平原の彼方に馬の群れを見つけたとき、亡くなった人間達が彷佛と立ち現れたような感慨を持った。何人かの困惑したまま凝固したような顔が、風にたゆとう綿毛を戴いた草の波上に見える。そして眩しい固そうな草と草の間に、あいつが見える。アキオが立ちあがろうとしている。あいつが右耳の上を掻きながら立った。見よ、あいつが一掻き一掻きごとにあたりを睥倪して歩いていくと、今まで蜜蜂が舞っていたペーチ郊外の暖春の草原が、あいつの切れ長の眼に畏怖して膠着するかのように、無風の晩夏の赤茶けた校庭に変わっていくのだ。なんと、山懐に生まれ落ちた者なのに、こうしてハンガリーの大平原に彼らの霊を引きずり出してよいものであろうか。思うまもなく、黒馬の群れがアキオの芒洋たる頬を過ぎる。彼は凄まじく馬の前歯の煌めきに吸収された。

 アキオが死んでちょうど二十年になる。

 それにしても馬とはああも野を駆けるものだったのか。そして馬群を見るままに、若くして逝った故人が沸き立ってくる。私はどうしてしまったのだろう。草の匂いと陽光が、今更ながら連想の健常さを刺激するのだろうか。馬を見れば見るで、あの村へ帰っていく私の眼の奥はどうだろう。

 馬といえば最後の農耕馬が、あの村の茅葺き屋根の軒下を闊歩していってから、三十数年は過ぎていることだろう。真夏の炎天下だった。幼すぎた自分は愕然と見ていた。奥会津の栗毛は優しい目を伏せて、埃舞う県道に蹄の音をたてていた。疲れ果てている、と思った。あれが最初の憐憫の情かもしれない。手綱をひいていた農夫は、今の私と同じほどの年齢だったのではないか。彼は無機質な荒れた頬のまま馬よりも無表情だった、と驚愕は記憶の襞に割り込んでいる。致し方ない。憧憬をどう歪曲しようとしても、晴れやかな顔などにするほど悠長な歳ではない。アキオも生き続けていれば、あの栗毛のように疲れ果てていただろうか。それともあの農夫のような荒涼とした頬をしていただろうか。

 アキオは大きい少年だった。そこかしこの大人以上に大きかったアキオは、握る竹刀やボール、そして土塊までをも唯一の剛力をもって扱っていた。彼の背中と垣間見る腕力が平然と校庭や川原、そして木造校舎の軋む教室や廊下をも支配していた。威勢は職員室の教員たちの口端にかかると、校長室に至る頃には武勇伝に脚色されていた。保健室でテーピングの練習ばかりしていた女体育教師も、彼の汗まみれの上腕筋に目を細めていた。アキオに縁がなかったのは音楽室くらいだろうか。

 私とアキオは、その音楽室で出会った。

 音楽室からの見晴らしは、緑に塗りこめられて鬱蒼としていた。出会いに蒼紺の緊張をもちたければ、薄暗い音楽室はうってつけである。私は何とはなしに憶えていた名前の作曲家のレコードを手にとっていた。ベーラ・バルトーク。そう、あのときもハンガリーだった。聴きはじめると、不思議な組み立ての音は私を不安にした。ひとつひとつの小曲は、あるいは(十代にとっても)懐かしく、あるいは(十代ゆえに)気恥ずかしいメロディなのだが、繰りかえされる転調に縋っていくと、原初の掻き鳴らしに墜落したような不快を感じていた。あのときも予感がしたのだ。軽やかに傾れ落ちてきた祝祭の音、あれはアキオを迎えるための歌だったのだ。

