学校じゅうを走り回って颯はようやくカウアンを見つけた。だけどそれと同時に予鈴がなる。
「カウアン」
声をかけると、フェンスにもたれかかっていたカウアンがびくっとその身体を震わせ、こちらを向いた。
カウアンは校舎の屋上にいた。
「ごめんカウアン、事情も聞かずに怒鳴りつけて。嶺亜から聞いた。本当にごめん」
心からの謝罪と、頭を下げるとカウアンは浅い溜息をついてしゃがみこんだ。
「別に気にしてないよ。悪者になるのは慣れてるし」
「ううん。このままじゃ俺の気が済まない。殴ってくれてもかまわない。この通り」
更に深々と頭を下げると、また更に深い溜息がカウアンから放たれた。そしてこんな言葉が飛んでくる。
「…よく分かったよ。颯は嶺亜のことが大事なんだって。だって事情を聞く前からもう嶺亜を守るのに必死だったもんな」
「…」
「ま、そりゃそうだよな。小さい頃から一緒だし、昨日今日知り合ったばかりの俺がその絆に対抗できるわけないし」
「カウア…」
「でもさ、俺だって」
カウアンは立ち上がる。そして空を見上げた。その空には雲一つなく、澄んだ青が広がっている。
「俺だって颯のことが大事だよ。失いたくない友達なんだよ。だからそのうち嶺亜より俺の方の味方してくれるぐらいになる。俺には颯より大事に思える友達が今までいなかったから」
笑顔をカウアンは向けてくれた。颯は安堵で崩れ落ちる。
「良かった…カウアンのこと傷つけちゃったと思って本当に焦った…ごめんね、話を聞く前からあんなことして。でも嶺亜に何かあったらと思うと勝手に身体が動いてて…」
「まったく…ほんと身体に染み付いてるって感じだな。まーでもそりゃそうか。お前らは運命共同体みたいなもんだもんな。
こないだは嶺亜のためにお前がいるみたいな話になってたけど逆に言えば颯が危なくなった時、嶺亜の助けがいるかもしんないんだしお互い様だもんな」
「うん。それだよ。俺と嶺亜は切り離せないんだ。どっちかがいなくなればもう成り立たないの」
「あーまたそういうこと平気で言う。妬けるんだよな、そういうの」
「え?やける?何が?餅?」
真面目に訊いたのだがカウアンはお腹を抱えて爆笑する。もちろん颯は笑わそうとしたのではない。颯には時々カウアンの笑いのツボが分からない。
だけどこうして笑ってくれるんだからまあいいか、と颯は思い直す。そしてあることに気が付き、それを指摘した。
「しまった…もう5限始まっちゃってるよ…どうしよう…先生に怒られる」
本鈴を遠くに聞いた気がする。もう大分経っているはずだ。颯は焦った。
だがカウアンは涼しい顔をしてこう答えた。
「いいじゃんよ。一コマくらい。あとで手をついて謝れば許してくれるって」
それもそうか、という気がしたから颯は青空の下で6限が始まるまでカウアンと話した。不思議と寒さは感じなかった。
「…さっきはごめん」
HR終了後、カウアンの元に歩み寄り、嶺亜はそう謝罪した。元々原因を作ったのは自分だから颯にだけ謝らせておくわけにはいかないと判断した。
颯とカウアンは5限の授業に姿を現さなかったが6限には二人で笑って戻ってきた。皆少しホっとした様子でそれを見た。
「…別に。今回は颯に免じて許してやるよ。俺もきつい言い方しちゃったしな」
素直じゃないのはお互い様だ。打ち解けるにはまだ時間がかかりそうだが謝罪の意味もこめて放課後は颯を彼に譲ることにした。もっとも、嶺亜は車で下校するから颯とすら一緒に帰ることができないが…
手術の件で、自分が少し不安定になっているのは自覚できる。受けたい気持ちと、怖いという感情が早いサイクルで入り混じる。そんな不安定な心を颯に癒してもらいたかったのに彼はカウアンの元へ行ってしまう。
カウアンへの嫉妬と、モヤモヤした苛立ちと不安が彼への刺々しい態度へと現れてしまう。怒るのも当然だ。今更ながら嶺亜は自己嫌悪に陥った。
家へ帰っても、やることといえばゲームか勉強か…あるいは読書か。もうパターンは決まりきっている。勉強という気分にはなれないし、ゲームも対戦相手がいないと張り合いがない。消去法で読書という結論に達した。
町には本屋はあるが、運転手に寄ってもらうのも面倒くさいので図書室で借りることにした。こんな小さな町の学校には珍しいくらい蔵書はかなり多い。昔、町に住んでいた読書家が亡くなった時に家族が全て寄贈したと聞く。
この学校には司書はいない。借りたい本があれば職員室で教師に事付けて貸し出しカードに記入するというシステムである。
放課後の図書室には…というより図書室自体生徒が利用するのは稀である。しん…とした静寂と挿し込む傾きかけた午後4時の太陽が照らすだけだ。
無人だと思っていた図書室に誰かがいるのが見えた。蔵書の棚の前に立ち、熱心に読んでいる。嶺亜はその人物を認識すると真っ直ぐに歩み寄った。
「何読んでるの?」
嶺亜が入ってきたことに気がつかなかったのか、びくっと肩を震わせて、驚いた顔でその人物…本高は振り向いた。
「あ、えと…血液学の本です」
「ふうん…」
高校の図書室に何故そんなものがあるのか…中には英語やスペイン語の本もある。まるで大学の図書館だ。どうやらここに蔵書を寄贈した人物は相当な勉強家だったようだ。
「こんな難しい本読めるなんて凄いね、本高は。お医者さんになりたいんだったっけ?そのために勉強がんばってるんだもんね」
