動とは

何かを考え直す 貴重なきっかけを与えてくれるアンチテーゼと

捉えることによって、 この映画がもたらす意義は皮肉にも大きく

なりそうだ。

はじめまして爆


バンブー竹田です。大学生です。

3回生です。就職活動中です。

このたび、ブログを書こうと思い立ちました。


理由を述べるなら、「記者になりたい!」からです。

バンブー竹田の「記者になりたい!」


毎日、学校や日々の生活で「面白い」と思ったことを、

記事のような形で配信していきたいと思います。

カタチは始めていくうちに決まっていくでしょう。


というわけで、とりあえず挨拶でした。

どのようになっていくかは自分次第だと

思っておりますが、読み応えのある記事を

配信していけるようにがんばろうと思いますヽ(’▽’)ノ


温かくも厳しい目線で見て頂ければ幸いです目