「…分かった…これはルーマニア語だ…」

電子辞書とにらめっこすること小一時間、谷村が突破口を見出していた。

民話集の続きに記された言語は、乱雑に文字を羅列していたため、どこまでが単語の綴りなのかが分かりにくく、苦戦を強いられていた。だが、谷村は予めヨーロッパに焦点を当てていて、それが功を奏した。

「ルーマニア語?ルーマニアって、どこにあんだよ」

郁が覗き込む。雨は激しさを増す一方で、神宮寺が玄樹達の帰りを心配しながら待っていた。嶺亜はまだ完全に体調が元に戻っていなかったから、栗田の提案により部屋で休んでいた。あと数時間で挙武と一緒に背分神社にこの大雨の中出向かないといけないからだ。

「東欧だよ。ハンガリーとかブルガリアの近くにある共和制国家」

そう言われても郁にはピンと来ない。国名はなんとなく知ってはいたが、何が名産で美味い国だろう…と記憶を探っているとそれは少し反れて別の記憶の引き出しが開いた。

それは全くの偶然で、この企画に参加する少し前に読んだ漫画の内容がそれだったにすぎない。

「そーいやさ、吸血鬼のモデルになった奴がルーマニア人の貴族だったよな」

「これもそうだ…ああ、これもだ。うん…」

郁の呟きには答えず、ぶつぶつと独り言を呟きながら谷村は民話集と電子辞書の画面に視線を行ったり来たりさせている。どうやらトランス状態に入ったみたいで、邪魔をしないよう郁はそれ以上の質問をやめた・

「腹減ったなー…なんか食いもん買いにいきてーなー…」

切ない声を絞り出しながら窓の外を見やると、麓で車が停まるのが見えた。岸くん達が戻ってきたのだ。

だが彼らの表情は冴えない。それに、颯がビニール袋を抱えていたのが気になる。

「渡せなかったんだ、これ…」

中は湿布薬やアイスノン、それに食料だった。空腹だが、さすがにこれをねだるのは倫理に反すると郁は判断し、少しでも明るい話題を…と谷村が翻訳の糸口がつかめたことを話した。

「ホントに!?で、なんて書いてあるの?」

岸くんが食いつくが、谷村は難しい顔をして首を横に振る。

「まだそこまでは…単語を翻訳してるけど、文法とかもあるし意味が分からない。それを繋げてどうにか文章にしようと…」

「ふうん成程…頑張って谷村。期待してる」

岸くんも、よもやここに来て谷村がこんなに役に立つ存在になってくれたことに感動しきりだ。始めは半ば強制的に連れてこられ、帰りたくて仕方がなかったのに…

そうなると、自分も何かせずにはいられない。出来ることはないだろうか…とソワソワしていると、神宮寺が玄樹を連れて帰って休ませてやりたいと言うので、停めておいた車の運転を申し出ることにした。

「…ごめんね、岸くん。帰りは歩かせることになっちゃうけど…」

すでに泣き出しそうな顔で玄樹は頭を下げる。おばさんの家からの帰りも、彼は殆ど声を発さなかった。

「いいっていいって。ゆっくり休んだ方がいいよ。雨の降る日って気が滅入りやすくなるし…神宮寺と一緒にゲームでもやって…」

いいかけて、ゲームなんていう近代的な娯楽がここにあるのだろうか…と岸くんは思い直す。

何か気が紛れることがあればいいのにな…と今更ながらに思いながら送り届けて教会に一旦戻ろうとすると、神宮寺に呼び止められる。

「ちょっとだけ時間いい?あ、帰りながらでもいいからさ」

話なら、玄樹の家にある神宮寺の部屋でも良かったと思うのだがどうやら彼は家にはいたくなさそうだった。やはり居候なので玄樹がああなってしまっては居心地が悪いみたいだ。それを素直に語る。

「…まあもう慣れたとはいえ、やっぱ俺はあそこの家には異物だからな。普段は玄樹が一緒にいてくれるからなんとも感じないんだけどよ…今はちょっと辛いわ」

神宮寺は自分が何故ここに来たのか、それまでの自分が何をしていたのかを覚えていない。彼の記憶は、この背分村で目を覚ましてからのほんの数年しかないのだ。

そのもどかしさを、頭をかきむしりながら吐露する。

「玄樹がいるし、俺はこのままでいいやと思ってるけど…こういう時に痛感するんだよな。俺の帰るべき場所ってどこなんだ、とか。俺を待ってる人がどんな気持ちでいるか、とかな」

「…そっか。そうだな…」

「なあ岸くん、憶測でもいいからなんで俺がここに辿り着いたのか一緒に考えてくんね?偶然辿り着くようなとこでも観光地でもねーし、俺はなんでここに来たのかな…」

神宮寺の瞳は、雨のそのまた向こうを見ていた。自分が何者なのか、どこから来たのか…思い出したいのにそれができないもどかしい思い。村の者ではないのにそこに同化しようとしてそれが出来ないことへの辛さ…

