「…なんか信じられない話だね、生きてるのに死んだことにしてそれを隠して生活してるなんて…」

遅めの昼食が終わった後、お茶をすすりながら颯が呟く。岸もうんうんと頷いていた。

「そっか。あの日俺が見たのは幽霊じゃなくてその嶺亜って子だったんだ。そういや足はちゃんとあったような…」

「ビビりのお前がそこまでちゃんと見てるわけねーだろ」

ぱしっと栗田に後頭部をどつかれて岸は湯のみで唇を打った。「いてて…」とさすっているとその栗田がいつになく神妙な面持ちになっている。

「じーさんが死んだんだったら…もう嶺亜を匿う必要もねーだろ。これであいつ外に出られるし…おい谷村、今から嶺亜の部屋行くぞ」

何故か同じ部屋で食事をとらされた谷村がお茶を吹きかける。彼は極度の人見知りだからここにいる間ずっとおどおどと挙動不審な様子を見せていた。それを気遣った颯がまあまあと栗田を宥める。

「ちょっと待とうよ。その話が本当だとして…今あちこちに刑事の人いるしややこしくなりそうじゃないかな。まだお爺さん殺された事件だって解決してないんだし」

「颯の言う通りだよ…この上嶺亜が生きていた、なんて皆に知られたら…それこそこの家が滅茶苦茶になってしまう。そうなるとこの集落一帯が揺れるよ。殺人事件が落ち着くまで嶺亜には会いにいかない方がいいと思う」

岩橋が建設的な意見を述べた。しかし栗田は不満顔だ。

「あいつだってじーちゃん殺されたんだったら不安抱えてるだろうし、一人にさせるの可哀想じゃねーかよ。俺だけでも行ってくらあ」

「だから待てって。おい栗田、お前嶺亜のことどう捉えてるかしんねーけどあいつはお前が思ってるほどやわなタマじゃねーぞ。本当にタマついてるかどうか怪しいもんだけどな…っておい!いてーな玄樹!」

「こんな時に下ネタとかホントやめて勇太」

「下ネタじゃねーよ!俺が言いたいのは嶺亜はそんなかよわいタイプじゃねーってことで…」

「神宮寺は嶺亜とは相性が悪いからな。数えるくらいしか会ったことがないが一度口げんかみたいになったこともある」

挙武が颯たちに耳打ちをした。

「ま、俺に言わせればどっちもどっちだがな。嶺亜は空気が読めないし神宮寺はこの通り下ネタばっかり口にする幼稚さがあるから…水と油みたいなもんだ」

「ふーん。まあどうでもいいけどさ、栗田のこの一連の不審な動きの理由が良く分かったよ。要は栗田はその嶺亜って子にすげえ肩入れしてんだ。夜中にわざわざ会いに行ったり思い悩んだり…」