「なんだ?それ」

 アキオの声は些か甲高かった。音楽室の入り口で塞ぎながら、彼は怪訝そうに私を見ていた。アキオは誰もが知る怪物である。そして、私もまた誰もが知る化物だった。

「十五のハンガリーの農民の歌、そのうちのひとつだ」

 あのときの私の舌は臆することを忘れていた。そしてアキオの素早い挑発は、誰よりも親近の響きをもって自然だった。

「クラシックなんだべ?」

「ま、そんなどごだな」

「おめえ、変わってるって言われてんぞ」

「おめえと同じだよ」

 私が恐る恐る俯くようにして小さく笑うと、アキオは不味いものを含んだように舌打ちして天井を仰いだ。

 それから急速に接近していった。不安と期待の間を揺れながら陰獣どうしは近づいた。二人には舐め合う傷らしい赤みがあったのだ。私とアキオは互いの傷の赤みを見比べるように、孤独という以前の逃れ難い我がままな意志を認め合った。私たちは粉末ジュースがじれったく溶け込んでいくように友人となった。

 

「農務次官がさきほどから言っています、社長が随分とお疲れではと」

 晶子(アキコ)の落ち着いた声が、風を止ませるように耳に掛かった。

「馬を見ていたんだ。元気な馬は見ていて見飽きないもんだ」

 私は理知的に過ぎるきらいのある怜悧な晶子の口許に同意を求めた。涼やかな目許はすでに女らしい。疲れているのは我が儘な私に付き添っている彼女だった。

「社長は蒲田生まれの蒲田育ちでいらっしゃるから、こういう風景もたまにはよろしいんじゃありません?」

「よろしいね、よろし過ぎるよ」

 原田晶子が私の嘘につき合ってから五年ばかりが過ぎていた。

「あの農務次官を困らせても、何も面白い話は出なかったみたいだね」

 晶子は私の襟巻きを直しながら飲む仕種をしながら言った。

「ワインの話に次ぐワインの話」

「お土産にだったら買っていってもいいがね」

「でも、彼も同じ名前、ヤノシュなの」

 彼女は娘が父に懇願するように哀しい目を上げた。

「同じって誰のことだ?」

「バルトークですよ、ヴィクトル・ヤノシュ・ベーラ・バルトーク、この国ではバルトーク・ベーラですけれど、リストの弟子の弟子にあたるのかな」

「ヤノシュって名前は多いのか?」

「みたいですね。彼のオペラ、えっと『青ひげ公の城』とか『中国の不思議な役人』とか、知りません?」

 私は迂闊にも彼女の聖域に口出ししてしまった。

「オペラはだめだな。しかし、たしか音楽室で見たような記憶があるな、あれは『十五のハンガリー農民歌』とか…」

「練習で弾いたことがあります」

「何か賑やかなお祭り風な曲だったが、まったくメロディを憶えていないな」

「あれはお祭りじゃなくて悲しみの歌です」

 晶子がきっぱりと言い切って踏み出した先では、農務次官が馬の群れに向かって古いカメラのシャッターをきっていた。運転手が茶化すように珍しくなったカーラジオのボリュームをあげる。しばらくすると「クロコダイル・ロック」が鳴った。かつて蒲田の汗臭い三畳間で跳ねていた音が、格好の場を得たように奔放に流れ出ていった。

 

 私はアキオとつきあって大胆になっていった。音楽室にエルトン・ジョンを持ち込んで、モーツァルトのアダージョの後に聞かせた。

「おめえのとごろは金持ちなのか?」

 アキオはレコードの音を明らかに煩がりながら真直ぐに聞いてきた。

「いいや」

 私も後で驚くほど真直ぐに首を左に振った。

「んだけどよ、こういう音楽は金持ちが聴くんだべ?」

「ほんなことはねえだろ」

「おめえは金持ちのふりをしているのか?」

「まさか…」

 アキオは飽きれたふうをして見せてから音楽室から出て行った。

 あれが金銭の話の始まりだったのかもしれない。金銭がアキオや農耕馬を生かしも殺しもすることを、対極の化物である私も既に知っていた。しかし音楽室で「イエロゥ・ブリックロード」が鳴っているとき、アキオがあと半年ほどで学校をやめるとは想像もできなかった。彼がやめてしまってから、随分と彼の家の貧しさが噂された。私は知っていた、アキオ自身は貧しくなどなかったことを。

