~三日目~

 

「…っ」

安眠を妨害する強い陽射しに挙武は元々閉じていた瞼をきつく閉じる。背中も痛い。

「よくこんなところで眠れるね」

聞き慣れた声が耳を突いた時にはもう身を起こしていた。今更ながらにせせらぎが聞こえてくる。どうやら河原で寝入っていたらしい。

「毎度毎度ご苦労だな。この俺のために」

「挙武のために、わざわざ朝早くからこんなところまで来たのにもう少し感謝してくれてもいいと思うんだけど」

挙武を見下ろしながら黒服に身を包んだ嶺亜が少しふて腐れた表情を滲ませている。

「頼んだわけじゃないからな」

立ち上がり、肩を鳴らすと嶺亜は浅い溜息をついて遠くを見上げる。白い横顔には珍しく疲れが見えた。昨日神社で分かれた時にはいつもと変わらないように見えたがあれから何かあったのかもしれない。なんとなく問うと、あの炎天下の中を歩いて教会まで戻ったらしい。軽い熱中症になったのだと言う。

「何故そんな無茶をした。体力もないくせに」

「…考え事してたの。でも今日は絶対にそんなことはするなとお父さんに言われてるから」

「だろうな。お前が倒れたらこの村の皆が青ざめる。その自覚はあるくせに何故そんなことをした?」

「挙武には言いたくない」

会話をすっぱりと断ち切って嶺亜は先を進むよう促した。機嫌が悪いようだが挙武には関係のない話だ。構わず挙武は座り込む。

「早く行ってよ。僕は早く帰りたいの」

「今何時だ?そんなに焦るような時間じゃないだろう」

挙武は石を一つ拾って水面に投げた。ぼちゃん、とお約束の音をたてて波紋を広げる。

「それとも、俺といる時間は少しでも減らしたいか?」

「…聞かなくても分かってるでしょ」

「分かってる。だから俺はあえてこうして座ってる。それも分かるだろ?」

「…ホント性格悪い」

「お前には敵わないよ」

言い合いをしていると、後ろから声をかけられる。農家の人は早起きだ。挙武と嶺亜がいるのを見て気になったのだろう。少し探るような視線だった。

挙武は仕方なく立ち上がって足を進めた。この時期に外をうろついてもいいことがないのは分かっている。憎たらしいくらい晴れた青い空には雲一つなかった。

暫く無言のまま二人で道を歩いているとその建物が目につく。早朝だというのに相変わらずおどろおどろしい旧岩橋医院病棟だ。

ふと横を見やると嶺亜も同じ方向を見やっていた。その瞳には若干複雑そうなものが見て取れるが、それを指摘するとまた機嫌が悪くなるだけだろう。

通り過ぎようとすると、人影が踊り出る。

「…よぉ。たまたま目ぇ覚めて外見たらお前らが見えたからよ」

嘘ではないだろう。それを証明するかのように、嶺亜と挙武の前に現れた神宮寺は髪もボサボサでサンダル履きだった。挙武は思わず吹き出したが嶺亜は冷めた表情でそれを見ている。

先を促す嶺亜を無視して挙武は神宮寺に問う。

「玄樹は?まだ寝てるのか?」

「お前今何時だと思ってんだよ。まだ6時過ぎだぜ。寝てるよ。昨日は夜遅くまで勉強してたみたいだしな」

神宮寺の返答に嶺亜がボソっと「僕は5時半に起こされたんだからね」とぼやいた。それを聞こえないフリをしていると、今度は彼が神宮寺に問いかけた。

「…栗ちゃんたち、病棟に閉じ込められたんだってね」

「栗ちゃん?」

変な固有名詞が出てきたことに挙武が疑問符を飛ばすと、神宮寺は嶺亜の問いに答える前に挙武のそれに答えた。

「昨日からこの村に迷い込んだおかしな連中たちのことさ。嶺亜から聞いてねえ?」

挙武は記憶を掘り起こす。そういえばそんなことを言っていたような…

「そうするように命じたのはお前の親父だろ。教会に泊めてやりゃ良かったのによ。最初はそうしたんだろ?」

「あれは緊急事態だったから仕方なくそうしたの。雨も降ってたし挙武は神社から出てこないだろうから大丈夫だと判断した。でも昨日は晴れてたし、8時過ぎには挙武の徘徊が始まってたから絶対に外に出すわけにはいかなかったから。