倉本は食後の大福を食べていた。神宮寺の祖母が皆に用意したものだがほとんど彼がたいらげた。

「けどまあこの事件が落ち着いたら…その嶺亜って子はちゃんと生きてる人間として生活していけそうじゃね?そういう意味ではめでたしめでたしってことで…」

岸の呟きに、挙武は浅い溜息をついた。

「めでたしというか…またここからが大変だろうな…。中村家の子が生きていたとなると…暫くはバタバタとするだろうし考えただけでも気が重くなるな…」

愚痴っぽい口調とは裏腹にその表情は決して暗くなかった。それを見て岸は思い出す。

「そういや挙武とその嶺亜…だっけ?は許嫁だったんだよね。んじゃやっぱ結婚すんの?」

それを聞いた全員がお茶や大福を吹いた。

「バカを言うな岸くん!嶺亜は男だと言っただろう!許嫁っていうのは女だった場合のことを言うんであって…ちゃんと話聞いてたか!?」

「え?あ、そーなの。そうか、男だったから隠されたんであって…あ、そーかそーだね。うん」

「てめー岸!アホも休み休み言え!れいあが挙武の嫁とか冗談じゃねー!!んなことになったら俺がれいあ連れてかけおちしてやらあ!」

「お、落ち着いて栗田。それはそれでなんかおかしくない?」

「うっせー颯!あと谷村!お前いい加減その指くるくるやるのやめろっつってんだろ!うっとーしいんだよそれ!」

「痛い!だから蹴らないでくれ…なんで俺がこんなところで一緒に…部屋に戻りたい…」

「つーか谷村だっけ?お前はいつ帰んの?」

倉本の問いに谷村は少し考えた後ゆるく首を横に振った。

「…分からない。まだ警察にはここを出るなと言われてるから…。それこそ事件が解決でもしない限りはここに足止めってことも。親戚の人たちは仕事や用事があるからそれで苛立ってる。いつになったら帰してくれるんだって…」

「そっか。俺達もいつ解放されるのかな。レンタカーの件はいいとして、やっぱりバスを乗りついで…」

「大丈夫だよ。帰してもらえるようになったらうちの車で送ってあげる」

岩橋が颯の肩に手をやりながら言った。気前のいい話だ。

「本当、いつ帰れるんだろう…」

岸はぼやいた。幽霊の件は置いといて、今度は殺人事件の犯人がこの屋敷もしくは界隈をうろついているかもしれないのだ。そう考えるとやはり安眠できそうになかった。

「おいおい岸くんよ、帰ることばっか考えんなよ。せっかく俺らこうして仲良くなったんだからよ。事件が解決すりゃあ皆でパーっとバーベキューにでも行って…」

神宮寺が岸の肩を抱く。呑気な意見だが少し救いが訪れたことは確かだ。皆うんうんと頷き合い、谷村はさっきまで回していた指を止める。

空気が和んだところで栗田がぼそっと呟いた。

「…れいあも一緒に行けるといいのにな…」

 

 

谷村がようやく岸たちの部屋から解放されたのは夕飯が始まる頃だった。大広間に出向くと両親を始め親戚連中がどんよりとした空気の中で箸を鈍く進めている。

「…」

大きな溜息が横から流れてくる。見ると、叔父が箸を止めて目を固く閉じていた。

「…大丈夫ですか?」

なんとなく声をかけると、叔父ははっと弾かれたように谷村の方を見る。そして取り繕ったように苦笑いを見せた。

「いや…気を遣わせて申し訳ない。ずっと仕事の都合をつけるのに追われていてね。上司なんかは理解してくれる素振りは見せるものの、やはりいい顔をしなくてね。参ったよ。こっちだって帰してもらえるものなら今すぐにでも帰りたいのに」

「大変ですね…」

まだ高校生の谷村には仕事の厳しさは分からない。だが両親も焦燥が見てとれるし他の親戚も似たりよったりな雰囲気だった。

「こんなことになるなんてね…。だがもう法事も終わりだろう。もうここを訪れることもないと思うとね。まあ毎年喜んで来ていたわけじゃないんだが」

「そうですね…法事ももう終わり…」

そうすると、龍一も毎年ここを訪れる理由がなくなる。元より親戚とはいえその血縁関係はごく薄い。もちろん普段からの親戚付き合いなどないしほとんど義務的に通っているにすぎない。

もうここに来ることもない…

皮肉にも、嶺亜があの屋根裏部屋から外の世界に出られるかもしれないという期待が浮上したのに龍一にはもうここへ来る必要がなくなってしまった。あとは…そう、家主の法事の時くらいか…いや、そんな義務ももうないかもしれない。

嶺亜はどうなるのだろう…もうその存在を隠す理由がなくなるとはいえ、一度この世から消されてしまった存在がそう簡単に認められるのだろうか。法律について谷村は詳しくないがそれは何かの罪に問われたりはしないのだろうか…