 あれは校門を出たところだった。彼はいつのように私を追いかけてきては、単純で酷薄な問いかけをした。

「なんで?東京では金持ちしか馬を持っていねえのに、この村じゃ馬を持ってりゃ、俺んちの裏のところみてえに貧乏ばっかりなんだ?」

 あそこは赤トタン屋根のアキオの家の前だった。

「なんで?おめえがあいつらに貸した銭だべ?だから俺は倍で取り返してきてやったんだぞ」

 そして麻丘めぐみのポスターがはってあるアキオの狭い部屋だった。

「それにしても、なんでだ?チャイコフスキーじゃ千擦りもこけねえべ」

 やがて赤茶けた夕暮れの校庭だった。

「なんで?なんで、こんな山の中で田植えして、裏のところみてえに馬ひいて、ああだ汚ねえ女と…なんで結婚しなきゃなんねえんだ?」

 そしてアキオが中退した翌年に私は卒業した。上京してみると、世界は手続きが面倒だった。さらにアキオが死んでから世界は増々ややこしいものになっていった。

 

 ペストのエルジェーベット橋の上で、晶子の右眼に入った塵を取ってあげようと顔を近付けると、自転車に跨がった陽気な若者が夫婦と勘違いしてか、何やら奇声ではやしたてて過ぎて行った。晶子は奥二重の瞼なのだが睫毛は長い。しかも昨夜の読み疲れ目が薄い充血にあらわれていた。

 私は咄嗟に、彼女の首に巻かれていた紺絣に酷似した模様のスカーフの端を縒って言った。

「昼間はドナウ川を見て、夜はじゃが芋を食ってビールを飲んでいればいいのに」

 晶子は目尻に薄らと涙を滲ませて口を尖らせた。

「議定書をなるべく早くまとめるように言ったのは社長でしょ」

「帰ってからでいいよ」

「帰ったら帰ったで、あたしの報告なんか見ている余裕なんかありません」

 私がスカーフの端を湿らすために軽く口に含むと、彼女は私のネクタイの結び目あたりを軽く押すように俯きながら離れた。

「どうも…とれました」

 私はスカーフの絣柄風な白十字の模様が彼女に還っていくのを見ながら聞いた。

「須磨子が何か言ってきたのか?」

 晶子は欄干を背にしてしきりに右眼を瞬かせて首を振った。

「洋二か?」

 私が女房の次に息子の名前を口にすることを予測してか、晶子は子供っぽく人さし指を立てて意地悪く微笑んだ。

「社長は父親でいらっしゃることもお忘れなく。洋二さんの新潟営業所の売り上げは、惨澹たる様子です」

「そんなことは分かっている。立ち上げたばかりのこの半年は駄目だ」

「洋二さんはお酒を飲めないので、白鳥ばかり見に行っているそうですよ」

「白鳥?夏に白鳥か…」

 晶子は薄茶のスーツパンツの片脚を私に向かって蹴り上げて見せた。

「女のいる店か何かのことか?」

 晶子は髪をドナウへ放るように反り返って笑った。ガラスの壜の中で歪な真珠を振ったような笑い声。私は不愉快を覚えず笑い終えるまで返答を待った。

「可笑しい、可笑しいわ。アルビよ、アルビレックスという新潟のサッカーチームのキャラクターです。マスコットっていうか、キャラクターが白鳥なんです」

「サッカーか、それに夢中なのか、あいつが…」

「おつきあいのお酒よりいいんじゃありません?」

「飲めん奴は飲めん奴で何かしら愉しみを見つけるもんだな」

 アキオも飲めなかった。我々モンゴロイドの男の体は、見た目を大いに裏切るから時として痛快だ。ビールを二口ほど啜ってアキオは毒を盛られた赤鬼のごとしであった。

「百万円貯まった、って言うのがそんなに悪いことなのか、え、おい、ネクタイさんよ」

 東京の板橋は大山の駅近くのラーメン屋だった。

 私は損害保険の代理店のセールスマンになったばかりだった。餃子のたれが真新しい紺の背広に跳んでくることを気にしている私。再会をさほど喜んでいない二十一歳だった。アキオは身長がとまった頑健を、ピンクの半袖カッターシャツに包んでいた。