教会じゃ内鍵を閉めても万が一どこからか出られたらおしまいだし、窓も開けられるかもしれない。その点玄樹の家の病棟の地下室は、出入り口の扉さえ固く閉じていればその間は絶対に外に出られないからそっちの方が安全だってお父さんが判断したんだよ」

「ふうん…成程」

挙武と神宮寺は同時に頷いた。シンクロした動きがお互い可笑しくてまた吹き出してしまう。じゃれ合おうとすると嶺亜がうっとおしそうにそれを止めた。

「早く行くよ。僕はこの服着てるだけでキツいんだから」

「そんなに行きたいんなら先に行ってろよ。俺は自分でちゃんと家に帰れる」

「だから何度も言わせないでよ。挙武を家に送り届けるまでが僕の役目なの」

苛立ちを含ませた嶺亜の声に、神宮寺も肩をすくめる。

「お前何イラついてんの?アノ日かぁ?」

「うるさい。さっさと部屋に戻って玄樹の世話してきなよ。あと次下ネタ言ったら破門にするから」

「おーおーこえー。神父様に睨まれちゃこの村にいられねーもんな。くわばらくわば…」

嶺亜に軽口を叩いていた神宮寺の表情がさっと変わる。それまで余裕めいていたがばつが悪そうに片目を細めて下唇を噛んだ。

「おお…嶺亜様…それに挙武様も…ご苦労様でございます…」

嗄れた声の持ち主は、玄樹の祖母で岩橋医院の先代院長だ。旧病棟がまだ閉鎖される前から先々代と共に女医として病院を切り盛りしていたやり手だと聞く。この村でもかなりの権力を持ち、教会と羽生田家に次ぐ権限を有している。

年寄りは早起きだ。きっと挙武たちの声を聞いて覗きに来たのだろう。

「神宮寺、嶺亜様と挙武様にご挨拶とはお前にしては感心だね」

「は…えっと…はい…」

挙武は笑いをこらえるのに必死だった。神宮寺は玄樹の祖母が大の苦手なのである。鬼ババアなんて可愛いもんじゃない、と常々ぼやいていた。やっかいになっている手前言いなりにならざるを得ないのである。

「挨拶なんてされてません。下ネタでからかわれたから注意しただけです」

しれっと嶺亜が答えて、神宮寺の顔が青ざめた。全く、いい性格してやがる…と挙武が呆れていると神宮寺は持てる限りの語彙力で言い訳を始めた。嶺亜はしてやったりといった表情である。

「大変失礼いたしました嶺亜様…神宮寺の躾は玄樹に一任しておりましたが…私めからもようく言い聞かせておきます。全く…これだからよそ者を置くことに反対したのに…」

「そんな怒らないでやって下さい。嶺亜の機嫌が悪いから神宮寺もそうせざるを得なかったわけで…俺からも謝っときますから」

挙武が悪友のために一肌脱ぐと、神宮寺は救い主を見る目で挙武を見つめてきた。まあいいってことよと目配せをすると、嶺亜がそれをじろりと睨みながら

「父が昨日無理を言ったそうですみません。栗…よそから来た人たちはまだ病棟にいますよね?」

「いえいえ神父様のお頼みでしたら喜んで。ええ、まだおります。なんでも道祖神の道が塞がっているそうなのでそれが復旧するまでとのこと。こんな時期ですから間違いがあってはいけませんもの」

「そうですか。彼らと少し話をしたいので案内していただく訳にはいきませんか?」

挙武は嶺亜を見る。早く行きたい、と言ったくせになんでこんな道草をするんだと訊きたかったがそうする前に快諾した玄樹の祖母に案内されて病棟に寄ることになってしまった。

歩きながら後ろで神宮寺が「覚えてやがれ嶺亜…」と恨めしそうに呟くのを、挙武は笑いを押し殺しながら聞いた。