考えながら夕飯を終え、部屋に戻るべく長い廊下を歩いているとぼんやりと薄明りのように灯る月が目についた。

「…」

朧なその光に、龍一は一瞬立ち眩みを覚える。何かの引力に導かれるようにしてそこに辿り着いた。

「龍一くん」

その声は聞き覚えがないわけではなかったが明確な発音で名前を呼ばれたのは実に久しぶりだからすぐには認識できなかった。

「…」

広い屋敷の中にはまだ龍一の知らない領域が多々ある。どうやってそこに来たのかもう思い出せないでいた。

そこに少し焦っているとその声の主はもう一度龍一の名を呼ぶ。

「龍一くん」

「…はい」

間抜けな返事しかできないでいると、相手はクスリと笑った。美しい仕草だ。映像が重なって見え、龍一は思わず目を擦る。

「大丈夫?少し疲れているみたいだけど。こんなところに迷い込むなんて何か考え事でもしていたの?」

的確な指摘だった。頷くと、少し心配そうに相手は眉根を寄せる。

「ごめんなさいね。あなた達にまで迷惑をかけて」

「いえ…」

龍一は目の前の相手をようやくしっかりと見据えることができた。

病的なまでに白い肌、長い黒髪、涼やかな美しい目元…年は龍一の母とそう変わらないはずだがまるで少女のようなあどけなさを醸し出している。浮世離れしたその雰囲気はしっかりとその子どもにも受け継がれていた。

嶺亜の母は言った。

「…お爺様がお亡くなりになったから、もうすぐ嶺亜をあそこから出してあげられるかも…」

「本当に…?」

一番気になっていたことが嶺亜の母の口から語られたことによって、龍一の中に燻っていた不安はみるみるうちに晴れていく。期待と希望が膨らみ始めた。

「長かったわ」

溜息とともに、嶺亜の母はそう吐き出す。そこには底知れぬ思いがこめられていて、龍一には返すべき言葉が見当たらない。きっと、この19年間必死にその存在を守り続けていたのだろう。そこには想像を絶する忍耐が…

「あの子はね…」

19年間溜めていた思いを放出するかのように、嶺亜の母は月を見つめながら独り言のように語り始めた。

「こんな環境だからか夜泣きもほとんどしない、グズグズ言わない本当に育てやすい子だった。自分が普通じゃない環境の中で生きていかなくてはならないことをいつから悟ったのかは分からないけど、外に出たいとか我儘も殆ど言ったことがないの。言ったところでどうにもならないことが自然と分かっていたのかしらね。

ヨネさんと二人三脚であの子を育てて…髪の毛を切るのは私の役目だったけどいつも気に入らないって少し不貞腐れて…いつか美容院に行きたいなって呟いてたっけ…

声変わりが始まった時はそれが分からなくて、ずっと喉の病気が治らないなんて少し悩んでたの。それを説明するのに苦労して…あらゆる面で外の世界と隔絶されていることに悩まされたけどそれももうおしまい。やっとあの子を太陽の下に出してあげられる…」

美しい瞳を潤ませて、嶺亜の母は声を若干震わせた。

「嶺亜は生きているの。生きた一人の人間として、この世界に送り出すことができる。やっと…」

そこにどれだけの感情がこめられているのか、龍一には測り知れない。だが一言、ごく自然に出てくる言葉があった。

「僕もずっとそれを待っていました」

嶺亜の母は微笑む。聖母のようなその微笑みを湛えた口元はこう動いた。

「ありがとう」

それから程なくして誰かの気配を感じたのか、嶺亜の母はスイッチを入れるかのように夢遊病患者のような表情になりふらふらと廊下を彷徨いだす。

龍一は踵を返して帰り道に頭を悩ませ始めていると刑事とすれ違った。きっと、彼の気配を感じたのだろうと思い至る。まだ病人のふりをしておく必要があるのかもしれない。

うろうろと彷徨っているとようやく見知った場所に辿り着いた。そこからは裏庭の墓碑銘がぼんやりと垣間見える。

月の光を受けて、その墓碑銘は静かに佇んでいた。