「静かにしろ、その百万で、家か車でも買うのかって聞いているんだよ」

 私の身長はアキオにとどかないまでも見劣りしないほどになっていた。

「俺はな…測地、知っているか、測量でもいい、その測地ってもんを身につけていと思っているんだ」

「測地?」

 私の目に浮遊していた餃子屋の卓板が、一瞬にして音楽室の古ピアノに変容した。いつもこうだ。そこには昼間の清浄な陽射しがあった。何を話していたのだろう。窓の外ではこれ見よがしに向日葵があの頃を飾りたてていた。そして紋白蝶が儚げに鼻のさきまでやってきた。それを心理学者なら、青少年期の未来に対する不安の表象とか何とか言い片付けるのだろうか。しかし私もアキオも、まだ不安が不安のままで愛しいものであることを知らなかった。少年時代と変わらず迫力のある三白眼を、あちらこちらに飛ばしてアキオが目の前にいる。百万円貯まって不遜と喜悦を交えた口許。兄弟をはじめとする周囲への不信に疲れていた私は、友の喜びを共に喜んであげられなかった。紋白蝶は想像ではない。私とアキオは執拗な白い羽を追い払いながら話していたのだ。金銭と女性、そして次にくる三つめのものがあるのか。

「測地だよ測地、どうした、酔ったのか?」

 アキオは音楽室で最初に私を見た時の怪訝そうな眉間をまた見せてくれた。

「いいや」

「おめえは酔ったふりがうまそうだな」

「まさか…」

 アキオ、私はおまえのおかげで最初の懐かしさというものを知ったのだ。孤独の毒というものがあれば、アキオこそが私にとって懲りずに毒消しを処方する漢方医だったのだ。

 

「なにか見つかりました?」

 晶子は済まなそうに聞いてきた。目線の先にあるドナウの流れに、私が何も見つけていない、あるいは流れに静物として対峙しているように見えたことだろう。

「いや、急に何かこう…餃子、餃子なんかが食いたくなったもんだからね」

「餃子って、またあの饅頭のような餃子?」

 私も拙宅で催した餃子パーティーの折の愚形を思いだして吹き出した。

「饅頭って…饅頭も餃子も同じようなものさ」

「餡を閉じ込める、というのは同じですけれど」

 原田晶子の専攻は化学で、趣味はピアノである。

 うら若きまずまずの才媛は、時として形象を冷ややかに抽象化して楽しみ、時としてピアノの楽譜の判読に歪められる。旅先で甘いワインに酔ったときだったか、自分と他人の感情の合致や縺れを、数多の協奏曲をピアノ・ソロに編曲する労苦にイメージして、孤独な自分を納得させている、などと漏らしていた。

 アキオも編曲するような労苦に手を出そうとしていたのかもしれない。

「測地って地面を測るんだろ?」

「ああ、測るんだろうな」

「それで不動産屋にでもなるつもりか?」

 アキオは急にうわのそらな目付きになり首を振って両手を広げた。

「こっちへ来てみて、東京へ来てみてな、たまげたのはよ、平地ばっかりだってことだ。村と比較すればあたりめえのことかもしんねえがな。しかし、どうのこうの言ってても、俺らはよ、この土地の上に暮らしているんだからよ」