「はい。とにかく勉強だけは頑張らないと、と思って…」
「やっぱり家の診療所を継ぐの?そうしてくれたら町の人みんな喜ぶね。ここには歯医者以外のお医者さんは長いことなかったみたいだから」
なんとなく問いかけてみたが、返事は嶺亜の予想と少し違ってた。
本高は真面目な表情でこう言った。
「あの…僕、外科医になろうと思って」
「外科医?」
本高は頷く。そして少し緊張と、なにがしかの強い決意を含んだ表情を見せた。
「何年後になるか分からないですけど…心臓外科医になって、どんな難しい手術も100%成功させられるようになって…それで…」
綺麗な瞳を、嶺亜はじっと見た。本高の瞳には一点の曇りもない。どこまでも澄んだ青空が広がっているようだった。
「僕が嶺亜くんの心臓を治します。だからもう少しだけ…待ってて下さい。必ず、治しますから」
嶺亜の心臓の手術の件は、本高の父親の知り合いのつてだと聞いたから彼が知っているのは頷ける。きっと父親から聞いたのだろう。
嶺亜は「ありがとう」と言おうとした。だけどそれが口に出る前に身体が動いていた。
「…!!」
本高が持っていた本を落とした。
澄んだ瞳が潤みだすのを認識する間もなく、嶺亜はその場から走り去った。走るのは今の自分にはあまり褒められた行為ではないが、それでもそうせざるを得なかった。
だけどそのうち息苦しくなって足を止める。肺が重い。それ以上に心臓の鼓動が早くなっている。この、先天的に欠陥のある心臓が…
どうして自分があそこであんな行動に出たのかはよく分からない。
ただ…
キスも知らずに死ぬのは嫌だな…とぼんやりと思ったのだ。それが自分をあんな行為に至らせた。
そして、どうせするなら…自分がしたいと思える相手にしようと思ったのだろう。
窓の外を見る。眩しい金色の筋が強烈に射して来た。その眩しい光の乱打がやがて一つの声となって嶺亜に届く。
「…」
それは天の声だったのか、遠い昔亡くなった妹のエールだったのかは分からない。
嶺亜はその日の晩、その声に従って両親に手術を受けたいと伝えていた。
王様の耳はロバの耳、という話を幼稚園の頃読んでもらった記憶がある。今の状況がそれに似ていた。松倉は両のほっぺたを押さえて座りこんだ。
「ど…どどどどどどうしよ…とんでもないもん見てしまった…」
顔が熱い。頭も煮えたぎっている。衝撃的な映像が脳裏から離れてくれず、一人悶えた。
松倉がそこに立ち寄ったのは、全くの偶然である。元太が面接の練習で中学の職員室に行ってしまったからそれを待つ間の暇潰しに図書室にでも…と思ったら思いもかけない場面を目撃してしまった。
「けどちょっと待てよ…確か本高の方が嶺亜にオネツだったはず…なのになんで嶺亜の方から…」
そう、図書室で嶺亜が本高にキスをしたのを見てしまったのだ。
話の流れは分からない。そんな雰囲気でもなさそうだった。本高が何か嶺亜に説明していたと思ったらいきなり嶺亜が本高に顔を近づけた。そして…
「だ、駄目だ…とてもこんなの一人で抱えてられない…」
いてもたってもいられず、松倉は翌朝、登校時に元太に打ち明けた。内容が内容なだけに、誰かれかまわず言い触らすというのは憚れる。やっぱりこういう時には元太しかいない。
「それ、マジな話なの…?一体あの二人の間に何が起こったっていうの…?」
元太は口元を押さえて真剣に聞き入る。こういう時、「変な冗談よせよ」とか「俺を騙してもなんの得にもならないよ」とか無駄なやりとりがないのがこれまで培ってきた仲の成せる業だ。自然と冗談かそうでないかの判別がお互いつくのである。
「分かんない…でもだけど、俺達本高のことからかいすぎてバチ当たったみたいなとこあるし変にいじらない方がいいかも…ああでもあの二人に今日会った時俺平常心保てる自信ない…」
「俺だってそんなこと聞かされたら…まさか本当に本高と嶺亜くんが…」
二人して顔を赤らめながらうああああああと悶えていると、突如として後ろから声が響く。
「嶺亜と本高がなんだって?」
振り向くと、そこにはカウアンがいた。
「うわぁあああ!!!」
松倉と元太は同時におったまげた。
よりによってカウアンに聞かれてしまうとは…二人は慌てた。そして目と目で会話を開始する。
(ちょっとまつく…確かカウアンって昨日嶺亜くんと大喧嘩してたよね…?聞かれちゃまずいんじゃない?本高の純粋な初恋にヒビが…)
(ごまかそう…とにかくごまかそう…そうだ…『妖怪のせいなのねそうなのね!』とでも言って…)
(真面目に考えてよ!それでも年上!?いい加減お母さんのことママっていうの改めた方が良くない!?)
(それ今持ち出すかなあ…!あ、ヤバイカウアンなんか考えてる…どうしよう…ダッシュで逃げるか…でも根本的な解決にはならないよな。んじゃここはひとつ『つづく』でごまかして…)
(ダメだってば。作者の奴『8カ月ぶりの現場ナリ』って年明けのジャニーズワールド遠征のことで頭がいっぱいなんだから。考えたってまともな解決策なんて出てきやしないって!)
オタオタしていると考えがまとまったと思われるカウアンは松倉と元太の間に入り、がっしりと肩をホールドし、こう耳打ちした。
「俺にいい考えがあるんだが協力しないか?」
「?」
「?」
松倉と元太は顔を見合わせた。