鹿威しの音を遠くに聴く。鳥のさえずりも微かに耳を撫で、開けていた窓からは春の匂いを含んだ温かく緩い風が吹き抜ける。
長い冬が明けようとするこの季節は命の芽吹きがそこかしこに隠れている。誰しも待ち焦がれるはずの春が、羽生田挙武は苦手だった。
庭に生える何本かの桜の樹が固い蕾をつけてきている。開花予想なんて興味はなかったがふといつ頃から咲き始めるのかを思った。
桜…
美しく花開いたかと思うと、一週間でそれは散る。儚い命だ。
一週間…それは彼女の生きた日と同じ日数だ。人の一生としてはあまりにも短いが花の命だと妥当に思えるから不思議だ。
母の胎内でその訃報を聞いた胎児の自分はその時何を思ったか…生まれる前からの許嫁を、誕生の頃にはもう亡くしていた。感慨なぞあるはずがない。
しかしながら、浮かばれない魂の欠片はどこを彷徨うのか…幽霊となり屋敷を彷徨い誰かに気付いてもらうのを待つのか、成仏と言う名の解放を待つのか…
「挙武様」
突然の呼びかけに、挙武の思考は中断される。幾度となく繰り返すこの呪縛のような思想に取り憑かれている自分を我に返すのは皮肉にもいつも屋敷の使用人だった。返事をすると、使用人はこう襖の向こうで言った。
「お車の準備ができております。玄関にいらして下さいませ」
挙武の返事を待たず、足音は遠ざかって行く。浅い溜息だけをついて、身支度を整え階下に降りようとすると携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
電話の相手は今から向かう目的地が同じ幼馴染みからだった。返事をしてそれをそっと鞄にしまった。
「悪いが歩いて行くから車は必要ない。どうせ何時に行こうと同じだろうから」
困惑する運転手を説得して、挙武は玄関を出る。無駄に広い庭から門までたっぷり100メートルほどはあるだろうか。普段車に頼りきっているから長く感じるのだな、と反省した。
春の空気は柔らかだ。どこまでも包容力に溢れ、全てを包みこんでくれるような錯覚さえ起こさせる。生まれてから18度目の春がめぐってこようとしている。ふと足元を見ると小さなつくしが生えていた。
「挙武」
家を出てすぐの土手に待ち合わせの相手はいた。所在なげに立ちつくしており、挙武に気が付くとほっとしたように手を挙げた。挙武は浅い溜息をついた。
「一体どういう風の吹きまわしだ。歩いて行こうだなんて」
「…ごめん…運転手には聞かれたくなかったし、電話でするような話でもないから…」
申し訳なさそうにその大きな瞳を翳らせる。一つ年上の岩橋玄樹は生まれた時からの幼馴染みだ。集落では数少ない同年代である。
「なんだ、話って。また大学の話か?」
「…うん…」
憂えた瞳を地に向けて、岩橋は頷く。彼は去年高校を卒業した。都心の大学に進学することを望んでいたがそれが叶わず今もこうして未練を引き摺っている。
「でもやっぱり許してもらえなくて。このままずっとこんな思いを抱えて生きるのかなって思うとなんかもう何もかも嫌になって…せめて挙武に愚痴ろうと思ったんだ」
内向的な性格の岩橋だが、挙武ともう一人の幼馴染みの神宮寺勇太には心を開いている。悩みや愚痴を聞いてもらえるのは二人だけ、と岩橋は口癖のように言っている。
「挙武が羨ましい。大学はエスカレーターで行くんでしょ?」
挙武は毎朝早起きをさせられ、小学生の頃から2時間近くかけて私学に通っている。4月からは大学に進むがまだ一人暮らしの許可はおりない。
「そうだけど、俺もお前と似たようなもんだ。大学を卒業したらこの地に縛り付けられるだけだろうからな」
そう、この地を出ることは岩橋にも自分にも許されない。呪縛のような家のしきたりに従わされて、一生をここで遂げる。
「それでも、こうして生きてこうやって太陽の下を歩けるだけ俺達はまだ恵まれているのかもしれない」