嶺亜たちとはまた違う形で苦悩を抱える神宮寺の肩を抱きながら、岸くんは教会までの道を歩く。皮肉なことに、この数日で少しずつ背分村の地図が頭に入りかけていた。

そして、突然にそれが閃く。

「…行ってみよう」

「え?」

神宮寺がきょとん、とした表情で岸くんを見ていた。

「神宮寺、お前が倒れてたっていうその…土砂崩れのあった現場ってどこ?」

「え…それは…道祖神の近くの…」

「その道に行ってみよう。通行止めかもしれないけど」

「でも、そこ行っても仕方ねーんじゃ…」

そう言った後、神宮寺は一瞬沈黙する。そして、何かを決意したような目を見せて頷いた。

雨で道はひどくぬかるみ、歩きにくかったが足早にそこに向かう。

もうほとんどバッテリーが切れかけの携帯電話で時間を確認すると、4時前だった。雨が降っているとはいえ、いつこれがやむとも知れない。そうなると、日没前に安全な建物内に戻らないとそれこそ覚醒した挙武に襲われてしまうかもしれない危険があるから、できるだけ急いだ方が良さそうだ。

「おいコラお前たちどこへ行く?そっちは通行止めだ」

道祖神の近くにさしかかると、すれ違った村の人が岸くんたちに忠告した。百も承知だから適当に返事をすると、背後でこう怒鳴られた。

「この雨で地盤が緩んでるから土砂崩れ起こすかもしれねえぞ!!命が惜しかったら戻れ!!」

どうする?と岸くんは神宮寺と目を合わせたが、彼の眼は先へすすむことを望んでいるように見えた。

だが雨量が増しているのは確かなようだ。向かう手前に水路のようなものが見えて、そこに勢いよく水が流れていた。それを見ながら神宮寺がこんなことを呟く。

「この水路…水門が閉じられてるからほとんど使われてねえから普段は水なんて流れてねえのにこんなに水かさ増してる。確かにちょっとヤバげな雨だな…」

途端、辺りがフラッシュライトのように照らされる。雷か…?と思う間もなくゴロゴロと低い雷鳴が轟いた。

雨はともかく、雷まで鳴りだすと少々危険だな…と岸くんは思った。

「どうする?土砂崩れが起こったら危険だし、出直すか?」

「…」

神宮寺が黙ったのを、岸くんは自分の質問について迷ったからだと思ったがそうではないようだった。

「…水路…土砂崩れ…」

突然、神宮寺は眼を見開く。そしてそう呟いた。

その時だった。

「…!」

軽い揺れが足下を襲う。ごく小さな地震だ。それでも、不意打ちだったことで少しよろめいてしまう。

「神宮寺?」

よろめきはしたが、倒れてしまうほどではない。だが神宮寺は放心状態で尻餅をついていた。

「おい、大丈夫か?なんか様子おかしいぞ、神宮…」

「あ…あ…」

神宮寺は、ガタガタと震え出す。傘も持っていられず、みるまにずぶ濡れになっていく。そのただならぬ様子に岸くんは自分も傘を持つのを忘れて彼の肩を揺さぶった。

「おい!しっかりしろ!神宮寺、一体どうしたんだよ!?おいってば!!」

「…あ…ああ…!!」

神宮寺の顔が恐怖に歪み、顔色は真っ青だった。小刻みに首を横に振りながら、痙攣はその強さを増していく。

まるでこの世の終わりを見るかのように眼を見開きながら、神宮寺は唇を噛んでいた。どれだけ強く噛んだのか、そこからツー…と一筋、血が滴った。

そこで、地鳴りが響いた。天からではない、確かに地の底から響いてくる揺れだ。

岸くんは咄嗟に身の危険を感じた。土砂崩れが来るかもしれない。だがこんな状態の神宮寺を置いて逃げることも出来ない。

「神宮寺!!このままじゃヤバい!!立て!!安全な所に逃げるぞ!!」

引きずってでもここから遠ざからないと…と岸くんは、依然として震えながら声にならない声を漏らす神宮寺の腕を掴んだ。まとわりつく雨と泥、そして不穏な地鳴りに恐怖心が駆り立てられる。どうにかなってしまいそうなくらい神経が追い詰められ始めた。

そこで天の助けが舞い降りる。

「おい、だから言ったろ!!危険だから早く戻らんかお前ら!!」

さっきの村人が、岸くん達を心配して追ってきてくれた。今の岸くんにはただのおっさんがまるで神様のように見える。泣き出したくなるのをこらえながら岸くんは一緒に神宮寺を抱えてもらうよう懇願した。

岸くんと村人に抱えられながら、まるでうわごとのように神宮寺はこう呟いていた。

「…兄貴…兄貴…ゴメン…」