「そのとおりだ」

「地価っていうのか、この東京の地面の高ぇこと…この下も土地、あの村の山の中の土地も、あれはあれで土地だっていう」

「たしかにあんな山の中でも土地は土地だ」

 アキオは一気に両手をすぼめて今度は球形を想像させようとしていた。

「測地を身につけたらよ、今の会社の社長が金を出してくれるって言うから、この丸い地球ってもんをよ、じっくり買い占めていこうと思ってんだ」

「でっかくでたな、丸い地球の前に鼻糞のような日本から始めるとなると大変だぞ」

 アキオは恍惚とした眠気眼のまま恐るべきことをゆっくりと言った。

「馬鹿だな、いいか、俺はな、シベリアの方から、こんなふうにぐるっと林檎の皮を剥くように、回るようにしながらやっていく」

 悔恨と挫折に酒ほど殊勝なものはない。

 眠りこんでしまった農務次官のシュテファンにしても然り、それを冷ややかに見ながら話している晶子にしても、あのアキオにしても、この私にしても、挫折の強打の麻痺のままに生きてきたのかもしれない。それは執念には程遠い。脳髄を冒す液体の成分に絶えず頼っている日々。そして誰もが知っている、あとは自分がちょっと運がいいことを。

「死ぬまで処女で、生理の度にいっぱいの楽譜を掴んできて、終わった翌日にジグソーパズルのようにベッドへ並べる…しばらくすると、助教授から依頼された深海魚の肝臓の成分分析の束が、雪達磨の頭のようにぽんと落ちてくるんです」

「大変だな」

「大変だなあ頭のいい人は、って?」

「ああ」

 私と二人だけの晶子の酔いはいつも明晰で残酷だった。

「嘘…嘘にきまっている。大変だなあ、って言ったときの社長の顔は格好いいもん」

 私は反り返って不味いコーヒーを催促した。

「自分に嘘をついているときの社長の顔は、哀しそうで格好いいもん」

「まいったな」

「頭のいい人の大変さを知っている社長が、頭のいい人は大変だなあ、なんて言うことがどんなに馬鹿々しいか一番よく分かっている…そうでしょ?」

 私は頷くともなく鼻毛の先を指に感じていた。小奇麗な娘が振るう緑の小枝に戸惑う老犬のようだ。そして焦げ臭いばかりのコーヒーが不機嫌そうに注がれる。するとその濁りからひとつの記憶が立ち現れた。

 私は晶子に申し訳なさそうに微笑んでから、マルギット島の大柄な浮浪者を思い出して嘆息を吹き上げた。

 彼は陽光に煌めくドナウの流れから忽然と現れた。いや、そのように見えた。肩で大きく息した逆光の影は、中欧の古都で観光めく腑抜けた仕事にある五十男にとって久々に奇怪に見えた。彼は両手に絶命寸前の大きな鯉を抱えながらずぶ濡れだった。私はたじろぎ直視を避けた。しかし彼は鯉を差し出すようにこちらへ向かってくる。私は観念して身構えた。泥顔の中の黄水晶のような眼球が向かってくる。反り返るようにして身をかわすと、彼は島へ渡る橋の方へ捧げ手のまま行ってしまった。

「あけてくれ、俺だ、アキオだよ」

 あの晩のアキオもずぶ濡れだった。

「刺身だ、もう飲んでるのか?」

 濡れたビニル袋から残りもので半額に下げられた鮪のパックが二個取り出された。

「おいおい哀しいねえ、缶ビールとピーナッツだけで男がひとり飲んでいて」

 私は小皿と醤油を棚からアキオにわたした。つけっぱなしのテレビはいつのまにか消された。私はアキオのまだ滴っている前髪を見ながらピーナッツの袋を引き寄せて聞いた。

「なにがあったんだ?」

「ちょっと、いや、ちょごっと摩っただけだ」

 アキオが大損したときは必ず土砂降りだった。賭けることの根底にある不信感。そもそも奥会津のようなところでは、労苦を伴わない金銭は堕落しきった不浄なものだった。彼の地の田圃と山林では蛭や虻のように嫌われた。