薄雲に覆われた太陽を目を細めながら睨み、挙武が呟くとその門が姿を現す。
「…」
岩橋が一層憂いを濃くした表情で、門の向こうの墓碑銘を見つめていた。
ギイ…と神経に障る音をたてながら門扉が開く。そこから伸びる石畳を道なりに進んで行くとようやく玄関が見え始めた。初めて訪れた時は車に乗せてもらっていたから感じなかったがやはり相当に広い庭だ。岸はあの夜見た幽霊を思い出してまた身震いしたが最後列を歩いていたおかげで誰にも知られずに済んだ。
玄関の前にはあの老婆が立っていた。岸は彼女がどうも苦手だ。もしかしたら妖怪が化けているのではと思えるほどに恐ろしいオーラを纏っているからだ。暗闇で出会ったら間違いなくちびるだろう。
その老婆の表情がしかし、若干柔らかいものに変わった。
「…おや?勇太。何しに来たんだい?」
老婆は神宮寺を見てそう言った。彼は頭を掻きながら
「道案内頼まれたんだよ。ばーちゃん、かーちゃんがまたこんな大量におはぎ作って、って怒ってたぞ。食いきれねえほど作んなよ」
「馬鹿おっしゃい。みなさんに振る舞うために作ったんだから。全く…」
「ばーちゃん?」
岸たちが目を丸めて老婆と神宮寺を交互に見据えると、少し照れ臭そうに咳払いをしながら神宮寺は老婆を紹介した。
「俺のばーちゃんだよ。ここで俺が生まれる前から働いてんの」
「勇太が生まれるどころか、お前のかーさんが生まれる前からこの家にはお世話になってるんだよ。さ、お前さん達、昨日泊めた部屋まで案内するからついておいで」
老婆はぴしゃりとそう言い放って、しずしずと歩き始める。神宮寺のチャラさとこの老婆の厳格な雰囲気がとてもではないが血のつながりを連想させなかったからまだ信じられないくらいだ。そう思いながら長い廊下を歩いていると突然老婆が足を止める。
「?」
不思議に思っていると、老婆は少し戸惑った様子をその背中から放った。
見ると、廊下の先から誰かがゆっくりと歩いてくるのが見える。まるで幽霊のように音もなくスっと近づいてくるから知らず緊張が走った。
「奥さま、どうかなさいましたか?」
老婆のしわがれた声は、若干固くなっていた。前からやってきたその人物は、20代後半から30代前半くらいだろうか…驚くほど色が白く、長い髪を垂らした涼しげな目もとの美人だった。思わず4人とも見とれた。
しかし女性は老婆の問いかけには答えず、そのまま向かってくる。まるで老婆も岸たちも見えないかのように躊躇いなく、よける素振りも見せずゆっくりと一点を見つめて歩いていた。
夢を見ているような、この世のものを見ていないその昏い瞳に、ぞくりと何か冷たいものが走る。
それを認識するかしないかのうちに女性はちょうど神宮寺の横で立ち止まった。
「…子が…」
かすれるような、聴きとるのがやっとの声が女性から放たれる。
「…あの子が喜んでる…今日はたくさんお友達が来てくれてるって…」
独り言のように呟くと、女性は神宮寺に向かってにっこり微笑んだ。それを受けて彼は一礼をする。
「お邪魔します」
「ごめんなさいね、…お名前、なんだったかしら?」
女性は岸たち4人を見据えて問いかけた…ように見えてそれはやはり独り言だったのかもしれない。
「奥さま、この子たちは忘れ物を取りにきたのです。お友達ではございません。さあ、御身体に障りますからどうかお部屋に…」
老婆に諭されたが女性はやはりそれに答えず静かに通り過ぎていく。その微かな足音が消えるまで誰も動けなかった。
「…なんだ…あの人…」
ようやく倉本がそう呟くと、緊張が解き放たれたかのように栗田も大きな溜息をついた。
「すっげー綺麗な人だったけどなんかこの世の人じゃねーみてーだったな…まるで幽霊…」
「余計なことを言ってないでついておいでなさい」
老婆の厳しい口調に、それ以上何も言えず部屋に通されると倉本の携帯電話を探した。