「先生ごめんなさい、嶺亜、昨日なんか凄く疲れてたみたいですぐに寝ちゃってて話ができなかったんです」
始業前に颯が職員室を訪れて岸にそう謝ってくる。いいよいいよ、ありがとなと答えて岸はさて、どうしたもんかと考えを巡らせ始めるがそんな暇は与えてくれない。やらなくてはならない仕事が山のようにある。それらをこなさなくては生誕劇の練習どころではない。
まあ、嶺亜のセリフはないも同然だし立ち位置を多少間違っても谷村が修正してくれるだろう。颯も昨日は調子が悪かったみたいだが責任感があるし立て直してくれるだろう。
そう信じて岸はまず一旦生誕劇のことは置いといて、教頭に玄樹の停学が明日解けるかを確認した。特に処分が変わることもなく二週間で彼は復学できると言われホっと胸を撫で下ろした。付き合って欠席していた神宮寺も一緒に戻ってくるだろう。
「あ、岸先生それとね」
教頭は何かのついでに書類を差し出してきた。
「なんですか、これ?」
「研修だよ。来週末にあるんだけど受けてみてはどうかな」
内容を確認するとそれは新人教師のための研修で、主に担任業務についてのノウハウや意見交換会のようなものだった。これを渡されたということは…
書類から目を離して教頭を見ると、彼は少し照れくさそうに咳払いをした。
「本校も、定年や色んな理由で退職される先生がいてね…来年度には少なくとも2名の新規採用を考えているから、少し早い気もするけど岸先生にも来年は担任を持ってもらおうと思ってる。まだまだ未熟な部分はあるけど生徒のために一生懸命やってくれていることを見ている人は見ている。だからどうかなと思ってね」
「あ、ありがとうございます」
突然の引き立てに、岸は戸惑うが認められていると前向きに捉えることにする。確かに今の自分が担任業務をこなせるか不安だが、いつまでも新人というわけではないのだからしっかりしなくてはいけない。
気を引き締め、その日は校務の一つ一つをきちんとこなそうと必死になって岸は仕事と向き合った。苦手なパソコンでの資料作成も悪戦苦闘しながら片付けて、それが一段落した頃、隣のデスクで仕事をしていた先輩教師が教頭から呼ばれる。電話が入ったようだ。
「…はい。…えっ…そうなんですか…それで…は…いつ…」
横目でみたその先輩教師の顔は少し強張っていた。何かをメモに書き留めながら相手に色々と問いかけている。
「岸先生、パソコン長時間すると凄く疲れるから休憩してきたら?目がなんだか血走ってるよ」
労いの言葉をかけられて、岸は有難く甘えることにする。確かに慣れないパソコン業務で目と肩が凝り始めている。肩を回してコーヒーでも飲みに行こう。
「…?」
食堂の自販機へ向かう途中にそれは岸の目に映る。隣の校舎の三階…そこに灯りが付いている。そこは美術準備室だと認識している。
嶺亜がまた絵を描いているのかな…そんなことを思いながら買ったコーヒーを片手に岸は職員室に戻った。
「どうかしたんですか?」
さっき電話を受けていた二年生の担任教諭が慌ただしく帰り支度をしている。今日は仕上げなければいけない仕事があるから遅くまで残ってやると言っていたのに…
岸の問いかけに、その教諭はこう答えた。
「うちのクラスの生徒が亡くなったみたいなんだ。母親からさっき連絡があって…事故でずっと意識不明だったんだけど今朝心肺停止状態になって、そのまま…本来なら三年なんだけど二年の秋から休学してるからうちのクラスに在籍してたんだけどね。とりあえず病院に行ってくる」
事故…意識不明…そこから栗田恵に行き着くまで恐らく数秒もなかっただろう。
岸はコーヒーを放って美術準備室に全速力で駆け出した。