「林檎の皮を剥くように…土地をぐるっと買い占める、って言ったのは誰だ」

 アキオは鮪片を口に放り込んでから天井を見上げて、麻丘めぐみのポスターをはがしたときのように鼻で笑った。

「馬鹿だな、おめぇも」

「馬鹿馬鹿しくてもだな、丸い地球を林檎の皮を剥くようにぐるっと…スケールのでかい話はおめぇに似合っている、と思ったんだよ」

「だから馬鹿だって言ってんだ」

 私の耳奥でアルマイト板を掻いたような音がした。

「飲めねえくせに…酔っ払いのようなでかいこと言って…大人になっちゃった、ってことか?まだ三十前なのによ」

 アキオは布巾をひったくって濡れた前髪にかぶせて、初めて聞く鼻歌の一節のように唸った。そして緩やかに畳に仰向けになっていった。私は毛布をかけてやらねばと嘆息を吐いた。

「馬鹿だな、おめぇも…丸い地球ぅ?地球が丸いと思ってんのかぁ?」

 私は耳を塞ごうとしていた。雨天の明日に仮託された前途を思っていた。明日も前途も洋々とは程遠くても近くに転がっている。怠惰に対してだけは素直だったのだ。

 アキオは弾かれたようにゆらりと体を起こした。そして凄まじいあの言葉を吐いた。

「分がったんだよ。俺は分がったんだよ。俺がな、いや、おめぇも、俺もだ、俺たちはな、林檎の中から皮を剥こうとしているんだってことがな」

 

 私は中学生だった息子の部屋の本棚で、非ユークリッド幾何という名称を知った。

 ヤノシュは農務次官、ヤノシュは作曲家、そしてもう一人のヤノシュは、数学者もどきの軍人だった。ヤノシュ・ボヤイは数学者だった父親の影響の下に、ユークリッド幾何の公理のうちでも胡散臭い平行線公理に夢中だった。父親は性悪女に引っかかるようなものだと嗜め続けたらしいが、親の言うことなど分かっていても、やめられずに奈落へ落ちて落ちていくのも血筋なのだ。ヤノシュの数学上の業績、それもロバチェフスキーや聖ガウスの名前が見えてくると、平行線公理とヴァイオリンを愛した軍人の科学史における一挿話でしかない。

 非ユークリッド幾何では二つの球が示される。誰もが解している林檎のような球そのもの、そしてラッパの吹き口と出口が無限に広がる様のベルトラミの擬球である。息子の部屋で直感した。アキオは脳髄にこの二つの球を見たのではないか。

「俺たちはな、林檎の中から皮を剥こうとしているんだ」

 アキオはそう言い残すようにして寝入ってしまった。日焼けも落ちた大人のアキオの寝顔には、音楽室の隅にあったベートーヴェンの彫塑にそっくりの眉間皺があった。私は毛布を掛けようとして「立派な死に顔だな」と呟いたのを記憶している。

 ドナウの流れから浮浪者によって引きあげられた鯉、あれはやはりアキオからの暗示だったのではないか。上京した頃の私とアキオが、濁り淀んだ流れに鯉の影を見ていた蒲田の呑川。アキオの遺体は呑川に浮かんでいた。

 アキオがあの汚泥の流れに落ちた。林檎の中から皮を剥こうとして、疑球に沿って測地しようとして、反り返って反り返って林檎の中心へ落ちた。

 擬球、なんと素晴らしく幻想的な言葉であることか。「だから、それが何だと言うのだ」とアキオは看破するだろう。アキオは確かに擬球を持った。私は擬球を持つのだろうか。

「須磨子と…別れようかな」

 晶子はドナウの流れへ打っ遣るように言った。

「聞き飽きました。ヤノシュがそろそろ来ますよ」

 世界が虫食いで蔕なし尻なしの瓢箪まがいなのか、色気も素っ気もない空洞を持った冬至南瓜なのか、あと少なくとも三百二十四年は解読され得ないだろう。何度もアキオの墓の上に雪が降り積もり、何度もタンポポや露草が点々と花弁の色を置いて、やがて墓石が擬球の稜線を転がるように崩落した後、この世界は灼光によって刻むように語られるだろう、類人猿が時として持ってしまった好奇心の彼岸について。

 

                                                                              了